前編 薔薇色のパノプティコン
サルトル「地獄とは他人である」
朝、網膜に投影されるアラームが、柔らかなピンク色の光を放ちながらカナタの意識を覚醒させた。
「おはようございます、カナタさん! 昨夜の睡眠スコアは98点。あなたの深い休息が、街の平穏を育んでいます。今日も一日、あなたの徳を世界に分け与えてください!」
カナタは重い瞼を持ち上げた。枕元に置かれたスマートグラスを装着した瞬間、視界は情報の洪水に飲み込まれる。部屋の隅々、空気の粒子に至るまでが「善意」という名のデータに変換されていた。壁に掛かった一枚の風景画には、見知らぬ市民からの「この絵を選ぶ審美眼に感動しました!」という称賛タグがびっしりと貼り付いている。
ここは相互称賛都市「ルミナス」。
ここでは「無視」や「批判」は物理的に存在しない。市民全員がスマートコンタクトレンズかグラスを着用し、互いの言動を24時間体制でスコア化し、褒め称え合う。街の至る所に設置された情動センサーは、市民の微細な表情の変化、血流、心拍数までを読み取り、それを「善行」としてアーカイブしていく。
カナタが洗面台に立ち、顔を洗う。その仕草にさえ、即座に評価が下る。
【判定:清潔への真摯な態度。スコア:+5。現在のランク:聖・市民】
鏡の中に映る自分。そこには、ルミナスが規定する「理想的な市民」の顔があった。整えられた髪、穏やかな目、微かな微笑。しかし、カナタはその鏡像を見るたびに、内臓を冷たい指で撫でられるような嫌悪感に襲われる。
「……これが、俺なのか?」
呟きは、即座にデバイスによってフィルタリングされる。「自己への深い内省。哲学的探求心に敬意を表します」というAIの賞賛メッセージが、カナタの疑問を「善きもの」として塗り潰した。
サルトルはかつて、**「まなざし」**の恐怖を説いた。
他人が私を見る時、私は自分の世界の中心であることをやめ、他人の世界の「客体(物)」に成り下がる。ルミナスにおいて、その恐怖は「善意」という糖衣に包まれて肥大化していた。カナタは一歩外に出れば、見知らぬ通行人から「歩き方が規律正しい」「信号を待つ姿が忍耐強い」と、視線の礫を浴びせられる。
「カナタさん、おはよう!」
隣人のミサが、花壇に水をやりながら声をかけてきた。彼女の頭上には、これまでに獲得した称賛スコアが後光のように輝いている。
「おはよう、ミサさん。今朝のあなたの水やりは、まるで乾いた大地に愛を注ぐ女神のようだ。あなたの慈悲深さに、私は救われる思いです」
カナタの口からは、練習通りの称賛が滑らかに溢れ出した。心は微塵も動いていない。ただ、センサーが求める「正解」を筋肉が模倣しているだけだ。ミサは頬を赤らめ、幸福そうに目を細めた。その瞬間、彼女のデバイスからカナタへ「最高の隣人賞」のバッジが贈られる。
地獄だ、とカナタは確信していた。
ルミナスにおいて、人間は「自由な主体」であることを許されない。他人の眼差しが望む「聖人」という型に、自らを嵌め込み続ける苦行。ここでは、怒る自由も、悲しむ自由も、あるいは誰かを嫌う自由さえも、称賛という名の暴力によって抹殺されている。
サルトルが描いた劇『出口なし』の登場人物たちは、死後の世界で互いを監視し合い、永遠に自己を正当化し続ける地獄にいた。カナタにとって、この街はまさにその現世版だった。
彼は、自分が自分であるための唯一の手段として、スコアを意図的に下げる行為に耽るようになった。深夜、誰もいない路地裏で顔を歪め、中指を立てる。しかし、それさえも監視カメラは「既存の価値観への果敢な挑戦。アバンギャルドな精神に+10」と評価した。
逃げ場はなかった。
称賛は、存在を閉じ込める檻だった。
カナタは決意した。この「薔薇色のパノプティコン」から、たとえそこが荒野であっても、誰の目も届かない場所へと逃げ出すことを。




