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思考の檻に、星を飾る  作者: サバ味噌饅頭
第一章:刻流のほとりで

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前編 琥珀の中の残像

ヘラクレイトス「同じ川に二度入ることはできない」

「同じ川に二度入ることはできない」

 紀元前五世紀、エフェソスの哲学者ヘラクレイトスが遺したその言葉を、物理学者である秋庭あきばは、傲慢にも「技術不足ゆえの言い訳」だと切り捨てていた。


 秋庭の地下研究室は、地上を走る都市の喧騒から隔離された、沈黙の墓標のようだった。コンクリートの壁は冷たく湿り、空気にはオゾンと古びた電子基板の焦げたような匂いが混じっている。その中央に鎮座するのは、巨大な真鍮製のリングと、複雑な配線がのたうつ怪物のような装置「クロノス・ダイブ」だ。

 三年前、最愛の妻・結衣を不慮の事故で亡くして以来、秋庭の時計は止まったままだった。彼は大学の籍を捨て、私財を投じ、人生のすべてをその針を逆回転させることだけに捧げてきた。


「計算は完璧だ。座標、量子状態、エントロピーの逆転率。すべてがあの日の、あの午後二時に収束する」


 秋庭の指先は、極度の緊張と睡眠不足でわずかに震えていた。彼はモニターに並ぶ膨大な数式の羅列を、祈るような眼差しで確認する。彼にとっての聖域、唯一の目的地は、三年前の六月十四日。結衣が最後に笑い、そして永遠に失われたあの日だ。


 装置が駆動を始めると、重低音が床を揺らし、空間が歪み始めた。秋庭は防護スーツのヘルメットを閉じ、真鍮のリングの奥に広がる「イベント・ホライゾン」へと足を踏み出す。視界が真っ白に塗りつぶされ、全身の細胞が一度解体され、再び強引に繋ぎ合わされるような、凄まじい嘔吐感を伴う感覚。

 次に目を開けたとき、彼は「あの日」の光の中に立っていた。


 視界が開けると、そこには懐かしい初夏の陽光が降り注いでいた。

 六月の風は、雨上がりの湿気を含みつつも爽やかで、街角のベーカリーからは焼き立てのバゲットの香ばしい匂いが漂ってくる。遠くで子供たちの甲高い歓声と、公園の噴水が上げる水音が重なり合って聞こえた。

 秋庭は、呼吸を整えるのももどかしく、テラス席のあるティーサロン『ラ・セーヌ』へと走った。


 いた。


 白いノースリーブのワンピースを着た結衣が、入り口近くのテラス席に座っている。彼女はまだこちらに気づかず、膝の上に広げた文庫本に目を落としていた。風が彼女の細い髪を一筋さらい、彼女はそれをいとおしそうに指で耳にかけた。

 秋庭の胸に、熱い塊が込み上げる。三年間、夢にまで見た光景。写真の中でしか会えなかった彼女が、今、そこで呼吸をしている。


「結衣……!」


 秋庭はテーブルに駆け寄った。椅子がガタリと音を立てるのも構わず、彼女の正面に腰を下ろす。

 だが、結衣が顔を上げた瞬間、秋庭の全身を正体不明の違和感が駆け抜けた。


「あら……? すみません、どちら様ですか?」


 結衣は驚いたように目を丸くし、わずかに身を引いた。その仕草は、見知らぬ男に声をかけられた戸惑いに満ちている。

 秋庭は凍りついた。計算上、この瞬間の彼女は自分と待ち合わせをしており、僕の姿を見ればすぐに「遅かったじゃない」と、花が咲くような笑みを浮かべるはずだった。


「僕だよ、結衣。秋庭だ。冗談はやめてくれ、少し……道が混んでいたんだ」

「アキバ……さん? どこかでお会いしましたっけ。お名前はどこかで聞いたような気がしますけれど……あ、もしかして、落とし物か何かですか?」


 彼女の瞳は、確かに結衣のものだった。透き通るような茶褐色の彩彩。しかし、その奥にある光が、秋庭の記憶の中にあるものとは決定的に異なっていた。彼女が好んでいたアールグレイの香りはせず、テーブルのカップからは、なぜか記憶よりもわずかに苦い、嗅いだことのないアッサムの香りが立ち上っている。


 秋庭は周辺を見渡した。

 テラスの植え込みの花の色、通り過ぎるバスの広告、隣の席で新聞を読む老人の眼鏡の形。すべてが、彼の記憶にある「あの日」と微妙に、だが致命的に食い違っている。

 計算は正しかった。座標も、日付も、時間も。しかし、彼は気づいていなかった。

 流れる時間は、一滴の水の集合体ではない。それは一瞬ごとに形を変え、二度と同じ組成を保たない流体なのだ。


「結衣、君は僕を愛しているはずだ。僕たちはここで待ち合わせて、この後、あの映画を観に行く約束をしていただろう?」

「映画……? すみません、人違いではありませんか? 私は今日、一人で本を読みに来ただけなんです」


 結衣の言葉は、氷の楔となって秋庭の心臓を貫いた。

 目の前にいるのは、愛した女性の形をした「別の何か」だった。あるいは、彼が入り込んだのは、限りなく似ているが、彼がいた世界とはわずかに異なる位相の過去だったのかもしれない。


 秋庭は絶望に打ちひしがれ、彼女の返答を待たずに立ち上がった。

 背後で結衣が不思議そうに自分を見送る気配を感じながら、彼は再び「現実」への帰還スイッチを起動する。


 研究室に戻った秋庭を待っていたのは、冷え切った電子機器の動作音だけだった。

 彼は床に膝をつき、拳を血が滲むほどコンクリートに叩きつけた。


「なぜだ……何が間違っていた。エントロピーの揺らぎか? 量子的な不確定性か?」


 彼はモニターに映し出される、三年前の自分の記憶データを睨みつけた。

 そこには幸せそうに笑う結衣の映像がループしている。だが、先ほど会った「彼女」は、この映像の中の誰よりも美しかったが、誰よりも遠かった。


 秋庭は悟った。過去という名の川に足を浸すたび、彼自身の存在が巨大な不純物となり、清らかな流れを乱してしまうのだ。彼が「あの幸せ」を求めて手を伸ばせば伸ばすほど、その指先が触れた瞬間に、過去は波紋を描いて崩れ去る。


「まだだ。まだ諦めないぞ」


 秋庭の瞳に、狂気にも似た光が宿った。

 完璧な再現が不可能なら、無限に繰り返せばいい。何万回、何億回と試行を繰り返せば、いつか確率の針の穴を通るように、一ミクロンのズレもない「本物のあの日」に辿り着けるはずだ。


 彼は再びキーボードを叩き始めた。

 止まった時計を動かすための、果てしない地獄のような試行錯誤が、ここから始まる。

 秋庭はまだ知らなかった。自分が救おうとしているのは結衣ではなく、彼女を失って空っぽになった自分自身の「記憶の檻」であることを。


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