異世界転生への誘い
◇ 突然の幕引きと異世界の光
田中 耕作、52歳。しがない中間管理職。今日も残業でくたくたになり、最寄り駅からの家路を急いでいた。
ふと、背後からけたたましいブレーキ音と、周囲の人々の悲鳴が聞こえた。一瞬、何が起きたのか理解できなかった。次の瞬間、全身に衝撃が走り、意識が遠のく。
(ああ、こんなところで...か。娘の結婚式、見たかったな...)
それが、田中耕作の人生の最後の思考だった。
◇ 目覚めと白き空間
次に目覚めた時、耕作は困惑した。痛みは一切なく、あるのは不思議な浮遊感と、目がくらむほどの白い光。
「…どこだ、ここ?」
辺りを見回しても、壁も天井もない。ただただ、柔らかな光に満たされた、無限に広がる空間があるだけだ。まるで、巨大な綿菓子の中にいるような心地だった。
その空間の中心、ちょうど耕作の目の前に、一人の女性が立っていた。
「ようこそ、田中耕作。あるいは、もう『元』田中耕作、と言うべきかしら?」
透き通るような銀色の長い髪、星の煌めきを閉じ込めたような深い青の瞳。彼女の纏う純白のドレスは光を放ち、その姿は、この世の理を超越した至高の美を体現していた。
耕作は、瞬時に理解した。ここは、自分の知る世界ではない。そして、目の前の女性は、人ではない、と。
「…あ、あなたは、まさか…女神様、ですか?」
女神は優雅に微笑んだ。
「ええ。この宇宙の、数多の星々を管理する一柱。私の名はアースティア。あなたの魂を、緊急でこちらの領域に召喚した張本人よ」
◇ 異世界への招待
耕作はゴクリと唾を飲んだ。先ほどの事故の記憶が鮮明に蘇る。
「…緊急、ですか。あの、つまり…私は、死んだ、ということでしょうか」
女神アースティアは、悲しげに瞳を伏せた。
「その通りよ。不運な事故だった。本来のあなたの寿命からは、まだ随分と早い。これは、私の管理が及ばない領域で起きた、世界の綻びによるもの。だからこそ、私はあなたに詫びなければならない」
アースティアは、スッと優しく手を差し出した。
「そこで、提案があるの、田中耕作。あなたは、私の管理する世界へ、特別な魂として転生する機会を得るわ」
耕作は目を丸くした。
「転生…? 異世界、ですか?」
「ええ。魔法と剣、精霊と魔物が息づく世界。『アルカディア』と呼ばれる、美しい星よ。あなたの魂には、不当に奪われた人生の代償として、特別なギフト、すなわち、チート能力を付与するつもり。もちろん、望む姿、望む境遇を選んでも構わない」
「どうかしら? 52年のサラリーマン人生を終え、新たな世界で、もう一度、あなたの物語を紡いでみない?」
女神アースティアの言葉は、まるで甘い誘惑のように、耕作の心に響いた。疲労と後悔に満ちた過去の人生と、目の前に差し出された、希望に満ちた異世界の未来。
耕作は、深く息を吐き、目の前の銀髪の女神を見つめ返した。
◇ 経験者(読者)の慧眼
女神アースティアの甘美な誘いに、耕作は動じることなく、しかし真剣な眼差しで答えた。
「…お断りします」
場の空気が一瞬で凍り付いた。アースティアは、その完璧な微笑をピタリと固まらせた。
「あの、どういうことかしら?」
耕作は静かに続けた。彼の脳裏には、夜な夜な読み漁った、数多の「異世界転生」小説の知識が駆け巡っていた。
「女神様、申し訳ありませんが、その『アルカディア』とやらの世界へ行くのは、私にとってリスクが高すぎます」
アースティアの青い瞳に、わずかな動揺が走る。
「リ、リスク? 私が特別なチート能力を付与すると言っているのよ?」
「ええ、チート能力は魅力的でしょう。ですが、それ一つで全てが解決するほど、異世界は甘くないと、私は知っています」
耕作は腕を組み、畳みかける。
「まず、身元保証。私はあの世界で言えば『浮浪者』同然。身分証もなければ、その世界の言語や一般常識もまるで分かりません。まともな職業につけますか? そもそも文字も読めないでしょう」
「次に、初期資金。手ぶらで放り出されたら、まずは日々の食事と寝床の確保から始めなければならない。50代の疲れたおっさんに、そんなサバイバルをやり直す気力はありません」
「そして、文明レベル。魔法はあっても、清潔な水は? 医療は? 衛生環境は? 私が暮らした日本は、世界でも類を見ないほど豊かな国です。便利な生活に慣れ切った私にとって、中世レベルの暮らしは、チート能力の有無に関わらず、ただただ苦行でしかありません」
耕作はきっぱりと言い切った。
「不運な死への代償として、リスクの高い新生活を強要されても、割に合いません。私はこの提案を受け入れる気にはなれません」
◇ 女神の焦り
アースティアは絶句していた。
彼女の領域に召喚される魂は、突如の死に戸惑い、あるいは現状の人生に未練や不満を抱えている者が大半だ。ましてや、「チート能力」と「第二の人生」という黄金のパッケージを提示されれば、誰もが歓喜して飛びつくはずだった。
彼女の管理する宇宙のシステム上、一度召喚した魂を、そのまま元の世界に戻すことはできない。不運な事故で魂の寿命を狂わせてしまった場合、その魂を安定した世界へ送り込む『転生プログラム』こそが、彼女に許された唯一の救済措置なのだ。
(まさか、断られるなんて! チートを一つじゃ不満だというの?! ど、どうしよう。このまま放置すれば、この魂は不安定になり、世界の理を乱しかねない…!)
アースティアの完璧な表情が崩れ始める。銀色の瞳に宿る焦燥が、耕作にもはっきりと伝わってきた。
「お、お待ちになって、田中耕作! 少し待って頂戴!」
彼女は優雅さなど捨て去り、必死の形相で前に出る。
「ご、ご不満はよく理解したわ。ええ、初期資金、言葉の問題、身分…その全てを解消すれば良いのね? 私の不手際だわ、ごめんなさい!」
「わ、分かった! チート能力は一つではないわ! あなたの望むものを、可能な限り複数付与しましょう! それに加えて、転生時の初期資金として、その世界の最高額硬貨を、そうね…一生遊んで暮らせるくらいは用意するわ!」
「そして、身分! あなたを孤児として適当なところに配置するのではなく、有力貴族の次男あたりにしましょう! それなら教育も受けられるし、身元も確かでしょう! さあ、これでどうかしら? ほら、この条件なら文句はないでしょう?」
アースティアは、まるでセールスの最終段階で必死になる営業マンのように、前のめりで耕作に訴えかけた。彼女の額には、うっすらと冷や汗が滲んでいた。
◇ 再度の拒絶と「赤ちゃんプレイ」論
アースティアの必死の懇願に対し、耕作は首を横に振った。貴族の次男、一生分の金、複数のチート――破格の条件だ。しかし、彼は最も重要な問題点を指摘する。
「女神様、誠にありがたいご提案です。初期資金と身分、チートまで、完璧に私の懸念を払拭していただきました」
耕作は、白い空間に響くほど大きなため息をついた。
「ですが、私はもう一度、赤ん坊から人生をやり直すのは、勘弁願いたい」
アースティアは目を丸くする。
「え? なぜです? 新しい人生の始まり、フレッシュなスタートでしょう?」
「フレッシュ?とんでもない」
耕作の顔は、かつての残業続きで疲弊した表情に戻っていた。
「私はもう52歳なんです。人生の苦労も、喜びも、酸いも甘いも知っている。その精神で、ハイハイから始めろと? 離乳食を食べろと? オムツ交換に耐えろと? 私には、赤ん坊のふりをする『赤ちゃんプレイ』の趣味は、残念ながらありません」
彼は両手を広げてみせる。
「しかも、考えてみてください。見た目は無垢な赤ん坊なのに、中身は『おっさんの田中耕作』ですよ? 知性を持った新生児なんて、新しい両親…貴族のご夫妻は、きっと戸惑うどころか、気味悪がるでしょう。精神の歪んだ子だと、ろくに愛情も注いでもらえず、変人扱いされて育つのがオチです」
耕作は、自分の理論的で現実的な推論に、改めて満足したような顔をした。
「要するに、人生を最初から巻き戻すのは、私にとっては苦痛でしかない。いくら豪華な特典があっても、スタートラインがオムツでは、割に合わないと判断します」
◇ 女神、極限の焦燥
二度目の拒否、しかもその理由が「赤ん坊からの再スタートは面倒くさい」という、あまりにも現実的かつ世知辛いものだったため、女神アースティアの顔色は青ざめた。
「ま…また断るなんて! なぜなの?! 貴族の次男よ! 異世界よ! チート能力よ!」
アースティアの周囲を漂う光の粒が、激しく不規則に明滅し始める。彼女の銀色の髪は乱れ、コントロールを失ったかのようにフワフワと浮遊した。
(嘘でしょ…! こんなに交渉慣れした魂は初めてだわ! 一般的な召喚者なら、今頃は「最強の剣と魔法を!」と目を輝かせているはずなのに!)
彼女の焦燥は限界に達していた。この魂を早く安定させ、アルカディアへ送り込まなければ、彼女自身の管理システムにまで不調をきたしてしまう。
「わ、分かったわ! 分かったから、頼むから転生して頂戴、田中耕作! 私の不手際をどうか水に流して!」
アースティアは、もはや神々しい威厳を完全に失っていた。彼女は頭の中で、この魂を強制的に送り込むための裏技を必死に検索する。
「赤ん坊が嫌…赤ん坊が嫌なのね! そうね、その通りだわ! 経験豊富な魂にとって、一からの育児は苦痛でしかない!」
彼女は閃いたように、人差し指をピンと立てた。
「では、こうしましょう! 再スタートはさせない! あなたの魂を、ある程度成長した肉体に『憑依』させるわ!」
アースティアは必死に提案を続ける。
「具体的には、そうね! あなたが最も活動的だった年齢、30歳~40歳くらいにしましょう! その年齢の、不幸な事故で空席になった優秀な肉体に、あなたの魂を挿入するのよ!」
「そうすれば、煩わしい赤ん坊時代はスキップできる! しかも、すでにその世界の言語と常識がインストールされた状態で、貴族の次男として目覚めることができる! チート能力も、一生分の資金ももちろん健在よ!」
アースティアは、崩れかけた微笑みを無理やり作り、息を切らしながら耕作の返事を待った。
◇ 駆け引きの始まりと「30歳」の壁
アースティアの「成長した肉体への憑依」という提案に、耕作は初めて、真剣に転生を考慮する表情を見せた。
「……なるほど。赤ん坊時代をスキップできるのは、確かに魅力的です。『憑依』であれば、既に言語や常識も肉体に馴染んでいる、と」
耕作は顎に手を当て、深く考え込む。彼の心は、「転生拒否」から「有利な条件で転生」へと傾き始めていた。
「ですが、30歳から40歳…ですか」
耕作はそう呟き、渋い顔をした。
「私の人生経験から言うと、30代というのは『もう人生のレールがある程度敷かれてしまっている』年齢なんですよ。貴族の次男だとしても、周囲の期待や、すでに積み上げてしまった人間関係、派閥争いなどに、否応なく巻き込まれる。特に空席になった肉体であれば、急に人格が変わった私に、周囲は疑念を抱くでしょう」
彼はピシャリと人差し指を立てた。
「せっかくチート能力をもらうなら、ある程度自由に、自分自身の意思で人生を設計したい。30歳では、もう『しがらみ』が多すぎる。それこそ、前の持ち主の尻拭いまでさせられかねません」
アースティアは、この中年男性の現実主義と計算高さに、額の冷や汗がさらに増えるのを感じた。しかし、これは転生を受け入れる前の、最後の値切り交渉だと直感した。
(しめた…! 断ってはいない! これで、後は年齢だけ!)
◇ 女神の譲歩と駆け引き
アースティアは、もはや神々しい権威などかなぐり捨てて、一押しを図る。
「た、田中耕作! では、あなたの望む年齢を言って頂戴! 私はもう、これ以上この魂を彷徨わせておくわけにはいかないの!」
「そうですね…。しがらみがなく、人生の進路を自分で決められる年齢…となると」
耕作は口を開きかけたが、すぐに言葉を飲み込んだ。彼は経験豊富なサラリーマン。最初に自分の希望を伝えるのは悪手だと知っている。
「…そうですね、もう少しお若い方が、色々と都合が良いのは確かですが」
彼の言葉尻を捉え、アースティアはたたみかける。
「分かったわ! では、20歳はどうかしら?!青年ですね! 20歳ならば、成人として認められているでしょうし、貴族の子弟なら大学を卒業するかしないか、という頃合い。まだ人生のレールは完全に固まってはいないはず!」
アースティアは、これなら文句はないだろうと、必死に訴えた。
しかし、耕作は首を傾げる。
「うーん。20歳、悪くはないですが、まだ『前の持ち主』の交友関係や過去の失敗が、それなりに影響してくる年齢ですよ。それに、異世界の教育水準で、20歳の貴族がどれだけまともに自立しているか…」
「それに、私としては、新しい世界で、新しいスキルやチート能力の訓練に充てる時間が欲しい。20歳では、成長の余地がもう少ないでしょう」
耕作は、ふと遠い目をした。
「10代…10代くらいが一番良いんです。まだ人生の方向性が決まっておらず、体力もあって、身体的な成長も望める。新しいことを覚えるのにも適しています」
◇ 15歳での合意
アースティアは、耕作の言葉に、もう諦めの色を滲ませた。彼女のシステムは、このわがままな魂を早く安定させろと警鐘を鳴らしている。
(10代…!? 完全に我が儘だわ! でも、これ以上交渉で時間をかけるのは危険すぎる!)
「…わ、分かりましたわ…!」
女神アースティアは、敗北を認めるように大きく肩を落とした。
「あなたという魂は、本当に厄介ね…。では、間の15歳でどうかしら?!15歳! 15歳ならば、思春期。精神的に不安定になりやすい時期だからこそ、魂が入れ替わっても、周囲は『反抗期』や『急な成長』で片付けやすい! 義務教育は終えており、文字や常識は身についている。それでいて、まだ人生は白紙よ!」
女神は切羽詰まった表情で、最後の切り札を提示した。
耕作は、満足そうに頷いた。
「15歳…。思春期の反抗期を利用して、別人格になっても不自然ではない、と。なるほど、理にかなっています」
彼は軽く咳払いをした。
「分かりました、女神アースティア。その条件で、転生を受け入れましょう。貴族の次男、15歳の肉体へ、複数のチート能力と一生分の資金を携えて、ですね?」
アースティアは、安堵から力が抜け、その場にふわりと座り込んだ。
「え、ええ…! 全てその通りよ! やっと…やっと了承してくれたわ…!」
交渉は成立した。疲れたおっさんの狡猾さが、異世界の女神を打ち負かした瞬間だった。
◇ 最後の確認と女神の謝罪
女神アースティアは、ようやく成立した転生契約に安堵し、大きく息をついた後、再び姿勢を正した。
「ありがとう、田中耕作。あなたの要求は、私の権限のほぼ限界を突くものだったけれど、これでようやく私の不手際を清算できるわ」
彼女の表情は、先ほどの焦燥から一転、穏やかな、そしてどこか哀しげなものに変わっていた。
「最後に確認させて。あなたは、本当にこれで良いの? 貴族の次男、15歳の肉体への憑依。複数のチート、そして莫大な初期資金。この、『アルカディア』という世界で、新しい人生を歩む覚悟はできたかしら?」
耕作は、白い空間を見回し、そしてアースティアの顔を見た。その目には、諦めと、ほんのわずかな期待が混じっていた。
「覚悟、ですか。…正直に言えば、もう家族に会えないという寂寥感はあります。妻と娘には、心配をかけるでしょう」
彼は静かに続けた。
「ですが、アースティア様。あなたは仰いましたね。私の人生は、不当に奪われた、と。もう、元の日本には戻れない。ならば、この、貴族の次男、15歳という『豪華なセカンドチャンス』を手にしない手はないでしょう」
「元の世界での私は、しがない中間管理職。疲れ果てた52歳のサラリーマンでした。新しい人生では、しがらみや忖度とは無縁に、自分のためだけに生きてみようかと思います」
耕作は、どこか吹っ切れたような笑みを浮かべた。
「ええ。もう迷いません。新しい人生を始めます。…転生させてください」
◇ 女神からの餞の言葉
その言葉を聞き、アースティアは深く頭を下げた。
「…本当に、ごめんなさい。田中耕作。あなたの人生を不当に終わらせてしまったこと、心からお詫びするわ」
「もう、結構です。あとは、私にとって最高のチート能力を選ばせていただければ、それで」
女神は顔を上げ、優しく微笑んだ。その微笑みには、慈愛が満ちていた。
「ありがとう。それと、餞の言葉を一つだけ。あの世界は、美しいけれど、同時に厳しい場所よ。力のない者は、すぐに踏み躙られてしまう」
「あなたが、チート能力を選び、貴族の身分を得たとしても、田中耕作という一人の人間としての知恵と経験は、決して手放さないで頂戴」
「52年間、この世界の理不尽と戦い続けてきた中間管理職のスキルは、剣や魔法よりも、きっと役に立つ時が来る。新しい人生、存分に謳歌して。そして、どうか幸せになって」
耕作は、アースティアの言葉に、少し照れくさそうに鼻を掻いた。
「…中間管理職のスキル、ですか。そうですね。根回しと責任転嫁は、異世界でもきっと役に立つでしょう」
◇ 決定:女神からの「てんこ盛り」ギフト
「それでは、アースティア様。準備をお願いします」
「ええ。では、最後に能力の決定をしましょう。あなたの転生後の世界を、最高のものにするために」
女神アースティアは、白い空間に漂う膨大な魔力のようなものを集め始めた。彼女は、先ほどの駆け引きで疲弊しきっていた。この魂を納得させ、確実に送り出すため、もはや出し惜しみはしないと決意した。
「田中耕作。本来、不当に奪った人生の代償として付与できるチート能力は一つだけ。ですが、あなたの指摘はあまりにも的確だったわ」
アースティアは、申し訳なさそうに、そしてどこか諦めたように微笑んだ。
「これまでの私の不手際、そして、あなたの諦めきった転生への再出発に対し、私からの最大限の保証をさせてもらうわ」
「あなたは能力を選ぶ必要はない。私が、転生後の世界で絶対に困らないよう、あらゆる状況を想定して、てんこ盛りにして差し上げる!」
アースティアは、自身が集めた光の塊を、耕作の魂に向けて一気に放出した。その光は、彼の魂に吸い込まれていく。
「まず、言語と常識の問題解決は当然。全言語理解と異世界知識の自動習得を付与するわ!」
「次に、戦闘・成長能力。あなたがサバイバルに困らないように。無限の魔力、全属性魔法適性、そして、経験値の概念を覆す超速成長を!」
「さらに、健康と体力維持のために、究極の自己治癒能力と、年齢固定。これで、15歳になったあなたの肉体は、病気も老化もしないわ!」
女神は、流れるように次々と強力なチート能力を宣言していく。その一つ一つが、小説やゲームの世界なら垂涎の能力ばかりだ。
「最後に、あなたの人生の自由を確保するために。異空間収納を容量無制限で付与するわ。もちろん、莫大な初期資金も、その中に貴金属と換金性の高い魔道具の形で収納しておく!」
彼女は疲労困憊といった様子で、最後に付け加えた。
「これで、私の権限で付与できる最強のパッケージよ。貴族の次男、15歳の肉体、全チート能力、莫大な資産…もう、異世界転生者としてはこれ以上ない、完璧な状態ね」
「あとは、あなた自身の中間管理職の知恵で、存分にしがらみのない人生を楽しんで頂戴!」
光の奔流が収束し、耕作の魂は黄金に輝き始めた。彼は、これほどの超絶特典を、自分が断り続けた結果として手に入れたことに、満足感と戸惑いを同時に覚えていた。
「…アースティア様。そこまでしていただき、感謝します。こんなに大盤振る舞いされては…もう、何も文句はありません」
アースティアは、安堵から深いため息をつき、微笑んだ。
「さあ、ゲートを開くわ。良い旅を、新しい人生を、田中耕作」
白い空間が裂け、虹色に輝くゲートが開かれる。耕作の魂は、その光に吸い込まれていった。
◇ 女神の小さな悪戯
女神アースティアは、魂が完全にゲートを通過し、ゲートが閉じるのを見届けるまで、その場に立ち尽くしていた。
「ふう…」
彼女は大きく息を吐き、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。
(まったく、なんという交渉上手のオッサンだったことか! 転生を拒否し、赤ちゃんプレイを拒否し、年齢指定までしてくるなんて! 私の権限を限界まで使わされたわ。おかげでこの『魂の管理領域』のエネルギー消費量が、今月の許容量を大幅に超えてしまったじゃない!)
アースティアは両手で顔を覆い、疲労と、権威を失墜させられたことへの悔しさを感じていた。
「確かに、不運な死の原因を作ったのは、この宇宙の理の綻び、すなわち私自身の管理の隙だった。だから最大限の保証をするのは当然だわ」
「でも、あそこまで『赤ん坊は嫌だ』だの『しがらみがどうだ』だのと、完璧な論理で畳み掛けられ、追い詰められるのも、女神として納得がいかないわね!」
アースティアは、自分の敗北に腹を立てた。彼女は、先ほど耕作の魂に送り込んだ「てんこ盛りチートパッケージ」の接続を一瞬だけ再起動させた。
そして、彼女は最高のチート能力のリストをそっと開き、その中の一つに、「ほんの少しだけ」、特殊な制約を上書きした。
「お望み通り、『しがらみ』とは無縁の、自由な人生を贈ってあげるわ。ただし、あなたのその『オッサン魂』と『中間管理職の知恵』を、最大限に活かせるような形でね」
アースティアは、最後にゲートが閉じた空間に向かって、小さく、しかし楽しげな声で囁いた。
「せいぜい、『根回しと責任転嫁』を駆使して、貴族の次男という身分で、自由を手に入れなさいな、田中耕作」
そして、彼女は優雅さとは程遠い、極めて人間的な、悪戯が成功した時のように、ニヤリと笑った。
◇ 転生、そして15歳の現実
田中耕作――もとい、「貴族の次男、15歳の肉体」の意識が浮上した。
(うっ…頭が痛い…)
体の節々は痛まず、むしろ清々しいほどの若さと活力に満ちていた。しかし、頭の中には、まるでパソコンにデータをインストールした後のように、膨大な情報が詰め込まれていた。
「……これが、アルカディアの言語と常識…」
目覚めた瞬間から、頭の中に流暢な異世界の言語と、この世界の基礎知識が満載されていた。女神アースティアが言った『異世界知識の自動習得』の効能だろう。
耕作は上半身を起こす。場所は、豪華な寝台。天蓋付きのベッド、天井には精巧な彫刻、壁には見事なタペストリー。間違いなく、貴族の部屋だ。
(よし。まずは、自分の容姿の確認だ)
彼はベッドを降り、部屋の隅にある大きな姿見へと向かった。歩く動作一つ一つが軽く、体のバネが違う。やはり15歳の肉体は素晴らしい。
鏡の前に立ち、耕作は目を見開いた。
そこにいたのは、疲れた表情の中年男性ではない。整った顔立ちを持つ、黒髪で少し陰のある美少年だった。青白い肌は貴族らしく、瞳の色は深い茶色。どことなく知的で、線が細い印象だ。
「ほぅ…。悪くない。いや、これはかなり上出来だぞ。前の顔に比べたら、天と地ほどの差だ…」
彼は鏡に向かって笑ってみる。鏡の中の少年は、ややぎこちない笑顔を返した。
(この顔なら、後の人生でいろいろと「得」ができそうだ。流石は女神様の用意した『空席の肉体』だ。感謝しよう)
耕作は、鏡に映る自分を見つめながら、自然と新しい名前を認識していた。
「クルト・ヴィンセント…」
それが、この肉体の名前。アルカディア有数の有力貴族、ヴィンセント家の次男。
◇ 突如現れたタブレット
身なりを確認し、新しい容姿に満足した耕作は、いよいよ本命の確認に取り掛かる。
(さて、特典で貰ったチート能力。どれだけ盛られているか、確認しないとな。まずはステータスだ)
彼は、ゲームや小説の主人公がするように、心の中で強く念じた。
「ステータス・オープン」
あるいは、
「ステータス表示」
――しかし、何も起こらない。空中に文字が浮かび上がることもなければ、半透明のウィンドウが現れることもない。
「あれ? おかしいな。女神様はチート能力を付与したと言っていたんだが…まさか、最後に『全チート能力、実は嘘でした』なんていうオチは…」
彼が不安になり、さらに強く、心の中で「能力を見せろ」と念じた、その時だった。
目の前の空中に、スッと静かに、長方形の物体が出現した。
それは、薄いガラス板のような、しかし触れてもいないのに光を放つ板状の端末だった。サイズは、彼が日本で使っていたタブレット端末とほぼ同じ。表面は黒く滑らかで、側面に目立つボタンはない。
耕作は恐る恐る手を伸ばし、その物体に触れてみた。ひんやりとしたガラスのような質感だが、わずかな抵抗感がある。
触れると同時に、その黒い画面に、淡い光を放つ文字とアイコンが、現代のOSのように整然と浮かび上がった。
【クルト・ヴィンセント ステータス】
まるで、彼が慣れ親しんだ現代文明のインターフェースが、そのまま異世界に持ち込まれたかのように。
◇ 基本ステータスの確認
田中耕作、現クルト・ヴィンセントは、目の前に出現したハイテク感溢れる『タブレット型ステータス画面』に、軽く目を見張った。
(なんだ、これ。「ステータス・オープン」で空中にウィンドウじゃないのか…いや、女神様は最後まで気遣いをしてくれたようだな)
彼は、文明的なインターフェースに安堵を覚えながら、画面に表示された基本情報を確認した。
画面の一番上には、彼の新しい情報が整理されて表示されている。
項目 データ 備考
名前 クルト・ヴィンセント ヴィンセント家次男
年齢 15歳 (肉体固定中)
種族 ヒューマン
性別 男性
身長 175cm
所属 ヴィンセント侯爵家
職業 無し(学生)
(15歳で175cmか。貴族としては良い体格だろう。そして、「肉体固定中」。これは『年齢固定』が機能している証拠だな。これで、永遠の15歳というわけだ。ふむ…悪くない)
次に目を移すと、身体能力を示す数値が並んでいたが、その数値は常人の基準を遥かに超えていた。
項目 データ
筋力(STR) 120
耐久(VIT) 150
敏捷(AGI) 135
魔力(MANA) 測定不能(∞)
運(LUK) MAX
(魔力が『測定不能』で、運が『MAX』。戦闘能力も桁違いだが、これで一生遊んで暮らせる『莫大な初期資金』があるわけだ。素晴らしい)
◇ スキル項目の「てんこ盛り」
基本ステータスの確認を終えたクルトは、画面の下部に表示された「スキル一覧」のアイコンをタップした。
画面が切り替わると、目の前に広がる情報量に、彼は思わず息を飲んだ。
【クルト・ヴィンセント スキル一覧】
画面には、膨大な数のスキル名が、カテゴリ分けされることなく、ただひたすらに羅列されていた。
全言語理解
異世界知識の自動習得
無限の魔力
全属性魔法適性
超速成長
究極の自己治癒能力
年齢固定
異空間収納
魔力操作
魔導書生成
家事万能
交渉術
… (以下、略) …
「うわぁ…」
彼は思わず声に出していた。女神が「盛れるだけ授けた」という言葉は伊達ではない。戦闘系、回復系、生活系、そして交渉術といったビジネススキルまで、文字通りチート能力がてんこ盛りだった。
さらに、画面右端には、縦に伸びるスクロールバーが小さく表示されており、この表示されているスキルリストが全体のほんの一部であることを示していた。
そして、その膨大なリストの上部には、非常に見覚えのあるものが配置されていた。
【検索: [ ]】
まるでウェブサイトの検索窓のような、スキル検索欄だ。
「はは…。ここまでやるか、アースティア様。まさに『困らないように』という執念の塊だな」
クルトは笑いながらも、女神の負けん気の強さを感じていた。これなら、あの『厄介なオッサン』がどんな無茶な状況に陥っても、必ず解決できるように、と。
彼はため息をつきつつ、画面を指でスワイプした。スクロールバーが勢いよく動き、数えきれないほどのスキル名が高速で流れていく。
「…これ、全部確認するのに、丸一日かかるぞ」
そう呟きながら、彼は再び鏡に映る自分の顔を見た。その表情は、もう疲弊した中間管理職のものではなかった。莫大な力と莫大な自由を得た、15歳の貴族の次男の顔だった。
◇ 最初の行動:リスク管理と隠蔽
膨大なスキルリストを前に、クルト・ヴィンセントは即座にリスク管理を優先した。彼は前職で中間管理職として、いかに「自分の手の内を見せないか」、「不必要な能力は隠すか」が重要であるかを骨身に染みて理解していた。
(チート能力は魅力的だが、それが他人にバレるのは絶対に避けなければならない。特にこの世界では、『測定不能な魔力』など持っていたら、国王や教会、あるいは怪しい組織から目をつけられ、研究材料にされるのがオチだ)
「隠すのが一番だ。使わない能力は、存在しないことにしておく」
彼は迷うことなく、現代的なインターフェースの検索欄に意識を集中させ、指で文字を入力する動作をした。
【検索: [隠蔽]】
検索ボタンをタップすると、一瞬で長いスキルリストがフィルタリングされ、わずか数件のスキルが表示された。
項目 データ
スキル名 ステータス偽装
スキル名 魔力隠蔽
スキル名 存在希薄化
スキル名 認識阻害
その中でも、クルトの目を釘付けにしたのは、トップに表示されたスキルだった。
ステータス偽装。
彼はそのスキル名をタップし、詳細説明を呼び出した。
【ステータス偽装】
自身のステータス、スキル、及び称号を、任意の数値・内容に偽装し、他者の鑑定系魔法やスキル、あるいはステータス画面表示に対して適用する。
設定モード: 詳細設定/プリセット(一般人、貴族平均、戦闘職見習い)
特性: 偽装した情報は、鑑定者にとって真実として認識される。
「これだ…!」
クルトは思わずガッツポーズをした。これは、女神アースティアが、彼の中間管理職的な習性を読んで用意してくれたに違いない。
(最強の盾は、『存在しないことにする能力』だ。これで、周囲の貴族や教師、果ては冒険者たちに対し、
『平凡な貴族の次男、クルト・ヴィンセント』を演じることができる!)
彼の最初の行動は、チート能力の行使ではなく、チート能力の隠蔽工作だった。
◇ 完璧な偽装作業
クルトは、自身の新しい人生の安定と自由のため、すぐにステータス偽装の設定に取り掛かった。
タブレットの画面に表示された【設定モード:詳細設定】を選択し、彼は真剣な表情で数値を調整し始めた。
(魔力は『初級魔導士並み』に。筋力や耐久は、『運動不足の貴族の子弟平均』でいいだろう。あまりに低すぎると、かえって怪しまれる)
彼は、スキル欄に関しても徹底的な偽装工作を施す。
【設定済みの表示スキル】
初級火魔法
初級風魔法
初級剣術
礼儀作法
読書
…(貴族の子弟らしい平凡なスキルのみ)
「よし。これで、『平凡だがそれなりに才能のある貴族の次男』の完成だ。無限の魔力も、超速成長も、全て隠蔽。いざという時までは、この『凡人設定』で通すぞ」
膨大なスキルを一つ一つ選別し、隠蔽設定にする作業は、チート能力の恩恵を受けているとはいえ、かなりの時間を要した。彼はまるで、新しい会社の複雑なシステム設定に取り組む中間管理職のように、真剣そのものだった。
◇ スクロールの先にあったもの
一通り主要なチート能力の偽装設定を終え、クルトは画面右端のスクロールバーに目を向けた。まだ、女神がてんこ盛りにした、生活系や趣味系のスキルが大量に残っている。
(これも全て隠すか…いや、『料理』とか『裁縫』なんかは、むしろ趣味として残しておいてもいいかもしれないな。平凡さの演出になる)
彼はスクロールバーを親指で勢いよく下にスライドさせた。膨大なスキル名が、ザーッという音を立てて流れ去っていく。
『釣り』、『園芸』、『錬金術』、『初級音楽』、『鑑定』…
そして、その流れが止まった、あるスキルの名前を視認した瞬間、クルトの思考回路は完全にフリーズした。
目の前に現れたスキル名は、彼の52年間の人生経験、異世界転生小説の知識、そして中間管理職としての常識、その全てから逸脱していた。
【スキル名:女体化】
効果: 任意の発動により、自身の肉体の性別および二次性徴の全てを、完全な女性形へと変化させる。精神構造は維持される。
制限: 対象年齢(肉体固定時の年齢)である15歳時の体型に準拠。任意解除不可。
◇ 女体化、発動中、しかし外見はそのまま
「……………は?」
クルトの思考が停止した中、彼は慌ててスキル「女体化」の詳細画面を凝視した。
なぜこんなものが? という混乱を振り払い、彼は画面の最下部にある【状態】を示す行に目を走らせた。
【スキル名:女体化】
効果: 任意の発動により、自身の肉体の性別および二次性徴の全てを、完全な女性形へと変化させる。精神構造は維持される。
制限: 対象年齢(肉体固定時の年齢)である15歳時の体型に準拠。任意解除不可。
【状態】 発動中(強制初期設定)
【解除】 不可
「…発動中? そして、解除不可?」
クルトは自分の目を疑い、何度もその行を読み返した。
発動中(強制初期設定)。そして、解除:不可。
「な、なんだと……!? 待て! 誰が発動させた!? 私はまだ何も操作していないぞ!」
彼は慌てて、自分の新しい肉体を確認するため、再び姿見の前に走り寄った。
鏡に映っているのは、先ほど確認したのと同じ、黒髪で少し陰のある美少年の姿だった。容姿に変化はない。線の細い、クルト・ヴィンセントその人だ。
「あれ…? 外見は…変わってない?」
彼は戸惑いながら、自分の胸や腰回りを触ってみるが、女性的な膨らみや曲線は一切感じられない。体は相変わらず、しなやかな15歳の少年のままだ。
(おかしい。スキル効果には『自身の肉体の性別および二次性徴の全てを、完全な女性形へと変化させる』とある。発動中なのに、なぜ外見は男のままなんだ?)
彼は再びタブレットの画面に戻り、スキルの説明を凝視した。
「ああ、そうか! 『女体化』スキルは発動中だが、外見は『対象年齢(肉体固定時の年齢)である15歳時の体型に準拠』……」
彼は、突然背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「待て。15歳の肉体は、まだ成長途上だ。つまり、外見は少年のままだが、肉体の性別構造だけが、強制的に女性に切り替わっている…?」
彼は恐る恐る、衣服の下、最も重要な部分に手を当てて確認した。
――結果は、絶望的だった。
「うそだろ……。本当に、中身だけが……女に……」
クルトは、自身の肉体の構造が、外見とは裏腹に、完全に女性として再構築されていることを理解した。そして、この状態が解除不可であることも。
◇ 女神の悪意と、最後の叫び
彼はその場に膝から崩れ落ちた。莫大なチート能力も、莫大な初期資金も、今、彼の中身と解除不能のスキルの前には、何の慰めにもならなかった。
「くそっ…! 次男の肉体を得たと思ったら、中身は女! 外見は男! このまま成長していったら、どうなるんだ…!? 身体的な秘密を一生隠し通さなきゃならないじゃないか!」
彼は女神アースティアの顔を思い浮かべた。これは、交渉に勝利した彼への、最高の意趣返しだったに違いない。
「しがらみとは無縁の、自由な人生を贈ってあげる」?
(こんな重大な秘密を抱えて、どうやって自由な人生を送るんだ! これこそ、最大のしがらみじゃないか!)
彼の頭の中は、絶望と怒り、そして52年間の中間管理職人生で抑圧されてきた不満で飽和していた。この、外見と中身の矛盾という絶望的な状況を、どうにかして解決しなければならない。
彼は立ち上がり、タブレットを手に取った。スキル検索を再開し、この「女体化(強制初期設定・解除不可)」を上書きできる、別のスキルを探すしかない。
彼は、震える指で再びタブレットを操作し、スキルリストを流し始めた。
【スキル名:女体化】
制限: 対象年齢(肉体固定時の年齢)である15歳時の体型に準拠。任意解除不可。
この「15歳時の体型に準拠」という制限が、彼をさらに苛立たせた。もし女性として成長するなら、せめて胸くらいは……!
彼は、目の前のタブレットを力いっぱい床に叩きつけた。幸いにも、チート能力の一部なのか、タブレットは割れることなく衝撃音だけが響いた。
「ちくしょう、アースティア様! さんざんスキルは盛ってるんだから、胸も盛れよ!!」
その叫び声は、ヴィンセント侯爵家の豪華な一室に、虚しく響き渡った。
かくして、52歳のおっさん精神を持つ外見少年・中身少女の貴族の次男、クルト・ヴィンセントの、秘密と矛盾に満ちた異世界での第二の人生は、幕を開けたのだった。




