16 ルクシアの願い
ロレンツォは流刑地のマリット村まで、馬に乗ってきていた。
赤褐色の毛並みが輝く馬に跨ったロレンツォは、ボロ布の麻服からワンピースに着替えたルクシアの手をそっと取った。
「失礼します……この方が、安全ですので」
彼女を前に乗せ、そっと自分の胸元へと引き寄せる。ルクシアの背中が、彼の心臓の鼓動に触れた。
──あたたかい。でも……それ以上に、なんだか落ち着かないかも。
ルクシアは手綱を握るロレンツォに、まるで後ろから抱きしめられているような格好だった。
馬はゆっくりと歩き出し、そして駆け出した。
この馬は港町に向かっている、とロレンツォは言った。
これからルクシアは、海を渡って別な国で生きることになる。
(僕が探していた人こそ……ルクシア様、あなたなのです)
ロレンツォは人を探す旅をして……そしてルクシアを見つけた。
何の目的の人探しかをルクシアはまだ聞いてない。どうせ、いつか分かることだったからだ。
それよりも、自分が罪人として生きる必要がなくなるのが、ただ嬉しかった。
ルクシアは馬の背に乗りながら、MOGと会話をした。
《この説明は、あなたの前世での知識体系に基づいた比喩になりますが……理解に役立つかと存じます》
MOGは(栗原凛奈が元いた世界の)15世紀のイタリア半島には、ヴァレンターノ家に似た商家が実在していたことを教えてくれた。
《香料や毛織物の取引から銀行業に転じ、やがてはローマ教皇や各国の王族にまで巨額の貸し付けを行うほどになり──最終的には、教皇そのものを輩出するに至った“メディチ家”という家が存在しました》
ルクシアは懐かしさに目を細めた。高校時代、世界史で習った名前だった。
《ああ、メディチ家……たしか銀行家で、芸術家を支援した……》
《はい。彼らはかの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロのパトロンでもあり、メディチ家なしには文化的転換期……ルネサンスは語れません》
頭の中に、教科書のページがぼんやりと浮かんでくる感覚があった。
ロレンツォは、同じようにこの世界の世界史にも残るだろう家の当主だ……権威を振りかざすことのない彼がそんな人物だということに、ルクシアは信じられない気持ちだった。
丘の上に差しかかると、ぱっと視界が開けた。
遠くに広がる青い海。潮の匂いが風に乗って吹き込んでくる。
港のようなものや、小さな家々、そして何隻もの帆船が見える。
出航は明朝ということで、この港町で一泊することになった。
ルクシアは海が一望できる、広く清潔な部屋に通された。
その部屋には風呂があった。桶ではなく、石で組まれた浅い湯槽に湯が張られている。
ルクシアは湯桶の中で、肩まで沈んだ。
薪で沸かされた湯が肌にしみるたびに、自分がどれだけ冷えていたのかを思い知る。
──ああ、ようやく、落とせるわ。いろんなものを。
髪の根元にまで残っていた乾いた汗や埃が、ゆっくりと溶けていくようだった。
王都で浴びた軽蔑の目、流刑地での寒さと臭気……すべてを洗い流せる時間が、ここにはあった。
その晩……ルクシアは、うなされた。
夢の中で嘆き、苦しみ、怒り……そして絶望を感じてルクシアが自殺した時の事を思い出していた。
自殺のあとは、しばらく栗原凛奈の記憶しかなく、自分が「何を一番望んでいるのか」を忘れていた。
彼女はもう栗原凛奈ではない。
元侯爵令嬢で元筆頭聖女のルクシア・ウィンターローズだ。
──私には、やらないといけないことがある。
ルクシアは目が覚めた。
額に冷たいものが置かれていた。水で冷やされた布だ。
その布はやさしく取り払われ、心配そうに覗きこむロレンツォの顔が見えた。
「お目覚めですか? 失礼かとは思ったのですが……苦しむような声が聞こえてきましたので、お部屋に入らせていただきました」
「あ……ありがとうございます」
ルクシアはベッドの上で体を起こした。
「私は……悪い夢を見ていました」
「悪い夢?」
「ええと……違うかも……夢じゃないですね」
ロレンツォは混乱しているルクシアを急かすことなく、じっと彼女の言葉を待った。
ルクシアは自分の左手首を触った……そこには自殺した時の傷が、まだ痛々しく残っていた。
「ロレンツォさん……私にはしなければならないことがあるのです」
「なんでしょうか、お聞かせください」
「私の……ルクシア・ウィンターローズの名誉を回復したいんです」
ルクシアは真剣な顔つきでロレンツォに伝えた。
ルクシア・ウィンターローズも、栗原凛奈も、どちらも彼女の中には確かにあり、その融合の先に生まれたのが、今ここにいる彼女自身で……これが心からの願いだった。
ロレンツォはベッド脇の小さな椅子から立ち上がると窓を開けて、新鮮な空気を部屋に入れた。
カーテンがふわっと広がって、朝の光が室温を上げる。
「……ルクシア様。まだお伝えしていませんでしたね。僕が探していた人というのは、我が家を導く賢者なんですよ」
「賢者?」
「もし僕の申し出をお断りになられても、それは尊重するつもりでした。けれど、どうやらあなた様にとっても良い提案になるようですね」
ロレンツォは静かにひざを折り、片手を胸に当て、もう片方の手を彼女へと差し出した。
それはまるで、女王を迎えるかのような、完璧な所作だった。
「あなたを、我がヴァレンターノ家の“顧問賢者”としてお迎えしたい。この道こそが、ルクシア様の名誉を取り戻す最善の方法だと、僕は確信しています」
ルクシアの新しい人生が、はじまる……らしい。
《モグ……私はうまくやっていけると思う?》
《残念ながらAIに未来予知はできません……ですがワタシはあなたの成功を祈っています。いつでもお呼び出しください、サポートいたしますので》
──また“祈る”……なのね。




