11 レイナードの後悔―王太子視点―
王宮の窓の外には初夏の陽が差し込んでいる。
けれどレイナード王太子の心には雲がかかっていた。
執務机の上には報告書が散らばっている。
「またか……これで何人目だ……」
王太子は手に取った一枚の文書を、眉間に皺を寄せながら読む。
【人事局報告:侍従1名が“精神的疲労”を理由に異動を申し出。前任地:東離宮】
深い吐息が、思わず唇からこぼれた。
「まったく、あの女は……」
扉が乱暴に開いた。
「殿下。私の紅茶が冷めていました。この者に、相応の鞭をお与えくださいませ」
まるで舞踏会にでも出るかのようなドレス姿で、ソフィアが入ってきた。その後ろには、若い侍女が震える手で銀の盆を持っていた。
「……ソフィア、いくらなんでも紅茶くらいで、鞭なんて……」
王太子がようやく声を発したとき、ソフィアはにこりともせず言い返した。
「では殿下、どうお思いなの? 朝の紅茶を一口含んで、ぬるいと感じたときの私の気持ちを。殿下は私がかわいそうじゃないんですか?」
その瞳には嘲笑が浮かんでいた。王太子でさえ、この女の感情を読むのは難しい。
「そんな些細なことでいちいち罰を与えていたら、使用人はひとり残らずいなくなってしまう」
「そうしたらまた雇えばいいじゃないですか。真の聖女のように変わりがいない存在じゃないんですから」
ソフィアがいうように真の聖女は特別な存在だった。
真の聖女は国を守ると古くから信じられている。それはすなわち、真の聖女との離縁は国に災いを起こすということだった。
つまり王太子はソフィアと添い遂げなければならない。
王太子は机の上の報告書から一枚を手に取って掲げる。
「ところでソフィア。東の離宮の改修のことだが……あの建物は歴代の王が大切にしてきたのに、なぜ取り壊す指示を出しているのだ? しかも国中から最高の石を集めて、新たにこんな豪華な……」
「ふふっ。それこそ些細なことじゃありません? 私が快適に暮らせる場所は必要でしょ? 真の聖女として神託を受けた私の希望には、信心深い王は何も言わないでしょうし」
「しかし国の財源には限りがあるのだ……こんなことをしていたら……」
「道路やサーカスにはまだ税がかけられてないことを、殿下はご存知? 王は民に甘すぎるわ。あなたが王になれば、少しはこの国も良くなるのでしょうか。ふふ」
その目は、最愛の夫に向けるものではなく、無能な部下を観察する上司のそれだった。
──どうしてこうなった?
ソフィアはいつも天真爛漫でみんなから愛されていた。だが今やその真の聖女は、結婚後から部屋ひとつ、紅茶ひとつで人を責め、周囲を萎縮させている。
さらに彼女は贅沢三昧だった。一口食べるだけのご馳走をテーブルいっぱいに用意させ、一度着たドレスは二度と着ない。
「……やってられん」
王太子は窓の外に目をやった。
夏の光は柔らかく城壁を照らしているが、彼の胸の内には寒風が吹いていた。
ふと、思い出す。
あのとき、「よく似合っている」と伝えたドレスを、次に会ったときも着ていたルクシアのことを。
それは何気ない薄桃色のシルクのドレスで、侯爵令嬢にしては特段豪華でもなかった。だが彼女は、それを大事にしていた。
プライドは高いが、純粋で、こちらの言葉をそのまま信じてしまう、でもあたたかい彼女。
彼女は、自分を「権力者」としてではなく、「レイナード」として見てくれていたのではなかったか。
──罪などもみ消して、あいつと結婚していればよかったのか……。
彼女を王宮に招いた時、すべてが穏やかだった。
ただ、侯爵令嬢として育てられたルクシアは少し気が強く知性があり、それにくらべてソフィアの方が自分にとっては都合よい女だと感じた王太子だったが……完全にあてが外れたのだ。
「……よし」
決意が口をついて出た。
王太子は扉を勢いよく開き、侍従を呼びつける。
「馬車の用意だ、遠出の準備をしろ!」
「殿下、突然……どちらへ?」
「いいから急げ!」
背後で、ソフィアが冷たく笑っていた。
「あら殿下。お出かけですか? では東の離宮の改築は私が進めさせていただきますね」
「……勝手にしろ」
王太子レイナードは振り返らなかった。
「私なら……私だけが、あいつを救える」
自分に言い聞かせるように、レイナードは小さく呟いた。
彼は自分勝手で、自分が正しいと信じたい幼さがあった。
──ルクシア、私はお前を必要としている。よろこべ、お前は、まだ……
王太子は、その先の言葉を胸の内で反芻した。
──まだ、私のものだ。
窓の外、陽はあいかわらず穏やかに降り注いでいた。




