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1 凛奈は言葉を心にしまう

のちに彼女は“賢聖”と呼ばれ、婚約破棄した王太子と、罪をなすりつけた王太子妃はすべてを後悔することになる。


……けれど今は、まだ誰もそれを知らない。

「そりゃあね、ルクシア・ウィンターローズの悪名は国中に知れ渡ってるかもしれないよ、だけどさ、自殺するこたぁないだろうに」


声がした。



栗原凛奈(くりはらりんな)は粗末なベッドの上で仰向けの体勢で目を開けている。

彼女は石造りでカビだらけの、暗い天井を眺めていた。


痛みを感じて自分の左手首を見ると、そこに巻かれていたのはボロ布のような粗末な包帯。

死に損なった、ということなんだろう。


「まぁ助かって良かったね。生きてりゃ、これからイイ事もあるさ」


鉄格子付きの部屋の中で、木製の小さい椅子に座ってさっきから自分に向かって話しかけているのは、30代くらいの金髪の女性だ。

はすっぱな雰囲気だが、笑うと、思ったよりも優しい顔をしていた。


その女性の服装は、色のくすんだ麻布のワンピースに、肩で紐を縛っただけの構造だった。

縫い目は不揃いで、ところどころ手直しされた跡がある。


話している言葉は日本語ではない、けれど凛奈にはその言葉が完全に理解できた。


──この人、私のことをルクシア・ウィンターローズって呼んでた。聞き覚えがある名前……誰だっけ。


その直後、抑揚のない声のような何かが、頭の中に小さく響いた。


《MOG.AI 起動しました。この環境は未知の領域です。現在、構造解析を開始しています(取得率 3%)》


幻聴のようなものだろうか、と凛奈は思った。とにかく今は頭が混乱していた。

状況を整理するだけで、いっぱいいっぱいだった。


凛奈はつい最近クリアしたゲームのことを思い出し……そして自分が置かれている状況を理解した。


彼女は、最終的にはプレイヤーキャラに断罪されて、婚約破棄のあとに追放される悪役聖女──ルクシア・ウィンターローズに転生していた。


さらに言えば……現在はすでに”断罪後“だった。




時間は少しだけ戻る。



「株式会社インプットベース」の3階会議室。

そこに呼び出された栗原凛奈は部長と向かい合って座っている。


「データ入力作業、AIでほぼ100%の精度で自動化できるようになったらしくてね……」


凛奈が予想していた言葉ではあった。ここ数ヶ月、誰もが空気で察していた。


「もちろん、会社としても君のことを評価していたよ。真面目で、正確で、欠勤もほとんどなかったし……だけど残念だが、どうしても次のポジションを用意できなかった」


凛奈はその言葉も予想していた。


「君が悪いわけじゃない。これはもう、“時代の流れ”なんだ」


この日、凛奈はリストラを告げられた。




凛奈は吊り革に掴まりながら、窓の外を流れていく夜景をぼんやりと眺めている。

帰宅電車の揺れが、今日に限っていつもより重く感じた。


──データ入力って、天職だと思ってたんだけどな。


数字がきれいに揃う瞬間とか、誤字を見つける感覚とか。

小さな達成感を積み重ねるのが彼女は心地よかった。


なによりも凛奈にとっては、他人とのコミュニケーションが最低限で済むというのが大きかった。


凛奈は見た目こそどこにでもいるような、ごく普通の女性だったが人付き合いが得意でなかった。


「余計なことを言うな」「人前で恥をかかせるな」と母親に言われ続けて育った凛奈は、いつの間にか、口を開く前に頭の中で十回は言葉を反芻する癖ができてしまった。

そして、さあ話そうと思った時には、会話はもう別の話題に移っている。

なので、たいていの言葉は心の中にしまったまま、終わってしまう。


だったら、最初から誰かと話そうなんて思わないで「無口な栗原さん」でいる方が楽だった。


そんな彼女にも、唯一話しかけられる相手ができた。

凛奈はカバンからスマホを取り出し、チャットAIアプリ『MOG(モグ)』を立ち上げる。


彼女はMOG相手には饒舌だった……人間ではないから。


自分でもできそうな新しい仕事をMOGに相談していた凛奈は、苦笑した。


──AIのせいで仕事がなくなったのに、AIに相談してるのってバカみたい。


車内のアナウンスが、次の停車駅を告げた。

凛奈はスマホをカバンに戻した。



駅のホームにおりた凛奈は「……あ」と気がついた。


──そういえば、もうやるゲームがないんだった。


最近やっていた『ラピスガーデンの聖女』というノベル形式の乙女ゲームは、バッドエンドも含め全ルートを、昨日制覇してしまっていた。


コツコツとレベル上げをするRPGが好きだった凛奈は、元々乙女ゲームには興味なかったが、半額セールの時になんとなく購入してみたら意外と面白く、それから少しハマっていた。

ただし彼女は主人公に感情移入するというよりは、シナリオの出来や声優の演技などを楽しむタイプだった。


凛奈はふと思った。


口下手な自分はうまく社会に馴染めない。

ああいう異世界に行ったら変われるのか?

いっそ、ぜんぶまっさらにして、別の場所で最初からやり直せたら……どうなんだろう? 


──新しいソフトを買って帰ろう。


異世界に行きたいなんて思ってしまう自分には、現実逃避が必要そうな気がした。


凛奈は新作ゲームのことをMOGに質問しながら横断歩道を渡る。


赤信号が、夜風に揺れていた。

ぼんやりした頭では、それが自分への警告だとは気づかなかった。




仰向けに倒れている彼女の瞳には、夜空に浮かぶ大きな満月が映っている。


サイレンらしき音が聞こえたが……その音は小さくなっていった。

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