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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

天道

作者: 林泰寧

前漢時代のある宦官は、こう呟いた。

 その昔、或る人が自身の著書に「天道は(しん)無し、常に善人に(くみ)す」、つまり天道と云う者は依怙贔屓をせず、常に善人の味方であるという事を記した。しかし私は、時に此の言葉を疑問に思うことが有るのだ。


 ○


 伯夷よ、叔斉よ。貴方々(あなたがた)は仁徳を積み、常に清く正しく生きて来られた。(おも)えば貴方々は殷の候である孤竹国の公子であり、其の性の仁たることは必然であったのかも知れない。

 だが、事の発端は次代君主継承の時だっただろうか。孤竹君であった父は最初、跡継として弟の叔斉を立て()がっていた。しかし父が亡くなると、叔斉は弟として兄を差置き跡を継ぐ訳には行かないと、其れを拒み伯夷に譲ろうとした。

「頼むよ、兄さんが上なんだから」と叔斉は懇願しただろう。

「でも(これ)は父さんの遺言なんだよ!」と伯夷は謂返(いいかえ)しただろう。少しの喧嘩の後、伯夷は遂に孤竹を逃去って(しま)った。だが叔斉も跡を継ぐ訳には行かないから、一緒になって孤竹を出て了った。伯夷は長男、叔斉は三男だったので跡継は次男となったそうだが、そんな事は敢不言之(どうでもいい)

 故郷を出た貴方々が何処に征くか迷っていた所、周と謂う国の西伯昌と謂うらしい王が善く老を養うと聞き、其処を目指して旅に出た。だが着いてみれば既に西伯は亡くなっており、武王と記録されている其の息子しか居なかった。しかもよく見れば武王は馬車に西伯の木主(いはい)を載せ、其れに文王と号し東方に征こうとしていた。()の暴虐な紂王を今に伐とうとしていたのだ。

 しかし周は周候、家臣が君主を伐とうとしているという事実は変わらない。そんな事をするのは、湯王より永く続いた秩序を破壊するのと同等であり、誠に不忠不誠実極まりない事ではないか。そうして貴方々は武王の馬を停め、必死に叫んだ。

「父親が亡くなったと云うのに、碌に弔いもしないで戦争をする。そんな事が孝と謂えますか。家臣の身であり乍ら君主を殺す、そんな事が仁であると謂えますか!」

 左右の側近達は此れを聞くなり、武器を持って貴方々を殺そうとした。しかし唯だ一人、私が呂尚と記憶している其の男は側近達を止め、

「待て、此の者達は何も悪くない。義人だ」と二人を庇い、又二人に其の場を去るよう命じた。ただ然る後、やはり武王が乱を平らげ天下は周を宗とする事となった。

 此の(しら)せを聞いた時、貴方々は深く衝撃を受け、そして甚く悲しんだ事だろう。斯くて周の天下となったと云う事は、そう簡単に受容(うけい)れられるものではなかった筈だ。だが既にそうなった今、周の地で陽光を浴びる事も、微風を身に受ける事も、其の地に生えた作物を食らう事も、全て堪えられるものではなくなってしまった。だからこそ貴方々は遠く離れた首陽山に隠れ、其処で山菜を採り生きる糧としていたのだろう。然るに、それとも(まさ)に然るべくと謂う他無いのか、軈て食糧も尽き死は目前に迫って了った。今に死のうとしていた其の時、貴方々が詠んだ詩を私は忘れられない。


 登彼西山(かのせいざんにのぼり)兮、采其薇(そのびをとる)矣。

 以暴(ぼうをもつて)易暴(ぼうをかへ)兮、不知其非(そのひをしらず)矣。

 神農(しんのう)虞夏(ぐか)忽焉沒こつえんとしてぼつせり兮、我安(われいづくにか)適歸(てききせん)矣。

 于嗟徂(ああゆかん)兮、命之衰(めいのおとろえたり)矣。

「あの首陽山に登って、其処で(ゼンマイ)だの何だのを採りながら暮らしてきた。武王等(あいつら)が暴力を以って暴政を制して、しかも其れが最低な行為だって事を認めなかったからだ。だが神農・虞・夏、何方(だれ)も皆死んじまった今、もう何処に此の身を寄せられるんだ。ならばいっその事、此処で死んで了おう。天命はもう衰えたんだ……」


 其れから程無くして、貴方々は餓死して了った。此の詩も詩経には収録されず、遂に逸詩となって了った。


 ○


 盗蹠、御前が私と同じ人間だとは思い度くもない。不辜の良民を捕らえ、毎日食った肝はさぞ美味かったろう。数千人の徒党を組んで暴戻恣睢の限りを尽くし、それでいて天寿を全う出来た人生はさぞ楽しかったろう。

 そう言えば、御前は孔子先生に目見(まみ)えた時もそんな態度をしていた。縦令(たとえ)家の前であるとも殺した(しし)や鳥を無惨に散らかし、其の面を向ける時も目の前で部下に髭を剃らせていた。孝経に「身体髪膚、之を父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」とも曰うが、其の言葉を露も識らないか、或いは識りつつも馬鹿らしいと無視し切らなければ出来ない所業である。

 孔子先生は御前の姿を御覧になるに、気も心も砕け恐れたそうだ。容貌(かたち)、有様、声、何れを取っても人間とは思えないと。だがそれでも震えを抑え、思い念じて仁義を説いて下さったのだ。だが御前はそれを無下にして謂返した。

「なアにが道理だ出鱈目(ジジイ)、テメェに良い事教えてやる。昔堯だか舜だか謂う奴が持上げられてたが、其奴等の子孫にゃア針穴程度の土地も残ってねえ。伯夷とか叔斉とか謂う野郎共も、結局首陽山で野垂死んだ。そういやテメェの弟子に顔回とか謂う奴も居たろ、あの貧乏して結局くたばった。彼奴と同じ弟子の子路とか謂う奴も、結局最期は塩漬肉になって死んだ。聖人ッたって、誉められても謗られてもたった四五日、みーんな最後は死ぬンだよ。だから俺は好き放題やって、後は野となれ山となれってこった。解ったンならさっさと帰れ」

 其れから、孔子先生は何も謂返せず帰られてしまった。確かに彼の述べた事柄は悉く事実である。だが何故だか、私迄情け無い気持となって了った。


 ○


 若しかすると此の答えは、既にあの盗賊の言葉に出ているのかもしれない。しかし其れならば、私の(わか)き日に読んだ書物達は何だったのか。(なき)孔子先生の教えは、何故我が国の国教となっているのか。尭舜の仁政は、周公の徳は、禹王の治水は、何故人々の知る所となっているのか。だが今迄の事を顧みれば、私も世を去る頃には是等の影も薄くなっているのだろう。

 だからこそ私は問い度い。天道、是か非か。


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