プロローグ
「なあ、シルヴェスタ」
「はい。魔王様」
重厚な沈黙が石造りの執務室を満たす
巨大な城の最奥に位置するその部屋には、一際巨大な黒檀の机が鎮座し、その奥に備えられた豪華な玉座に一人の男が深く腰掛けていた
彼こそがこの魔界を統べる魔王ヴァザルである。その視線は、向かいの控えめな机に控える男――執事シルヴェスタへと向けられていた
「シルヴェスタ。わが国の現状で問題点はあるか?」ヴァザルの声は普段の厳しさを潜め、どこか思案げだった
シルヴェスタは淀みなく答える
「はい。魔王様。差し当たっての急を要する問題点はございません。ご心配なく、全ては平穏にございます」
「そうだろうな。お前や幹部連中からの定時報告も、特に問題ないものばかりだ」
ヴァザルは手にしていた書類の束を軽く叩いた
「そうですね」
シルヴェスタからの返答は、いつものように感情の起伏が感じられない、ただ事実を述べるだけのものだった
「魔王様」
シルヴェスタは、静かに言葉を続けた
「平和なのは良いことではございませんか?争い事の多い世とは、哀しいものです」
ヴァザルは玉座の肘掛けに指を滑らせた。彼の視線は窓の外、遙か遠く広がる魔界の空へと向けられる
「確かにそうなんだが……」
彼の声には深い納得と、しかしそれ以上の懸念が混じり合っていた
平和がもたらした停滞
文明の進化が止まり、人々から野心や挑戦する心が失われつつある現状
魔王ヴァザルが真に憂いているのは、その「安定」の裏側に潜む見えない腐敗だった
彼はこの穏やかなる停滞こそが、いずれ世界を滅ぼしかねない、静かで、だが確実な毒となることを憂慮していた
「最近、私に挑んできた者はいるか?」
ヴァザルは尋ねた
「おりません」
シルヴェスタの返答はやはり簡潔だった
魔族が統治するこの国では力こそが全てという絶対のルールがある
王であろうとその例外ではない
挑まれれば決闘が始まり、その勝敗によって順位が入れ替わる
しかしこの数十年、魔王ヴァザルに挑む者は一人としていなかった
彼には圧倒的な力があり、まごうことなき絶対的な強者だ
それはもちろんのこと、彼の政治力や統治の手腕もまた、歴代の王に比べてずば抜けている
盤石な治世は民衆からの絶大な支持を集め、その地位は揺るぎない
平和と安定― それは誰もが望む理想である
だが、ヴァザルにとってそれはまるで深く澱んだ沼のようだった
挑戦者がいないということは、この世界に【変化】を求める野心や情熱が失われつつあることを意味する
かつて血気盛んだった魔族たちは、居心地の良い平和の中で牙を抜かれたかのように大人しくなっていた
「……そうか」ヴァザルは呟く
その声には安堵ではなく、むしろ深い諦めとわずかな焦燥が滲んでいた
「やはり魔王を倒す勇者が必要なのではないか?1つ妙案が有るのだが…」
そう言ってヴァザルはゆっくりと、そして熱を帯びた声で自身の壮大な計画を話し始めた
その瞳の奥には、停滞した世界を打ち破り新たな時代を築き上げようとする狂気にも似た強い意志の光が宿っていた