それぞれの夜──出発前の静けさ
宿の窓から、静かに夜風が入り込む。
ユーリはその風を頬に感じながら、机に広げた地図とにらめっこしていた。
ギルドから受け取った調査用の地形図には、《緑深域》の大まかな構造が記されている。
(この辺り……“禁域”の旧境界線近く。祖父が残した遺跡の記録と、一致する場所がある)
ユーリは懐から、いつも携えている魔導書を取り出した。祖父・エルドが遺した、古代言語とスクリプトが刻まれた一冊。
ページをめくると、かすかに反応するように、文字列が淡く光った。
「……ルシア。おまえ、やっぱりこれと繋がってるんだよな」
「うん。私の“初期定義”は、この魔導書の中の記述と一致してるわ」
部屋の隅で浮かぶ、淡い紅の粒子。ルシアの声は、やさしく静かに響いた。
「この記述、普通の魔導書じゃない。……これは“制御構文”を埋め込んだリンクキー。演算命令と、アクセス認証、それに……デバイスのアクティベート用コマンドまで入ってる」
「やっぱり、じいちゃんは……」
「ええ。おそらくこの世界に残された最後の“調律士”だった」
その単語に、ユーリは肩をすくめた。
「いまいちピンと来ないけど、つまり“選ばれた人”ってこと?」
「選ばれた、というより、残された……かもしれないわね」
ルシアの声はどこか遠くを思うような響きを帯びていた。
ふと、宿の窓から見える星空を見上げた。
夜の静けさが、街を優しく包んでいる。灯りはほとんど消え、人々の話し声も聞こえない。明日からの“異変の森”の調査に備えて、街そのものが呼吸を潜めているようだった。
「ユーリくん。起きてる?」
ノックと共に、扉の向こうから声がした。カリナだった。
「……あ、はい。起きてます」
扉が開く。そこには、ギルドの制服ではなく、
やわらかい生成りのチュニックにロングスカートという、私服姿のカリナが立っていた。
いつものきちんとした雰囲気とは違う、どこか家庭的で落ち着いた印象。
彼女は手にトレイを持っていた。
「明日のために、少しでも栄養取っておいたほうがいいと思って。簡単なスープと、パンだけど……よかったら」
「あ……ありがとうございます」
机の上にトレイが置かれる。香ばしい香りと、暖かい湯気がふわりと広がった。
「ねえ、ユーリくん」
「はい?」
「怖くないの?」
「……正直、ちょっとは、怖いです。でも、それ以上に──行かなくちゃ、って思うんです」
「そっか」
カリナは微笑んで、椅子に腰をかけた。
「……昔ね、私の兄も、似たような顔してたことがあったの。まだ若くて、力も経験も足りないって自分でわかってて、それでも“行く”って言った」
「……」
「帰ってきたとき、全身ボロボロだったけど、笑ってた。『やりきった』って。でもね……そのときの背中が、すごく大人に見えたの。……あなたも、そんな顔をしてるわ」
「……そう、ですか?」
照れくさくて目をそらすユーリに、カリナは優しく笑った。
「大丈夫。あなたには、ちゃんと“戻る場所”がある。ここでも、薬草舗でも。セラちゃんだって、あなたの帰りを心から信じてる。……だから、行ってきなさい。全力で、ね」
「……はい」
その言葉は、心の奥まで届いた。
温かさと、少しだけの寂しさと──そして、見送る者の強さ。
「じゃあ、おやすみなさい。スープ、冷めないうちにね」
「はい。カリナさんも、ちゃんと休んでください」
カリナが出ていったあと、扉の前でひとつ、足音が止まる。
──そのまま、何も言わずに立ち去っていった。
静かな、見えないエールがそこにあった。
「ふふ、モテるわねぇ」
「……誰が?」
ユーリがむすっとした顔で天井を見上げる。
そこには、淡く瞬く薄紅の光──ルシアが浮かんでいた。
「“守るもの”があると、男の子は強くなるって言うでしょ? その通りね。あなた、顔つきが変わったわ」
「そうかな……」
窓の外、星々が瞬いていた。
明日、自分は森へ向かう。汚染の中心地、変異の渦。その奥には──“過去の遺構”が眠っている。
祖父が追い、たどり着けなかったもの。自分が、その続きを見届けるために。
「ユーリ」
ルシアの声が、そっと響く。
「私はあなたの“演算核”であり、最初のリンク先。どんな深層でも、どんな領域でも、あなたの呼び声に応えるわ」
「ありがとう。……心強いよ」
スープの湯気が、静かに立ち上っていた。
夜は深まっていく。明日の朝が、新たな試練を連れてくるとしても──今はただ、静かにこの夜を受け止めていた。
ユーリはベッドに横になり、魔導書を胸に置いたまま、目を閉じた。
遠く、ルシアの光が瞬いている。




