語られざる一手──そして未来の計画へ
──陽が西に傾きかけたころ、ユーリたちは《商業ギルド本部》の荘厳な門をくぐった。
磨き上げられた石の床に、騎士の像と天秤をあしらった装飾柱。
高い天井から吊るされたランプが柔らかい光を放ち、迎えに出た案内係の足音すらも、控えめに響くほど静かだった。
受付嬢は、にこやかに頭を下げたあと──
「ユグドラシル様のご一行ですね。応接室をご用意しております。どうぞこちらへ」
一同は受付横の通路から、奥の応接エリアへと案内される。
その間、アリエルとセラはひそひそと話していた。
「……セラ、“オセロ”とはどんなものなんですか?」
「えっと……丸くて、ひっくり返す、白黒の……えーと……説明すると難しいな……」
「視覚的に確認したいですね。現物はこのあと──」
「多分見せてくれると思うよ」
二人の目がほんのり輝いているのが、ユーリにはよく分かった。
一方──
応接室奥の革張りソファに腰を下ろすと、ルシアはすぐに商業ギルドの壁にかけられた地図へ視線を移す。
「この王都を中心に、商圏がどう広がるか……ね」
カイルも腕を組んで、窓の外の通りを見た。
「中央通りと西市場、あとは貴族街……すでに流行り物は巡ってるはずだ。あとは“価値”の置き方次第か」
「ブームをつくるには、“誰が最初に持っているか”が大事なのよね」
「先に高位貴族に遊ばせる。民衆はそれを真似したくなる……と」
戦略思考のふたりは、さながら商会の企画会議のように言葉を交わしていた。
その様子を見ながら、ユーリは肩をすくめる。
「……いやいや、そもそも今回は“販売しない”んだからな。王様への献上品なんだから、売るつもりはないぞ」
すると、ルシアがふふん、と意味深に微笑んだ。
「さあ、どうかしらねぇ~♪」
わざとらしく、指先で髪をくるくると巻きながら、まるで“売る未来しか見えない”とでも言いたげに。
ユーリは顔をしかめて言い返す。
「……まさかとは思うけど、もう売る準備してたりしないよな?」
ルシアは答えず、ただ悪戯っぽくウインクを返すだけだった。
応接室に軽やかなノック音が響いた。
扉が開き、現れたのは──審査管理部 《マルビス》と、屈強な体躯の女性工房責任者 《ディアナ・バルドロス》だった。
マルビスは深緑の上質な外套を揺らしながら、柔らかな笑顔で一同に向き直る。
「お待たせしました、皆さん。つい先ほど、無事に仕上がりました。どうぞ──ご覧ください」
続いて入ってきたディアナは、腰に手を当てて堂々とした態度。
「おう! 完成品だ! これがあんたの言ってた《オセロ》ってヤツだ!」
彼女の合図とともに、側近がテーブルの上に黒い布をそっと置く。
ディアナが布を勢いよくめくると──
「おおっ……」
思わず声が漏れた。
そこには、ユーリがデザインした通りの《オセロ》セットがあった。
漆黒と象牙色の石が、それぞれ規則正しく並ぶ専用ケースに収められ、中央には高級感のある木製の盤。表面には繊細な彫り込みが施されており、マス目の境界は淡く金線で縁取られている。
「わあ……これが……」
セラが感嘆の声を上げる。アリエルも無言で、じっと盤面を見つめていた。
ディアナが胸を張って説明を始める。
「石は軽くて滑りのいい材質を選んだ。両面はそれぞれ漆で塗って、反射を抑えつつ高級感を出してある。盤は《フェルシア樫》を削り出して作った。耐久性も十分だ。……なんせ“王様に献上する”って話だからな。手抜きは一切してねぇ!」
ユーリは盤面に手を伸ばし、石の手触りを確かめた。
「……完璧です、ディアナさん。僕のイメージ通りですよ。細部まで、すごく丁寧に作られてる」
「ふふん、当然だろ?」
ディアナは鼻を鳴らし、腰に手を当ててドヤ顔を決めた。
その横で、マルビスはほっと安堵の息を漏らしながら、穏やかに微笑んだ。
「いやはや……この短期間でここまでの仕上がりとは。あなたの発案とディアナの腕、両方が揃ってこその成果ですな」
アリエルが石をひとつ手に取り、くるりと裏返した。
「完璧なバランス。製品重量も理想的です。手に吸い付くような質感。さすが職人技術……」
ルシアは手を頬に当てながらにっこり微笑む。
「これ、確実に“流行る”わね。貴族たちも夢中になると思うわ。……ねえ、本当に“売らない”の?」
ユーリは思わず、ずるりと椅子からずれ落ちそうになった。
「なっ……だから! 今回は献上用って何度言ったら!」
ディアナが爆笑する。
「ま、あんたたちのことだ。そのうち“売る”話にもなるんだろ? 楽しみにしてるぜ、ユーリ!」
ルシアがにやりと笑って──
「さあ、商業ギルドの皆さん。オセロって書いて“王宮の新たな知的遊戯”ってサブタイトル付けてみたらどうかしら?」
「それ、いいですね」とマルビスも苦笑混じりに頷いた。
──こうして、“王に献上するための試作品”とは思えない完成度の《オセロ》が、ついに完成を迎えたのだった。
「これ、どうやって遊ぶの?」
セラが盤をのぞき込みながら、首をかしげる。
「そう言うと思って持ってきたぜ」
ディアナが笑いながら、懐からもうひとつのオセロセットを取り出した。
本命の献上品に比べれば、見た目は簡素な木盤と石――いわば“工房用の試作品”。
「じゃあ、僕が説明しますね」
ユーリが盤を広げ、中央に黒と白の石を交互に並べる。
「まず、こうやって盤の真ん中に4枚──黒白黒白と“斜めに交差”するように配置します」
「ふむふむ……」とセラがうなずく。
「石は“相手の石を自分の石で挟む”ことで裏返していくんです。縦・横・斜め、どの方向でもいい」
「“はさむ”……ってそういうことか」カイルが頷く。
「そう。たとえば黒がここに置いたら、この間にある白を裏返す──」
ユーリは石をひとつ置き、ディアナがその場で裏返す。
「へえっ、なるほどな! 気持ちいいなこれ!」
盤上は静かに変化していく。
交互に石を置き、挟んでは裏返し──どちらの陣地が広がるかの、静かな攻防。
ルシアが腕を組んで観察していた。
「つまり、“攻めつつ守る”戦略性のゲームなのね。石を置ける場所が減っていくから、終盤に差し掛かると一気に形勢逆転もありそう」
「そのとおり」ユーリがにっこり。
「終わったとき、盤の上で“多くの石を自分の色”にしてた方が勝ち、です」
「単純明快だけど、奥が深い……ふふっ、好きよこういうの」
そして──
数分の対局の末、すべてのマスが埋まった。
「よっしゃー! これで全部置いたな!」
ディアナが両手を広げるようにして勝利宣言をする……が、
「……黒が34、白が30。僕の勝ちですね」
「なっ……!」
ディアナは悔しそうに頭を掻く。
「やるなぁユーリ! けど次は負けないぜ!」
「いつでも受けますよ」
そのやりとりを見ていたセラが目を輝かせて言った。
「わたしもやってみたい!」
アリエルもすっと手を挙げる。
「私も興味があります。勝率計算と打ち筋をシミュレーションしながら楽しめそうです」
ルシアが悪戯っぽく笑う。
「ふふ、それなら“女神杯・オセロトーナメント”でも開催する?」
ユーリは笑顔を浮かべながらも、心の中では静かに決意していた。
──このゲームが、この世界に受け入れられるかどうか。
今はまだ、始まりにすぎない。
セラとアリエルが盤を挟んで向かい合う。
「いきますね、セラ」
「う、うん……手加減してね」
アリエルは軽く微笑みながら石を置く。対するセラは慎重に考えながらも、次第に動きがぎこちなくなっていく。
数分後。
「……あ」
盤面がすべて白に染まり、黒はただ一つ──セラの石だけが中央にぽつんと残っていた。
「私の勝ちですね」
アリエルは静かに告げた。淡々としていたが、容赦はなかった。
「ううっ……ぼ、ボロ負け……」
セラはぷるぷると震えながら、今にも泣きそうな顔でうつむく。
「ふふっ」
そんな様子を見ていたルシアが、優雅に立ち上がる。
「アリエル。次は私と勝負しましょう。女神として、ここで負けっぱなしはいただけないわ」
「演算能力と戦略眼の勝負ですね。望むところです」
盤がリセットされ、ふたりの対局が始まった。
石が置かれる音はまるでリズムのように軽快で、手つきには一切の迷いがない。まるで二人の頭の中では盤上の未来がすでに何手先まで見えているかのようだった。
「……やるじゃない、アリエル」
「ルシアも、予測と直感の融合という意味では私以上です」
静かな攻防の末──最後の一手が置かれた。
「……黒が33、白が31。勝者、ルシア!」
「ふふっ、僅差だったけど勝ちは勝ちよ♪」
ルシアが勝ち誇った笑みを浮かべると、アリエルは目を細めて小さく拍手を送った。
「これは一本取られました」
──そして。
「……マルビスさん、これは……」
「……ええ、間違ありません。これは“売れる”……!」
マルビスが、応接室の隅でそっと拳を震わせた。隣のディアナも身を乗り出し、興奮した面持ちでうなずいている。
「何がすごいって、盤もルールも簡単なのに、“強い奴”と“弱い奴”が一目で分かる。くそっ、悔しいけど……最高のバランスじゃねぇか……!」
オセロの盤上に宿る知と戦略の戦い。
それを目の当たりにした者たちは──確信した。
「これは、“商品”になる」
「──ああ、これは……すげえな」
オセロの盤面に石が並ぶ音に混じって、ディアナの感嘆の声が上がった。
セラとアリエルの試合に夢中になっていたディアナは、やがて感情のままに声を漏らす。
「すごいな、アリエルの打ち筋。けどセラも粘る……!」
「うん、もうちょっとで……あぁっ、裏返されたっ」
「セラ、焦らないで。ここ、角を取られると苦しいわ」
ルシアが頬杖をつきながらアドバイスを送ると、ユーリは苦笑いを浮かべた。
「それってアドバイスっていうより……ほとんど指導じゃない?」
「ふふっ、だって私たちのゲームなんだもの。育てたいじゃない?」
楽しげに語るルシアの隣で、カイルは小さく笑いながら盤を見つめていた。
「へぇ、こういう遊びも悪くないな。王都の連中が好きそうな……」
そのとき、応接室の扉がノックもなく開いた。
「──失礼、ただいま戻りました。必要書類をお持ちしました」
マルビスだった。
彼の手には、数枚の書類──いや、それは“契約書”だった。
「……さて、お戯れのところ申し訳ないですが、本題といきましょう」
マルビスは応接室の中央に立ち、堂々と書類を掲げる。
「これは『オセロ』なる新遊戯の販売権と商業展開に関する契約書です。ぜひとも本日、ここでご署名をお願いしたい」
ディアナも立ち上がり、ユーリの隣にすっと座る。
「商会印ももう用意してあるぜ。今日から契約ってことにしても問題ない。……で、どうする?」
ユーリは手元の盤から目を上げ、思わず息を呑んだ。
「……ちょっと待ってくださいマルビスさん。僕たち、謁見が終わってから商会を作るって話をしてたんだけど」
そう返すと、ディアナが眉を上げる。
「じゃあ、ユーリたちの商会でオセロを売るってことか?」
「ええ。そのはずよ」
と、ルシアがさらりと答える。
その声には、妙に自信と期待が滲んでいた。
「ちょ、ちょっとルシア?」
「ユーリ、聞いて。これはチャンスよ。王都で一番の商業ギルドと直接契約して、私たちの“オセロ”を広めるの。これを逃したら、次はいつになるか分からないわ!」
瞳を輝かせながら、ルシアは勢いよく迫ってくる。
「第一、あれだけ準備して、デザインまで一緒に考えたじゃない? 商会が正式にできるのを待ってたら、出遅れるのよ。出すなら今よ!」
「お、おい落ち着いて……。いや、たしかに出遅れたら模倣品とかも……」
「でしょ! だったら今すぐ仮契約だけでも結んで、名前と権利を押さえちゃいましょう。あとは追って法人登記すればいいんだから!」
「いや、でもそれはちゃんと王様に話を通して──」
「その件は私たちが通しておくわ♡」
「ルシア……あのさ、なんかおねだりされてる気分なんだけど……」
少女のように瞳を潤ませて上目遣いをしてくるルシアに、ユーリは抵抗を感じつつも──脳裏に浮かぶのは、かつての地球で見たあるテレビCMだった。
(お願い、パパ♡)
「くっ……やめろ……それは卑怯だって……」
沈黙ののち──ユーリは、観念したようにため息をついた。
「分かった。仮契約ってことで、名前と内容を確認して……それから──」
その時、静かに口を開いたのはカイルだった。
「やれやれ。これでユーリの二つ名は“遊戯王”ってとこか?」
「やめろぉぉぉおお!! それは……いろいろ、まずいヤツ!!」
ユーリが慌てて叫ぶと、ルシアとセラはくすくすと笑い、アリエルは不思議そうに首を傾げていた。
「遊戯……王? ユーリは、王様になられるのですか?」
「いや違う違う。アリエル、深く考えなくていい」
「ふむ、商会設立にあたり、その名も“遊戯王商会”など──」
「マルビスさん、ストップ! 絶対にその名前はだめ!」
「ふふっ、じゃあ“ルシア・ゲームズ”とか?」
「それも却下! っていうか、なんでルシア中心なんだよ!」
「え? だって私が売るんだもの?」
「えぇぇぇぇっ!?」
──応接室は、再び笑い声に包まれていった。
オセロの白と黒の石が、カチリと盤面に置かれた音が、誰よりも静かに、今日のひとつの“勝負”を物語っていた。
「……実はさ、他にもあるんだ。アイデアが」
ユーリがぽつりと切り出すと、その場にいた全員が自然と耳を傾けた。
「もっと、戦略性の高いボードゲームの案がある。ルールも盤面も、今のオセロとは違うタイプで──」
言葉を切ったユーリに、ルシアが小さく首をかしげる。
「例えば、どんなものかしら?」
「うーん……そうだな。例えば『将棋』っていうゲームがあって、それぞれが“軍勢”を指揮する感じで戦うんだ。盤面は九マス九列。歩兵、騎馬、飛行部隊……って感じで、駒によって動き方も違う」
ルシアが思案顔で頷き、アリエルはすぐにデジタルメモを開いた。
「それって“チェス”とも似てるのかしら? 名前だけは聞いたことがあるような……」
「そうそう、チェスも似たようなもので、でももっと駒の数が少なくて、国際大会もあるような人気ゲームだったよ。将棋よりも“攻めるか、守るか”の判断がはっきり出る感じで──」
「……おい、それめちゃくちゃ面白そうじゃねぇか」
身を乗り出してきたのはディアナだった。その隣でマルビスも目を輝かせていた。
「ユーリさん、それって今すぐ詳しく教えてくれませんか?」
「さっきのオセロがあれだけ画期的だったのに、その上さらに戦略性の高い遊戯があるなんて……っ!」
「お二人とも、落ち着いてください」
アリエルが手のひらを立てて制止する。カイルも腕を組み、やれやれとため息をついた。
「ユーリの口ぶりだと、まだ公表するつもりはないらしいぜ。たぶん、商会を立ち上げてからまとめて出す気なんだろ」
「ま、そんなところ。情報は“価値”だからね」
苦笑しながら肩をすくめるユーリに、マルビスは少し名残惜しそうにしながらも、懐から一枚の用紙を取り出した。
「……では、本題に戻りましょう。こちらが《献上用オセロセット》の製作にかかった費用の請求書になります」
「……っと、そうだった」
ユーリはすぐに金貨を取り出し、提示された額を支払う。
「確かに、金貨三十枚。請求通りです」
「ありがとうな。それじゃ──取引、完了だ」
マルビスが金貨を受け取り、ディアナが丁寧に領収書を手渡す。受け取ったユーリは、それをアイテムボックスのカードに収めた。
そして、同じく収納された黒い桐箱──献上用オセロセットを確認し、小さく息を吐く。
「これで、明日の準備はすべて整ったな」
全員がうなずき、静かに立ち上がる。
「それじゃ、今日はこれで失礼します。お二人とも、ありがとうございました」
「我ら商業ギルドは、いつでもお力になりますよ。今後ともよろしくお願いします」
マルビスとディアナが丁寧に礼をし、ユーリたちは軽く頭を下げてその場を後にした。
扉の外、夕暮れの街路に出ると、遠くから鐘の音が響いてきた。
「いよいよ、明日か──」
ユーリのつぶやきに、ルシアがそっと微笑む。
「あなたの“遊戯”が、この世界にどんな波紋を広げるのか、楽しみね」