時を忘れて──現実に戻る声
金属の軋む音と、空気のざわめき。
壊れたピアノの前で、ユーリはしゃがみ込んだまま指先を鍵盤に沿わせていた。
指が触れた鍵盤はすでに反応することもなく、いくつかは完全に外れていたが──
それでも、そこに確かに“音楽”が存在していたことだけは、はっきりと感じ取れた。
「……これ、直せたら……また音、出るかな」
小さく呟く声に、ルシアがふっと笑う。
「ユーリ、本気で直すつもり?」
「うん。……少しずつでいい。素材はあの工房にあるかもしれないし、部品も探せば何とかなるだろ」
彼は立ち上がり、ピアノに手を当てたまま振り返った。
「こういうの、好きなんだよ。壊れたものを、もう一度“生き返らせる”のって」
言いながら、目の前のアコースティックギター風の楽器にも目をやる。
ボディの損傷はひどく、弦はすべて切れているが──
「こいつも、一緒に直そう。できたら……セラにも聴かせてやりたいし」
そのときだった。
「ユーリ」
背後から、アリエルの冷静な声が響いた。
「……そろそろ、冒険者ギルドに向かう時間です」
「っ……!」
ユーリの肩がピクリと跳ねた。
しばしの沈黙のあと、彼はバッと腕を振り上げる。
「あっ……やばいっ! 完全に忘れてた!」
楽器に集中しすぎて、時間の感覚が吹き飛んでいた。
ユーリは慌ててピアノから身を離れ、上着を整えながら出口に向かう。
「ギルドの約束、昼までだったよな!? 間に合うかこれ!?」
「まだリミットまでは二十七分あります。通常速度であれば十分到着可能です」
アリエルは淡々と答えるが、ユーリはすでに駆け足気味だ。
その姿を見て、ルシアがくすりと笑う。
「ほんと、もうちょっとで工具持ち出して作業始めるところだったわね」
「彼が夢中になると、時間を忘れるのは……よくあることですね」
アリエルも静かに同意しながら、二人の後を追う。
研究区画を後にするその背に、もう一度ピアノが沈黙の中に佇んでいた。
壊れたままのそれは、今にも声を取り戻すのを待っているかのように。
──いつかまた、音が鳴る日が来るのかもしれない。




