治る見込みはないけれど。
朝食が終わると、僕は散歩に出た。
家にいても、善良な祖母を嘘の笑顔で騙し続けるだけなので、外に出た。なるべく誰にも会いたくない、一人になりたかったのだ。この辺りは田舎で、ほとんど人が通らないので、都合が良かった。
普通なら学校に行っている時間だが、僕は療養中の身ということになっている。療養中といっても、何かの病気ではない。身体は依然、丈夫であった。どちらかといえば、精神疾患だ。治る見込みはないけれど。
静かな田圃道を歩きながら、僕は考えた。何故、自分は生きているのだろう。生き長らえてしまっているのだろう、と。
死ぬことは怖くない。実際、死者というか、その魂は、そこら中にいる。自分も、その中の一つになるだけだ。人なんて高い所から落ちれば、簡単に死んでしまう。何故、自分は、それをしないでいるのか、分からない。自分で自分が分からない。
歩き続けて、ふと、ある光景が目に入った。猫が鼠を追いかけ回し、その後に解体して、死体を放置して去って行った。嫌なものを見たとだけ思った。鼠が可哀想だとか、そんな気持ちは微塵も感じなかった。
そういえば、自分は兄が死んだ時も怖いとは思ったが、悲しいとは思わなかった。それは、唯一の心の支えである兄を失った自分の行く末を思って、怖いと感じただけであり、死んでしまった兄への同情は湧かなかった。つまり自分は、他人の気持ちが理解出来ない自分は、利己的なのかと思った。だとしたら、そんな汚くて醜い自分が、嫌で嫌で堪らなくなった。
本当、何故こんな自分が生きているのだろうか。
堂々巡りの問いに答えは出ない。
この辺り、志賀直哉の「城崎にて」を意識して書いてますね。




