最初の危機
勇者たちが出発して一週間と四日。カルラーム王国国境から一〇〇キロほどの名もなき草原。深夜三時頃。
初めての危機と呼べる状況が発生していた。
「何だあれは……」
全員が草むらに隠れて、それが向こうを歩いて行くのを目の当たりにする。
「巨大なイヌか」
ディエンがつぶやく。
隠れている草むらから十メートルほどの距離。闇に紛れているような黒い毛皮の、体高が三メートルほどもあろうかという巨大な犬がいた。誰がどう見ようがそれは魔物だった。
「ルチフが気づいてくれてなければ危なかったな」
その時の見張り番はルチフだった。ルチフが魔物が近づいていると全員を起こした後、およそ五分後にそれが姿を現した。
魔物は魔族と違って人間の領地にも普通に生息しており場合によっては生態系の一部を形成している。
しかし魔のものなので時折不可解なものが姿を表す。この犬はそのいい例だ。
「ルチフ、あれをどう見る」
ディエンが小声で訪ねた。レンジャーであるルチフを信頼してのことだった。
「あれはこんな平原にいるはずがありません。 植物も獲物も豊富な森の中で多くの魔力を取り込んで巨大化する種の犬です。なぜ出てきたのかは分かりませんが、ここの近くに森はないはずです。 遠くの地からここに来た可能性があります」
それを聞いてセヴァンが腰の剣に手をかけた。
「なら倒した方がよさそうだな。旅人や商人が被害に遭うかもしれない」
「寝床の確保も必要だしね」
そう言ってレーゼンが実践用の魔法杖を空中から出現させる。収納魔法によるものだった。なめらかな白い木でできた、本人の身長を超える長さのものだった。所々に装飾品のような宝石が埋め込まれている。
「行こう」
ディエンが草むらから飛び出し背中に背負った剣を抜き放つ。一瞬にして犬の魔物の右後ろ足にたどり着いた。体全体を使って剣を振り、人間の胴体ほどもあろうかという、太い犬の足が切り裂かれる――と思った瞬間、犬が飛び上がってそれを回避した。ディエンが一撃のもとに屠れなかったのは初めてのことだった。
ディエンに遅れて他の全員が草むらから飛び出す。
次に犬にたどり着いたのは勇者だった。 飛び上がった犬が着地するよりも前に。瞬きほどの時間だった。
「ふっ!」
目にも止まらぬ速さで放たれた剣撃が、着地しようとした犬の右前足を切る。血が吹き出し、犬が苦痛と怒りの入り混じった咆哮を上げる。
着地した犬の左前足が、セヴァンを横になぎ払おうとする。
その直前にすでに勇者は跳躍していた。それと同時に下へ振っていた剣が、犬の太い足を切りつける。
またも犬が咆哮を上げる。
しかしその直後、その怒りの意識は視界の端に認められた高密度の魔力の塊によって遮られた。
レーゼンのかまえた杖の先端に円球状の魔力の塊が収束している。その魔法の詠唱と共に、それが放たれる。
「〚アスファル〛」
放たれた超高密度の魔力の奔流は、いともたやすく巨大な魔物の腹を大きく貫いた。魔物は苦痛によって声を上げることもできず、轟音とともに地面に倒れ伏した。
「やったぞ!」
セヴァンが剣を上げて歓喜の声を上げる。旅の中での初めての共同作業であった。
自身の体内の魔力で体を保っていた巨大な犬の体は、少しずつボロボロと抜け落ちる魔力とともに崩壊していく。
「あんな動きができたとはな、セヴァン。 目にも止まらぬ速さだった」
ディエンが近づいて言葉をかける。
「セヴァンが犬をジャンプさせてくれたおかげさ。それにレーゼンも、すごい魔法だったね」
「どうも」
魔法杖を魔法で消して、小さく頷いて答える。
「結局私は何もできませんでしたね……」
「ははっ、テルン、出番がないに越したことはないものさ」
この戦いの即興の連携力の高さは、個々人の技量の高さを示している。
そしてルチフは、少しずつ消えかかっている犬の亡骸のそばに立っていた。それにレーゼンも近づく。
「ルチフ、レーゼン、何を……」
セヴァンの疑問にはルチフが答えた。
「魔力を持つ魔物が体を保てなくなり、死ぬ時は、多くの魔力が空気中に散乱します。その魔力がこの犬のように多いと、うまく消えずに、新たな災害を生み出す場合があります。例えば、魔物の魂が強い力を持っていて、肉体がないままにその魔力を操り、アンデッドのように復活する場合もあります。今回はそれが起こった時の対処のために見守っています」
それを聞いて最初から知っている様子のレーゼンを覗いて、他の三人はなるほどと頷いた。
「確かに教会にいた時はそのようなことを学びましたね」
「最後まで気を抜いてはいけないということだな。気が抜けていた」
テルンが思い出すように言って、ディエンがいかにも戦士らしいことを言った。
「今回は大丈夫そうだね」
レーゼンが全て崩壊した犬の亡骸から背を向けて、くあ……とあくびをする。
「早く寝よう。私、朝弱いんだよ」
それを聞いて、ははっと勇者が楽しそうに笑う。
「その通りだね、レーゼン。君はいつもそうだ」
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