エレノール
ひどく青い、蒼穹の空だった。
静かな皐月の風が町を撫で、人々の間を吹き抜けていく。
聖都ロマヌムにおいて最も高い構造物である尖塔オベリスクは、皇帝の住む『王の丘』の頂上に、千年前と変わらぬ姿でそびえたっていた。
はるか遠い砂漠の王国の宝として存在していたそのオベリスクの表面には、その国の神話の物語が、尖塔のてっぺんから根元まで隅々に至るまで、文字として絵として、彫刻として刻み付けられていた。
それは事実上、現代において、西方大陸の世界において最も高い位置にある建造物だった。
そしてその頂点には、白い鳥がとまっていた。
世界で最も巨大な建造物の上に君臨するのは、皇帝でもどんな人間でもなかった。
それは帝国の紋章だった。
オベリスクの根元。そこには幾人もの鎧をまとった人々がオベリスクに背を向けて立っていた。
かつてまだ帝国の十分の一も支配していなかった頃の帝国が、南の大陸の大部分を支配していた砂漠の国を打ち倒し、その属州とした証であるオベリスク。
それらを監視していた人々の側には、はためく白色の旗が立っていた。
金色に縁どられた旗に、白い鳩があしらわれている。その白い鳩はオリーブの葉をくわえ、三角形の尖塔の頂上に止まっていた。
それが帝国の紋章だった。
白いオリーブをくわえた鳩とは、平和の象徴である。
人類のすべてを統一し、かつての太平世界を取り戻す。
それを願った千年前の建国帝フォディルムによって、この紋章は作られた。
穢れひとつのない白い鳥の紋章。オベリスクの元に立つ紋章の旗は、帝国創建以降、一度もそこに血を浴びたことはなかった。敵、味方にかかわらず、そこに一度も自然以外の汚れを許したことはなかった。
それは、帝国が一度も、その聖都の中に敵の侵入を許したことがないという事実を示唆する。
そのために、聖都は、『純潔の都』と呼ばれていた。
帝国を『純潔の都』として決定づける理由として最たる理由は、帝都全体を囲む、巨大な透明な天蓋であった。
千年前、帝国が魔族によって攻め滅ぼされそうになったその時、賢者スペドゥムと勇者レヴァードによって展開された『聖域』。
千年間、この聖域によって、帝国は一度も魔族の襲来を許すことはなかった。
それは人知を超えた千年前の奇跡とされ、それにちなみ聖都は『大聖域』の二つ名を持っていた。
千年続く巨大帝国の中心、その都は、文化と文明の結晶であった。
千年以上前より続く世界の文化を継承し、それと同時に、人類の文明の英知を結集する場でもあった。
日々多くの魔法使いや技術者が日夜研究にいそしみ、新しい魔法技術の探求発見が行われる都。
古代の歴史を今も宿しつつ、なおも新しい場所を探求していくことから、そこを『過去と未来の都』と呼ぶものもいた。
また、西方大陸最大の帝国を支配、統治する五王家ら皇族が住み、属州を統治する貴族たちがどれも一度は必ず訪れる場所であることから、『世界で最も高貴な場所』と言う人もいる。
『純潔の都』、『大聖域』、『過去と未来の都』、『最も高貴な場所』。
これらすべては、偉大なる帝国を言い表す、数多の比喩的な呼称のいくつか過ぎない。
『ビタロス統一帝国――シビタトゥム・フェデラタルム・ビトゥリー』
帝国の人々たちが自らの偉大な国を言い表すのに最もよく好んでつかう呼称は、『統一帝国』だった。
帝国の人々は自負していた。
自らは、唯一、人類の統一をその理念とする帝国であると。
全世界を自分のものとする、という安っぽい理念とは似て非なる。我らは『人類を統一する』という事を望んでいる、と。
したがって、彼らは自らの国を『統一帝国』と呼んでいた。
そして彼ら――帝国を『統一帝国』と呼ぶ、『帝国の人々』は、帝国の中では、圧倒的に少数だった。
帝国法は『帝国の人々』すなわち『帝国人』の定義を、こう定めている。
『帝国人とは、皇族、貴族、士族、臣民の総称である』
皇族――帝国の支配の根幹に位置する人々の人口は、五十もない。
対して貴族、帝国の属州各地を統治する人々の人口は、およそ二千、あるかどうか。領地を持つ者に限定すれば、三百にも満たない。
そして士族、帝国のために生き、戦うことを誓った人々の数は十万人。
ここまでの人々が帝国の中でとくに『支配民』と呼ばれ、そのほとんどの人口を士族が占めている。
そして、帝国の支配を直接受ける臣民たちの人口は、三百万人ほどだった。
帝国の構成要素はこれだけではない。帝国は、その領土の大半を属州が占めている。
属州に住む臣民ではない人々のことを『領民』と呼ぶ。
これらはそれぞれの属州を統治する『貴族』たちによって間接的に統治を受け、臣民である人々とは区別され、帝国人と名乗ることを許されない。
その数、およそ六〇〇〇万人。
つまり、帝国は十万程度の支配階級の人々によって、六〇〇〇万もの人々を支配していた。
しかし帝国はそれで満足をしない。名実ともに、帝国がすべてを支配し統一するまで、手を止めることはない。
それが帝国人の考え方だった。
とある学者はこう言った。
西方大陸の人口は、それだけで五億を超えるだろう、と。
西方大陸の外、南の大陸や未知にあふれている東方大陸を含めるならば、それの数倍に達するだろう。
たった十万や百万の人々で、少なくとも五億を超える人々を支配しようとするのか?
その学者は帝国をこう呼んだ。
『傲慢の帝国』と。
「傲慢の帝国、ねぇ……」
本をぱらりとめくる音がした。
「いつからそう呼ばれるようになったんだか。つい千年前まで、この半島にあった小さな国だったのに」
いや、あの時から、そもそも傲慢だったか――――
赤い髪の毛を、先のとがった耳に、慣れた手つきでひっかける。
五月も中旬、乾燥した風が吹き抜けた。
パラパラと、本のページが風にめくられていく。
ぱたり、とページの上に手を置いた。
しかし風はなおも吹き続け、本のページはめくられ続ける。
とうとうページは尽き、最後のページの裏と、本の裏表紙の裏がおもてになった。
『帝国の繁栄と趨勢 クレアトル・イストリエ著』
そこにはそう印字されていた。
その表面を彼は撫でた。
まるでそれを愛でるかのように。
かつて、本は何にも代えがたい高級品だった。
本ひとつを作るのに、何十もの羊と、人員と、技術と、そしてなにより、人間にとっては耐えがたいほどの時間がかかった。
聖典や辞典のような本を一つ作ろうとするならば、それだけで、庶民の家が数軒は立つほどの費用が必要だった。
しかし今は違う。
とある魔法使いによって発明された『本を造る魔法』によって、本は家ほどの価値があるものではなくあった。
樹木から紙を作り出し、そしてそこに印字をして、本とする。
その魔法によって、本を造る工程と時間は、かつての千分の一にまで短縮した。
常に時間に飢えている人間によって、魔法使いが開発した『本を造る魔法』は爆発的に普及し、今や西方大陸のみならず、はるか東の大陸の国々にまで届いているという。
その魔法は、今や人類世界にとって、無くてはならないものになっている。
それは、人類社会に、大革新をもたらす魔法だった。
本の裏面のおくづけの下には、短い文章でこう書かれてあった。
『帝国についての本を出版するにあたって、この名前は紹介せねばなるまい。本を造る魔法を発明した偉大なる魔法使い、賢者イヴォール』
百年以上前に開発したこの魔法。そしてそれを造った者の名前は、今もここに残り続けている。
「イヴォール様」
頭上から呼ぶ声がした。
顔を上げると、そこには鎧に身を纏った人が立っている。
「まもなくお時間でございます」
鎧兜の向こうからは男とも女ともつかない声が出てきた。
「誰だ?」
本の表紙を閉じながら、片手で赤い髪の毛を長くとがった耳にかき上げて、彼は訊き返した。
くい、と鎧の目覆いの部分を持ち上げて、鎧の人間は声を発した。
「エレノールでございます。皇帝陛下がお待ちです、イヴォール様」
「エレノール? エルフ語か、きみの名前は?」
分厚い本を両手に持って、彼はベンチから腰を上げた。
訊かれたエレノールは、困惑したように、眉をぴくりと動かす。
「……さあ。存じ上げません、何かしらの由来はあるとは思いますが……」
「星の夢だ。君の名前の意味は。おぼえておくといい」
「は、はあ……?」
困惑する鎧兵士の横を、彼は本を両手にすりぬけて言った。
彼の身長は、その兵士の肩ほどもなかった。まるで子供の用に、しかし不遜な振る舞いで。
「きみがしばらくは、わたしのおつきの従者になるのだな?」
彼は兵士を顔だけ振り返って、眉を吊り上げて、いたずらっぽく訊いた。
「いえ、わたしは、ただの報告役にございます」
「つまり、つかいっぱしりということか?」
目に見えて不快そうな表情をした彼に、鎧の人はあわてた。
「つかいっぱしりを、わたしの元に来させたと?」
「申し訳ありません、イヴォール様」
後ろについていきながら、エレノールは謝辞を述べた。
「…………エレノールか、いい名前じゃないか」
顔を前に戻して、彼はつぶやいた。
全く違う態度のかわりようだった。
「じゃあ、エレノール、わたしのおつきの従者になるといい」
「えっ……?」
彼は足を止めて、エレノールを指さして言った。
エレノールは目に見えて困惑し、指してくる指を、どうすればいいかわからないという視線で見つめていた。
エレノールを指す指が、パチン、と音を鳴らした。
「そんな重苦しい鎧は脱ぎなさい」
目下の子をいつくしむような口調だった。
とたん、エレノールの来ていた鎧は消滅し、質素で、しかしセンスの良い装飾が繊細ながらも施されたドレスに変わっていた。
「えっ、ええっ……!?」
エレノールは目を白黒させた。
体を覆っていた重りが急に消え、制限されていた視界が急に晴れた。
腰に帯びていたはずの剣もが、どこかへと消え去っていた。
「ふむ、いいセンスじゃないか」
彼はエレノールに近づいて、その恰好をまじまじと見つめた。
鎧を着ていた時は性別もわからなかった体の線が、今は女性として引き立てられている格好だった。
「では、ついてきなさい、エレノール」
彼はくるりと踵を返して、再び歩を進めた。
しばらくエレノールはどうすればよいかと、唖然として、自分の体と彼を交互に見つめていた。
しかし、彼が指を動かすのと同時に、くっ、と胸のあたりの服がひっぱられたので、訳の分からないまま、エレノールは彼の方へとついて行った。
かけあしでついて行くエレノールの前を、彼は歩いて行く。
その進路の先には、ここより数段低い位置の丘に建つ、白い宮殿があった。
壮大で古い、巨大な、白い宮殿だった。歴史と格式と技術を詰め込んだような、雄大で荘厳な宮殿。
それに向かって、二人は歩いて行っていた。
そして二人の後ろでは、西方世界で最も高い位置にそびえたつ異国のオベリスクが、天高く、蒼穹の空を突いていた。




