静かな戦場
広大な野原。
青い空。
頬を撫でるそよ風。
なんていい日なんだ。
こんな日こそ、散歩日和と言うのだろう。
ここが戦場でなければ。
魔族の侵攻の開始から三日。
我が領地――エスタトル侯爵領は、戦場だった。
私の名前はエスタトル・クストーディア=タトル・エスタトルの侯爵・シンテ。どうぞよろしく。
性別は女だ。名前がビタロス風っぽくないというのはよく言われる。
ただ親の片方が帝国属州の出身なのと、侯爵家ながらまだ歴史が浅いというので、この一家の名前は代々この南の地っぽい名前になっている。
年齢は二十六。幼少期は帝都で過ごしていたから、見た目はまだ若い。
軍役は一昨年にようやく終わり、ようやく貴族になってバンザーイ順風満帆の余生だーと思っていたら、これだ。
現在は自分の領地にある城のベランダで、腕を組みながら、地平線の向こうを眺めている。
なんていい日なんだ。再三そう思うのだが、なんて日だ、ともまた再三思う。
ふざけるなよ、戦争なんて。帝国の貴族で、しっかりとその貴族としての義務を果たし、あとは自分の領地のために自由気ままにやっていこう、と思った矢先にこれだよ。
おかげで私は貴族から軍籍に引っ張られて逆戻り。領地を守る将軍として動かなければならない。
現在、愛するエスタトル――名前からして分かると思うのだが、私の一家の名前はこの地から来ている――は、最前線だ。くそくらえ。口が悪いって? よく言われる。
昨晩、海――というか、海峡かな?――の向こうの帝国領、タンジェ(正式にはグルー伯領)が魔族にぶち壊され、次は私の領地だ。
今朝の報告で、私の愛する交易地にして自慢の売りどころのタリファ港がやられたことが分かったときには、もうマジでふざけんなと思った。
現在は、我が愛しの軍勢が、そこらで魔族の侵攻を食い止めてくれているらしい。
戦争なんて誰が起こると思ったか。
人間との戦争とは違う。
魔族はいつか必ず攻めてくる。
だが、誰もそれを予想できなかった。
人間の性だ。百年ぐらい攻めてこなかったのだからあと百年はこないだろう、とでも思うらしい。私もそうなのだが。
めでたく軍籍に逆戻りした私は、このクソ平和な光景を眼下にしながら、血と死にまみれた戦場からの報告をただ待つしかない。
それによると、戦局は最悪だ。
十中八九負け。
でも未だ私が生きているのはどういうことかと言うと、持ちこたえられている、らしい。
つまり時間の問題と言うことだ。
戦場との通信方法はいくらでもある。戦時やその他緊急事態にしか許可されていない、魔法による通信がある。
それにより、戦地と私、延いては帝国の中枢である帝都へと、驚くことに一〇秒以内で通信ができる。なんて魔法だ。
だが、情報は瞬時に送れても、物質はそうはいかない。
魔族との国境線は一夜にして崩壊した。それは一応、想定内、というか作戦上予想自体はされている。
その予想が的中した時のために、第二前線、第三前線、第二防衛線、第三防衛線など、さすが帝国の考案したものがいくつもある。
だが不運なことに、この愛しエスタトル領は、一夜で壊滅を喫したかつての最前線と、想定されている第二前線の、丁度間らへんに位置している。
くそったれ!
第二前線である、この領地のお隣さんのノクリア公爵領、もしくはマドリード鎮守府は、戦争が始まったその時から大急ぎで軍隊を整え編成し、見事に一日と少しで行軍を初めて現在南下中のことだが、こっちに到着するまで、あと一週間はかかるらしい。
もう壊滅しとるわ!!
マドリード鎮守府の一番南の軍隊を使って南下してもそれくらい。なぜなら、そこと、このエスタトルは数百キロ離れているから。
愛しの帝国よ……今度は鎮守府をマドリードではなくこのエスタトルにしてください。百年以上前なら、そもそも魔族との領域付近の第一前線と、それでもだめなら第二前線のマドリード、でなんとかなったのだろうが、今回は歴史にない大開戦。
従来の作戦で何とかなるわけがなかったんだろうな。
文明の進化は戦争の進化。軍略の進化は言わずもがな、一二〇パーセント戦争と直結している。
一〇〇年間何もなかった帝国に、軍略の進化があるわけもないよね。
ああ、麗しの皇帝。もう一二〇近いあなたには酷な話でしょうが、なんでこのエスタトルをあなたの大いなる準備の中に入れてくださらなかったのか。
大陸最大の武力を持つ帝国の貴族ならば、それにふさわしい最期を喫する必要がある。
ああ、私の人生ここで終わりか。まだ好きな男もいないのに。今身に付けている真っ白な装束と同じくらい純潔なこの体を最後に汚すのが、戦場の血と魔族の汚らわしい魔法か……。軍役中にいい感じに男とっつかまえとけばよかったかな。
「ああ…………」
本当に嫌だ。
帝国の貴族、それも公爵に次ぐ侯爵の地位を持つエスタトル家当代、それも末代の最期が、勝てぬ戦争でその身を堕とすこととは。
帝国貴族ならば、せめて勝って死にたい……。
「閣下」
背後から話しかけられる。
この声には覚えしかない。親の声より聞いたであろう、親友の声だ。
「グラー」
振り返って、彼の名前を呼ぶ。
「ノックぐらいしてほしいんだけど」
「僕と君の仲だろう。別にいいじゃないか」
私の従者にして親友。帝都で出会い、共に苦しく楽しい軍役を乗り越えた幼なじみ。
首にかかるくらいに少し伸ばした漆黒の髪に、貴族の側近従者を表す黄色の装束。
本名は、グラウス・トライヌス・グルー
名前にグルとかグラが多いので、グラーと私は読んでいる。
「だったらなんで私を閣下なんて呼ぶの?」
彼らしい、いつものいたずらっぽい笑みで、グラーは応える。
「適当に呼んでみたくなっただけだよ」
私の方へ歩いてくる。
「それにしてもどうしたんだ、そんな辛気臭い顔して」
「……いっそのこと私のこと抱いてくれない」
私の横に立った男の親友に、私は言った。
は? と言う顔で私を見てくる。
「大丈夫? 戦争でだいぶ精神が……?」
結構割と本気で引かれていた。
「処女で死ぬんだよ、あたし」
思わず昔の一人称が出てしまった。
「俺だって経験ないよ。ていうか貴族なのにまだそんなこと気にしてるの? もうとっくの昔に適当な男でも捕まえてると思ったよ」
彼も、俺、と一人称が戻っていた。
「そうできたら良かったけどね。心地よい親友が出来たせいで、余裕がなかったのかな」
われながら恥ずかしいことを口にしている。
でも正直、それだけ今は非常事態だ。
「なんだよ。まだ俺に気があるのか?」
グラーがベランダの、大理石の柵にひじをかけ、頬をついた。
「気がなければ言わないよ」
「冗談はそこにある?」
「冗談じゃなければ言わないよ」
「だよね」
かれこれグラーとは一〇年以上の付き合いだ。
別に愛とか恋とかが無いわけじゃない。別に彼になら抱かれてもいい。
でも抱かれたら抱かれたで気持ち悪いし、彼相手に興奮したくないし、彼から興奮されたくもない。
そんな関係性だ。もしかしたら、出会った最初の方は恋情があったのかもしれない。
もしかしたら、今後、二度目の恋をする機会があるかもしれない。いや、あったのかもしれない。
でも戦争が始まったから、終わりだ。
私の恋と言うほんのささいな非日常は、戦争と言う歴史の数ページにわたって爪痕を残す非日常に押しつぶされ、暇もない。
「……あと一〇〇年は生きられると思ったんだけどね」
私も彼の隣に頬杖をついた。
暖かい日差しが照り、頬をつめたい風というアクセントが撫でる。
「勝てるさ」
「は?」
急に彼が言う。
「何言ってんの?」
「帝国貴族が何言ってんの?」
「あ……」
そうだ。そうだった。
彼といると、貴族という実感が薄れる。
彼とは、同僚として、ほんの軍の一角を占める軍人として生きて来た時間が長すぎた。
だから今も、彼といると、自分が帝国貴族という実感が薄れる。
私が口にした言葉は、帝国貴族としては絶対に吐いてはいけない弱音だ。
彼はいたずらっぽく笑った。
「俺が侯爵の地位代わろうか?」
「後ろ向きに考えとくよ」
私はため息をついた。
「で、勝てるって?」
期待はほとんどしていない。でも、生き残れるのならば、それに越したことは何もない。
だから、いつもみたいに適当に聞いた。
「勇者がいるだろ」
「勇者?」
勇者の話は知っている。半年以上前に、カルラーム王国から出発した勇者。なんだっけ。
「なんて名前だっけ?」
「セヴァン。勇者セヴァン。赤髪で、女神の祝福を賜った聖剣――未登録だけど――を持つ勇者。他に、帝国屈指の天才の僧侶職、聖職者テルン、エルフさまの魔法使いレーゼン、ドワーフの戦士ディエン、正体不明の飛び込み参加、役職不明……いや、確か自然冒険者のルチフの四人の仲間が他にいた」
彼も貴族の従者に違わず、ものすごく有能だ。私の事務仕事はほとんど彼の管轄と言っても良い。
「ありがとう。でも、今は確か、プリムス家のところの……なんだっけ、アクインクムにいるんだよね? それがエスタトルで何できるの?」
ここから勇者がいるアクインクムまでは、ここからマドリードまでの距離の比じゃない。一週間どころか一年でもかかるだろう。しかも、アクインクムといえば、帝国の最東端だ。
「いつの時代だって、勇者は何とかしてくれた。それだから今の帝国や俺たちがいる。それを信じる俺たちに、勇者たちが何もしてくれないわけがないだろ?」
「……聞いて損したよ」
そもそもあまり期待してなくてよかった。そもそもグラーはだいたいこんな調子だ。
「じゃあ、こうしよう。女神さまが、何もしてくれないわけないだろう」
「そうは言ってもね……」
帝国貴族として、女神さまのことは信仰している。
でも、その恩恵を身に感じたことはほとんどない。
かつてあたしが居た帝都の巨大な聖域は、小さなころから見慣れたものだったし。
女神さまのことは知っていて信仰はしていても、日常で頼ろうと思った事はあまりない。女神さまに接するのは、食事の前のお祈りと礼拝の時ぐらい。
「まあ、シン」
彼は、家族と彼しか呼ばない愛称で私を呼んだ。
「俺は信じるよ。信じるさ。どうせ俺もお前も戦いに行くんだ。きっとなんとかなる」
「根拠は?」
私は彼の顔を、ジト目で覗き込んで聞いた。
「なんとなく、適当にそんな感じがするから」
「でしょうね」
いつも彼はこうだ。
適当、そんな感じ、そうしたくなったから。
従者として有能な彼は、人間としてはどこか適当だ。
でも、今回はいつもと違って、彼はもう一度口を開いた。
「俺が何とかするよ」
いつも通りにいたずらに笑う彼。
でも、いつもとは少し違って感じた。




