勇者の祈り
勇者一行が出発してから一ヶ月と二週間。ラザーヌディア王国。ポレシエ湿地。
月の出た空の下、小さな湖沿いの小屋の中で、薄暗いあかりに照らされた勇者一行が、地図を中心に輪になって座っていた。
「このまま南西に向かって南下して、カーパティア山脈を越えて……アトレー湾を渡ってビタロス半島に行く。そこから半島の南端の、シシリー島に行き、南の大陸へ入る…………」
勇者が地図を指さしながら、今後の長い旅路を示す。
これは魔王がカルラーム王国に行くまでの旅路を遡るものでもあった。
長い長い旅路。短くて、二ヶ月。しかし、十分な食料を確保し続け、一日八時間歩き続け、なんの脅威にも出会わず、気候変動などによる足止めを喰らわず、怪我もなく、国境を楽に通過できて、二ヶ月。つまり、ただの単純計算である。
「半年か、一年か、あるいはもっとかかるだろう。ここまで来ても、残りの道のりは倍以上あるし、しかもそこから未知の領域だ。国とよべるものはないし、何より……魔族の、本拠地だ」
みんなそれぞれそっと気を引き締める。一ヶ月前、魔族と戦った思い出が蘇る。
ディエンの剣は通じず、レーゼンの魔法は防がれ、セヴァンの剣はまともに当たらず、唯一魔族の魔法を使えるルチフによって助けられた。
「もっと強くならなきゃならない。この旅路が長いことは幸運だ」
セヴァンが全員とそれぞれ目を合わせる。全員それは良くわかっていた。
セヴァンがフッと笑う。
「強くなるだけじゃない。その時間で、僕らは成長できる。みんなで、成長できる」
皆頬が緩む。
すると、ふぁ……とあくびが小屋の中に響く。
レーゼンが眠そうに両足を抱えて座っていた。
「レーゼン、あなたという人は……」
テルンがレーゼンを苦笑して見つめた。
「人がいい話ししているというのに……」
レーゼンが目元をこすりながら答えた。
「ごめん……いい話だとは思ったけどさ……眠いんだよ……ものすごく……」
「全く、いつもそうですねあなたは」
テルンが呆れたように微笑んだ。
ははっ、とセヴァンが笑う。
「やっぱり、旅は楽しい方がいいな。旅をするなら、僕はこういう旅をしたい」
こくこく、とレーゼンの頭が揺れる。
それを見て、またセヴァンが笑う。
「そうだね。今日はもう寝ようか。レーゼンが旅にいると、いつも早く寝れるね」
小屋の中で全員が寝つき、暖炉の明かりが消えかけた時、ルチフがパチリと目を覚ました。
毛布や寝袋で体を包み、壁に寄りかかるか地面に横になるかで寝ている中に、一人セヴァンがぼんやりと、暖炉の前で座っていた。
いつも腰に下げている剣を抜いて、顔の正面に構えていた。
それは魔王が目を覚ましたことと関係していた。
勇者は祈っていた。自分に祝福を与えてくれた女神に。火に限らず光とは女神の象徴であった。光のあるところに女神が姿を表す。そういうわけでセヴァンは暖炉に向かって祈っていた。
暖炉の光がふっと消える。それと同時にセヴァンが剣を下ろして、そばにあった鞘に丁寧にしまった。
セヴァンがこちらに気が付く。
「起こしてしまったかい」
小さな声でそういった。
「先ほど起きました」
「そうか」
しばらく静寂が流れる。
「祈っていたのですか」
「ああ。女神様にね」
少しの沈黙。
「お告げがあったんだ。この暖炉の火を通してね。さっき消えてしまったんだけどね」
「はい。見ていました」
「そうか」
沈黙。
「おかしいと思うかい?」
「何をですか?」
「僕が女神様に祈っていることを」
ルチフは一瞬の後答えた。
「存在するものに祈っていることの何がおかしいのですか」
勇者は一瞬戸惑い、微笑んで返した。
「そうだね。その通りだ」
また一瞬の後、セヴァンが言った。
「君は信心深いね」
「そうでしょうか」
「女神様の存在を疑いもしていない」
「知っていることと信じるということは……拝むということはまた別の話でしょう」
「……そうだね」
魔王は人間の知らないことも知っている。三〇〇〇
人間は女神を拝むが、魔王はそのようなことはしない。ルチフは女神を知っているが、その存在を信じているが、拝むことはしない。
「魔族の中で、女神様ってどんな存在なんだい?」
それは一ヶ月前、ルチフが昔魔王軍にいたと話したことに基づく質問であろう。
「魔族によって様々です。知っているというものもいれば、鼻で笑う者もいます。しかし拝むものは決していないでしょう。人間の中でも、女神が魔族に敵対するものであるというのは、周知の事実でしょう」
「……そうだね」
セヴァンはうつむいて床を見た。それから寝ている仲間たちをゆっくりと見回した。
「……女神様から、こんなことを言われたんだ。このままでは魔王には絶対に勝てない。力遠く及ばない。でも、それは今の話だ、って。旅を続けていけば、必ず、着実に、強くなっていける、って」
その女神がそういうのならば、その通りなのだろう。
「女神様に声をかけてもらえるなんて、これほど心強いことはないよ」
セヴァンは再び床を見下ろして、逡巡した後、ルチフに目を戻した。
「本当は誰にも言っちゃいけないんだけどね。女神様が、君にだけは言っていいって」
その女神からこのような接触があるとは。そこまでするなら夢にでも出て来ればいい物を。
「君には特別な何かがあるのかな。女神様がこんなことを言うなんて、初めてだ」
特別かと言われれば特別である。おかげで少し足掛かりが掴まれたが、しかしまあ向こうから何かをしてくるということもあるまい。
「……この一ヶ月と少し、君と旅をしていて、君はほんの少しの感情の起伏しか見せない。女神様のことについても何か特別で、魔族の魔法も使える」
そういう勇者は目元で少しの逡巡を見せた。
「気になったんだけど、君はどうやって魔王領から抜け出してきたんだい?」
正直に答えれば走ってである。他の魔族に見つからないように自分の体に隠密の魔法をかけ、三日三晩走ってカルラーム王国に着いた。まだ記憶に新しい。
「魔族の隙を見計らって、体に隠密の魔法をかけ、三日三晩走り続けました」
「……君はずいぶん淡白に話すけど……つらかったかい?」
もちろん辛いはずはない。
「辛いはずはありません。これからそこを抜け出すというのに、どうして辛いことがありましょうか」
もちろんこれは勇者には違うように聞こえているだろう。
「そうか……」
正直この先どのように魔族たちが発展していくのかは大いに興味があった。しかし一〇〇年の短い時の間で作った国である。それに魔族という、人間並みに知能が高いだけで、本能から群れることはない、力のある生物たちが、人間のような文化文明の先進を、可能性の躍進を、見せてくれるとは思えなかった。生物の本能は、五万年経ったって変わることはない。
「君は、なんでこの勇者パーティーに入ろうと思ったんだい?」
随分経ってから、勇者はようやくその質問を口にした。
「魔族の国を壊すためです」
「…………」
勇者はすっと目を閉じた。
その数十秒後にはすぅすぅと寝息を立てていた。
時刻は午前三時。すでに明け方であった。
ルチフは毛布をはぎ、横に置いてから暖炉の側にしゃがみ込んだ。
魔法陣を展開して、そこに火をつける。
少しずつ燃え広がっていく火種に、魔王は語りかけた。
「私が勇者と共にすることは君の運命にあったかい?」
火から返事は何もなかった。
「どうせ私のことは見えていないだろう。しかし私の夢にくらいは出てきてくれよ。私はようやく眠るようになったんだ」
魔王はなおも暖炉を眺め続けた。火種が少しずつ燃え広がっていき、燃料の木を覆い尽くす。
「私は暇なんだ」
♪ヽ(・ˇ∀ˇ・ゞ)




