5 完結
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「漫才を変えるか、おれを変えるかってことだ」
エアコンのリモコンを操作しながら、菊太郎は言った。
「それとも、変えないか」
室内にも関わらず、吐く息が白い。フローリングが冷たくて、どっと疲労感が増した。
「うん」
勇介は、玄関の鍵を確認し、チェーンをかけた。
「おまえさ、いまの状況、どう思ってる? 変じゃない? 売れてるかどうかなんてわかんねえけどさ、でも、おれら、絶対変な売れ方してんじゃん」
移動のタクシーの中で言いかけたことを、菊太郎は口にする。
「菊ちゃん、女装いや?」
「いやってわけじゃないけど」
菊太郎は眉根を寄せた。
「おれの女装、笑えねえだろ」
「俺は、おもしろいけど」
「いや。だってそれは、お前がおれの中身をよく知ってるからだろ?」
勇介は、少しだけ考える素振りを見せた後、
「そうかもしれない」
と素直に頷いた。
「知らないひとが観たら、ただのかわいらしい女の子だ」
菊太郎は言い切る。
「それ、自信満々に聞こえるけど」
勇介は笑った。菊太郎は続ける。
「いままで、笑いを取ろうと思ってそういうこと言ってたけど、どうやら、おれは、本当にそこらへんのアイドルよりもかわいいらしい」
菊太郎は、ゆらゆらと頼りなげな声で言った。
「『かわいい』ってのは、危うい。ある場所では最強の武器になるかもしれないけど、ある場所では丸腰も同然だ。圧倒的に不利だ」
「そうかも」
勇介は頷く。
「おれさ、テレビで漫才できるんなら、なんでもやろうって思ってたの。売名行為だって言われてもいいから、現状を打破できるんなら、もう女装でもなんでもやってやろうって思ってたの」
するすると言葉が出てくる。あ、決壊したな、と思った。ならば吐き出してしまえ、と開き直る。
「でも。今日、気づいた。おれは、『かわいい』が圧倒的に不利になる場所に立ちたいと望んでる」
勇介は、わかったようなわからないような中途半端な表情を浮かべていた。その表情を見ながら、菊太郎は言った。
「おれ、髪を切ろうと思うんだけど」
勇介は、まるい目をパチパチと瞬かせていた。表情からは、勇介がなにを思っているのかは読み取れない。
呆れただろうか、と思う。おれのこと、ばかだと思ってるかも。ひとりで勝手に女装して走り出して、勝手に躓いて、さらに勇介を巻き込んで転んで、今度は女装をやめたいと言う。女装をやめるということは、きっと、リセットボタンを押すのと同じだ。セプテンバーが世界中から無視され続けていたあの頃に、戻ることになるかもしれない。
しかし、菊太郎はあまり心配していなかった。勇介がいる。そう思っていたからだ。いちばん強力な武器が、隣にいる。ずっといる。それは、菊太郎の自信でもあった。最近、勇介のピンの仕事が増えてきたのは、勇介のトーク力が評価されたからだ。欲目かもしれないが、そう思う。菊太郎がピンで呼ばれる、外見重視の色が見え隠れする番組とは違い、勇介の呼ばれる番組は、そのほとんどがトーク力を必要とするものだった。相変わらず、自分自身に自信を持つことは難しい。けれど、勇介が最高の相方だということだけは、自信を持って言える。口には出さないけれど。
勇介は、人見知りをする。本当はひと前で喋ることだって苦手のはずだ。だけど、勇介は真っ先に声を張り上げて、菊太郎のために道をつくってくれる。いつも、感謝している。やっぱり、口には出さないけれど。
自分が、本当に勝手なことばかりしているという自覚もある。勇介が怒っても仕方がない、とも思う。むしろ、怒って当たり前なのだ。けれど、勇介はきっと怒りはしない。菊太郎は、それを知っている。呆れているかもしれない。ばかだと思っているかもしれない。でも、勇介は怒ってはいない。勇介が怒る時というのは、限られている。勇介は、菊太郎のことで怒りはしない。
「うん。髪、切ろう」
勇介は頷いた。
「いいのか? また、もとに戻るかもしんないんだぞ」
菊太郎が言うと、
「また這い上がればいいんだよ」
勇介は軽く言う。
「売れないのなんて、慣れてるじゃん。そうなったら、また遊園地のステージ立たせてもらおうよ。それで、目の前のひとを笑わせるところから、もっかい始めようよ」
勇介は、本当になんでもないことのように言う。菊太郎の目から、涙がぼろっとこぼれた。本当に、もう、いろいろ決壊している。ずびっと鼻をすすると、
「うわっ、なんで泣いてんの?」
勇介は面食らったように言い、
「びっくりしたー」
いそいそとタオルを持ってきて菊太郎に差し出した。菊太郎は、素直に受け取る。
「今度は外見じゃなくてさ、俺らの漫才を好きになってもらえたらいいよね」
勇介は笑って言った。
こいつはこいつで、いろいろ考えることがあったのかもしれない。菊太郎はタオルを顔に押し当て、声を殺して泣いた。勇介は、
「とりあえずさ、来年のラフコン、決勝行こうよ。最後だし」
などと、さも簡単そうに言う。
ラフコン決勝は、ドラッグストアじゃねえんだぞ。頭痛薬買いに行くみたいに気軽に行ける場所じゃねえんだぞ。思いながら、菊太郎は、タオル越しにくぐもった笑い声をもらした。
「ねえ。ファミレス行こうよ」
菊太郎の涙が止まるのを待って、勇介が言った。
「なんで」
「お腹すいたから」
当然じゃないか、という表情で、勇介は口を尖らせる。時計を見ると、午前一時を過ぎていた。
「こんな時間に食ったら、また太るぞ」
「菊ちゃんは、太ったほうがいいよ」
「おれじゃねえよ。太るのはおまえだよ。おまえ」
「じゃあ、ファミレスの帰りに走るし、帰って筋トレもする。特に腹筋は毎日するよ」
勇介は言って、ジーンズからジャージに着替え始めた。
「食べなきゃ、元気出ないよ」
ジャージの上にダウンジャケットを着込みながら、勇介は言う。それを見ながら、菊太郎は、自分も空腹だということに気づいた。
「じゃあ、おれも、いっしょに走ろうかな」
菊太郎は呟いて、ジャージに着替える。
「大丈夫なの? 鼻血出したのに」
そう言う勇介に返事をせず、菊太郎は素早く支度を済ませる。邪魔な髪の毛を後ろでひとつに束ねていると、勇介が笑った。
「本当、菊ちゃん、華子ちゃんにそっくり」
「お前、ひとの母親、そんなふうに呼ぶじゃねえよ」
菊太郎は、うひゃっと笑って、勇介の背中を蹴飛ばした。
ファミレスには、ふたりの他には、三人ほどしか客がいなかった。各々食事や雑誌に集中しているようで、勇介に気づく心配はなさそうだ。すっぴんの菊太郎は、気づかれる心配など全くないが、勇介は違う。勇介自身はさほど頓着していないようだが、これでも顔が知られているのだ。
メニューを開くと、お腹が鳴った。不思議と、いつもより食欲がある。菊太郎は、注文したオムライスがテーブルに置かれると同時に、ぺろりとたいらげてしまった。
「和食が食べたい」
菊太郎が言うと、
「え。まだ食べるの?」
チーズハンバーグを飲み込んだ勇介が、呆れたように言った。
「食欲あるのはいいことだけど、食べすぎも良くないよ」
と、左手に持った箸の先を菊太郎に向ける。
「おい、やめろ。箸でひとを指すんじゃねえ。行儀が悪いぞ。てか、そうじゃなくて」
母ちゃんの作ったごはんを食べたくなった、とは言えず、
「洋食も飽きたし」
と、呟いてみた。
「洋食もなにも、飽きるほど食べてないじゃんか。菊ちゃんは、いっつも」
勇介は眉をひそめる。それから、
「俺が作ろっか。和食」
と軽く言った。
「なに言ってんだ」
「菊ちゃんは、ネタを作るでしょ。だから、俺はごはんを作るよ」
菊太郎は、勇介が本気で言っているとは思わなかった。自分もそうだが、勇介が料理をしているところなんて見たことがない。ああ。でも、こいつは居酒屋の厨房でバイトしてたんだっけか。そんなことを考えながら、菊太郎は、
「気持ちは受け取っとく」
とだけ言っておいた。
「お腹いっぱいになったら、走るのいやになっちゃったね」
ファミレスを出て直後、勇介が言った。
「往路を走って来れば良かったんじゃねえの?」
菊太郎がぼそっと言うと、
「それだ!」
勇介は菊太郎に人差し指を向ける。
「指さすな」
「走るのいやだから、ウォーキングで帰ろう。菊ちゃん、鼻血出したし、走らないほうがいいでしょ」
「お前、おれの鼻血をいいわけに使うんじゃねえよ」
「明日は、仕事午後からだから、午前中は病院だからね」
「無視かよ」
勇介は、ぐんぐんと腕を振って大股で歩き始める。菊太郎は、ゆっくりとその後を追った。
勇介の背中をぼんやりと見ていると、声が聴こえた。
「九条くんは、陸上部に入るん?」
ん?
意識が、一瞬、別のところへ飛んだ気がした。声は、自分の内側から聴こえてくる。
学生服を着た勇介の姿が浮かぶ。幼い顔。現在とは比べものにならないくらい、表情が乏しい。声も暗い。高校一年生、ふたりが、初めて言葉を交わした頃の勇介だ。
「窓から、走りょんのが見えたけえ」
十五歳の勇介が言う。
「中学ん時は入っとったけど、入らん。やめた」
まだ幼かった自分の声も聴こえる。
「なんで? 速いんじゃろ?」
「速いことないよ。それに、走るんは好きじゃけど、部活みたいにみんなで走るんは好きじゃない」
「そうなん?」
「別に、おれ速うなりたいわけでもないし、大会出たいわけでもないけえ」
教室には、ふたりしかいなかった。窓からは、部活動の喧騒が聴こえてくる。
「走るだけなら、ひとりで走るわ」
十五歳の菊太郎は、きっぱりとそう言った。
その言葉を、二十八歳の菊太郎は反芻する。そして、目の前を歩く勇介の背中を見た。
いまは、どうだろう。いまも、そう思ってる?
おもしろい漫才をしたい。ラフコンにも出たい。みんなの笑い声を聴きたい。
全部、全部、勇介といっしょに。
走るだけなら、ひとりで走るわ。
そんなの、うそだ。ひとりでなんて、走れない。
午前中、菊太郎は勇介に昨夜言われたとおり病院へ行った。病院では、疲労、ストレス、睡眠不足のスリーコンボを言い渡され、点滴を打たれ、栄養剤を処方された。入院もあるかもしれないと密かに心配していただけに、大事にならずに済んでほっとした。
午後からは事務所へ寄ってみた。髪を切った報告をしなければ、と思ったのだ。
タイミングよく事務所にいた篠宮のところへ行き、かぶっていたニット帽を取って見せると、篠宮は、怒ればいいのか泣けばいいのか、それとも笑えばいいのか決めかねているような、なんとも微妙な表情をした。そして、結局は怒ることにしたらしく、開いていた会議室に菊太郎を連れ込むと、
「九条さん、なにやってんですかあ」
と情けない声を出した。
「うわあ、もう。社長、絶対怒りますってー」
「うん。ごめん」
篠宮に対して、悪いなあ、と思うのも本当だが、しかし、菊太郎は髪を切ったことを後悔はしていなかった。どちらかというと、透明に澄み切ったように心中はすっきりとしていた。それだけ、決心が固まっていたのかもしれない。
「マネージャーとしては、僕は九条さんを叱らなければいけません」
篠宮は、なんだか持って回ったような言い方をした。それから、せきを切ったように説教を始めた。
「なんで相談してくれなかったんですか。事前に一言くらいくれてもよかったじゃないですか」
篠宮の説教を、菊太郎は神妙な顔で黙って聞く。
「九条さんの女装は、地毛ってとこも売りだったんですからね。カツラじゃありがたみが半減するんですからね」
ありがたみってなんだろう、と少し笑いそうになったが我慢する。一通り説教が終わると、篠宮は静かな声で言った。
「しかしですね、僕はマネージャーである前に、セプテンバーの熱心なファンでもあります」
初耳だ、と思い、菊太郎は顔を上げる。
「ここからは、いちファンとしての言葉です」
篠宮はにこりと笑い、
「グッジョブ、菊ちゃん!」
と、立てた親指を菊太郎のほうへ突き出した。
たったそれだけのことだったのに、菊太郎の涙腺は馬鹿みたいに緩んだ。
「あ、それ! 九条さん、もっとそういう素でかわいいところも表に出していきましょう」
篠宮に言われ、やっぱりこいつはマネージャーだ、と涙が引っ込んでしまう。
「涙も売りもんにすんの?」
「泣きそうになったら我慢しない方向でいきましょう。きっと、そっちのほうがいい」
肯定も否定もせず、篠宮はそんなことを言う。
「おれ、漫才やりたんだって」
「わかってます。それとは別口で」
あっさりと言ったあと、篠宮は眉根を寄せて菊太郎の頭をしげしげと眺めた。
「それにしても、なんで前髪まっすぐなんですか? もうちょっときれいに切ってもらえなかったんですか?」
不満そうに言う篠宮に、
「これ、ユッケが切ったんだ」
菊太郎が答えると、
「あー、なるほど」
篠宮は取って返したように、にまにましていた。
*
ファミレスから帰ってからのことだ。
「じゃあ、切ろうか」
風呂から上がった勇介が言った。
「切る? なにを?」
勇介が風呂から出るまでの間、菊太郎は録画しておいた番組を倍速でチェックしていた。目は画面に向けたまま問う。
「お前、おれの失恋エピソード話しすぎじゃない? だいたいどの局でも話してるぞ。そろそろ違うエピソードも用意しとけよ」
「髪だよ、髪。切るんでしょ?」
勇介は言った。
「髪? それ、どのエピソード?」
シャクン、という金属の擦れるような音がした。
「エピソードはいまからつくる」
「ん?」
勇介に視線を向けると、文房具の鋏を、左手でチャキチャキと動かしている。
「え。お前が切んの?」
菊太郎が、半ば呆気にとられたように言うと、
「うん」
勇介はにこにこと頷く。
「え、うそ。ちょ、待て。やだ。明日、床屋で切ってもらう予定だし」
「お金もったいないよ。それに、早いほうがいいでしょ」
「いや、でも。お前、それで切るの?」
菊太郎は、勇介の手にある文房具のハサミを指す。
「うん。だってこれしかないもん。バリカンってどこに売ってんのかわかんないし」
「普通にドンキにあるだろ。いや。ていうか、なに坊主にしようとしてんだよ」
「大丈夫だって。俺、いつも自分で髪の毛切ってるし、菊ちゃんのも切れるよ。自分で自分の髪切るよりも簡単だって」
そういえば、そうだ。勇介は、散髪屋や美容院に行く気配がないくせに、髪の毛だけは、いつも妙にこざっぱりさせていた。自分で切っているのは知っていたが、その鋏の先が自分に向くとは思っていなかった。
「大丈夫だって」
勇介は繰り返す。菊太郎はしぶしぶ頷いた。
パンツ一枚になり、菊太郎は勇介の拡げた新聞紙の上にあぐらをかく。こいつ絶対、他人の髪の毛切ってみたかっただけだ。
「なんか、切りにくいな」
菊太郎の背後にしゃがんだ勇介の呟きが耳に入り、菊太郎はむすっとした表情のまま、口だけを動かす。
「だって、それ左手用じゃねえじゃん。お前、持ってただろ? どこやったんだよ」
「どっか行っちゃった。こっちの部屋に移る時、なくしたのかも。てかね、菊ちゃんの髪、ふわふわしててやわらかいから、なんか心もとない。俺のは真っ直ぐで硬いからさあ。それに慣れちゃってて、なんか勝手がちがう」
勇介はそう言ったきり、ジャキジャキと菊太郎の髪を切っていく。
鋏の規則的な音を聴いているうちに、眠くなってきた。
「眠い」
呟くと、
「もう少しだから、我慢して」
ぴしゃりと言われ、菊太郎は必死に目を開く。閉じると寝てしまいそうだ。
限界。そう思った時、
「できたよ」
勇介が言った。
「ちくちくするから、お風呂でちゃんと流してね」
「ん」
菊太郎は素直に頷き、バスルームに直行した。鏡を見ると、
「うわ。おい、前髪」
前髪をまっすぐにされた自分の姿が映っていた。こけしに似ている。いや、それよりも、楳図かずおのあれに近い。
「まことちゃんかよ」
扉の向こうから、
「グワシ!」
と勇介の声が聞こえ、菊太郎は、うひひ、と笑いをもらした。
*
菊太郎が髪を切り女装をやめてから、案の定、仕事は激減した。笑ってしまいそうになるくらいに元通りだ。
篠宮の予言通り、社長にも怒られた。怒られたが、見捨てられはしなかった。ひとしきりふたりに説教をした後、社長は言った。
「あんたたちは良くも悪くも真面目だからね、あまり思い詰めないように。なにかあったら、すぐに相談するのよ。篠宮でも黒田でも、誰でもいいから」
「わかりました」
「今回みたいに、ふたりで勝手に取り返しのつかないことをしないように」
そして、こうも言ったのだ。
「だけど、事務所の方針に逆らうなら、それなりの成果を上げなさい。端からそのつもりなんでしょう?」
「はい」
勇介といっしょにそう返事をしながら、最後かもしれない、と菊太郎は思った。ラフコンも、この仕事も、もしかしたら、これが最後のチャンスなのかもしれない。
今回のラフコンの優勝者は、サービスエースでもなくネジ式バランスでもなく、無名のコンビだった。無名とは言っても、テレビに出ていないというだけで、芸人たちの間では、その名前は広く認知されていた。彼らの漫才は、おもしろかったからだ。いつ飛び出してくるかわからない、と警戒されつつも、どうして未だに燻っているのか、と疑問視されていたりもした。
彼らが優勝を決めたその時、菊太郎は、勇介と篠宮と共に事務所の会議室のテレビでその様子を観ていた。事務所的には、ネジ式バランスの結果次第では、ラフコンの放送が終わった瞬間から忙しくなるかもしれないという大事な時だったからだ。
ラフコン優勝者として彼らのコンビ名が呼ばれた瞬間、菊太郎の身体は興奮に震えた。
「やった、獲った……!」
勇介も興奮気味にそう言った。
決勝進出者の紹介VTRで彼らの名前が呼ばれた時のスタジオの「え、誰?」という空気からの優勝である。
「獲れるよ、菊ちゃん!」
興奮冷めやらぬ様子で勇介が菊太郎の肩を揺する。
「無名でも、本当にラフコン獲れる!」
漫才がおもしろければの話だ、と一瞬思ったが、
「獲れる!」
菊太郎もそう言って頷いた。つまり、おもしろい漫才をすればいいのだ。
「あの」
篠宮が遠慮がちに口を挟む。
「ネジバラは優勝を逃してるんで、彼らの前ではあまりはしゃがないようにしてくださいね。一応」
その言葉に、菊太郎と勇介は同時に真顔になった。もっともな話だ。
そして、年が明けた。
ふたりはバイトを再開し、またネタ番組のオーディションをこつこつ受け始めた。半年ほどそれを続け、そのおかげか、ごくたまにだがテレビで漫才を披露できる機会も増えた。一度、顔が売れていたというのも、ちゃんと役に立っていた。
他事務所の劇場にも、時々立たせてもらう。自らが参加料を支払って立たせてもらうその舞台で、ふたりは客の反応を見ながら、既存の漫才をベースに少しずつそれを改変していった。やはり、観てくれるひとの反応を直に感じるということは大切だ。セプテンバーの漫才は、どんどん形を変えていった。
まれに、地方のイベントの司会などの営業の仕事が入ることがある。そういう時は、必ず女装を依頼された。しかし、少しでも漫才の仕事があるという余裕からか、それもいまでは仕事として、きっちりと割り切ることができていた。なにより、この営業がないと生活ができない。テレビでは女装をしないと決めていたわけではないのだが、なんとなく、営業では女装、テレビでは漫才というのが、マネージャーである篠宮との間で暗黙の了解になっていた。
菊太郎は、泣きたい時に泣き笑いたい時に笑う、という赤ん坊みたいな感情表現で営業の仕事をこなしていた。最初は、篠宮に言われたからというだけだったのだが、どうやらそうしたほうが自分が生き生きとして見えるらしい、と菊太郎は徐々に気づいてきた。篠宮の言うことは、だいたいいつも正しい。実際、そうやってこなした営業の仕事の評判は上々だった。勇介のフォローが良かったということもあり、菊太郎は営業では勇介にしっかりと頼るようになった。
そんなふうにバランスを取りながら、ふたりは地道に仕事をこなす。
もう腐るのはやめようと菊太郎は思っていた。そうは言っても、自分を変えることは難しい。時々は、やはりどうしようもなく卑屈になってしまうこともあった。しかし、勇介ののんきそうな顔を見ていると、大丈夫かも、と思えてくるのだから不思議だ。
現在やれることを順番にやっていく。確認し合ったわけではないが、勇介も同じように考えているようだった。
勇介は、あの日のファミレスでの宣言通り、毎日ではないが、できるかぎりごはんを作ってくれていた。刺身や冷奴などの調理の必要のないものから始まり、いまではある程度のものなら作れるようになっていた。勇介の料理の腕は、わかりやすく上達している。しかも、菊太郎の食べなれた味にどんどん近付いているものだから、なんだか不思議だ。ありがたいなと思う。
勇介は、たまに誰かとひそひそと電話で話している。彼女でもできたのかと思い、そう尋ねると、
「華子ちゃんだよ」
勇介は菊太郎の母親の名前を口にした。
「なんでまた」
呆気に取られて尋ねると、料理を教えてもらっているのだと言う。
「なんでまた」
繰り返し同じように尋ねると、
「おれにできることは、このくらいしかないしね」
勇介は笑って言った。
「そんな。そんなことは、ないだろう」
言いながら、少し泣きそうになる。一瞬、泣いた方がいいのかとも思ったが、いまは別にカメラが回っているわけでも観客がいるわけでもないので普通に我慢した。
あともう少しで、ラフコンのエントリーの受付が始まる。改変に改変を重ねた漫才は、最終形態を迎えつつある。その結果、ツッコミがいなくなってしまった。ただふたりで立ち話をしているだけ。そういう形が、何故だかいちばん笑いをもらえたのだ。
ボケもツッコミも曖昧な、どう形容したらいいのかわからない漫才で、セプテンバーはラフコンを狙う。
不安がないわけではない。むしろ不安だらけだ。しかし、武器はこれしかない。以前よりはきっと、戦うことができるだろう。
漫才ができ上がってくると、今度は事務所主催のライブに立たせてもらった。春と夏の間の季節だった。
事務所のライブは、新人顔見せライブ以来だ。
「菊ちゃん、頭大丈夫?」
出番待ちの舞台袖で、ふいに勇介が言った。
「あ?」
言われた菊太郎の口からは、険のある声が出る。
「痛くない?」
ああ、頭痛のことか、と菊太郎は納得する。
「おまえ、言い方」
そう言って笑いながら、そういえば、と思う。頭痛の頻度は減っていた。時々は痛むものの、以前ほどではない。メンタルや食生活が改善されつつあるからかもしれない。
「大丈夫」
菊太郎は言う。
「大丈夫」
もう一度言って、ぎゅっと拳を握る。
「手がぐうになってるよ」
勇介が笑った。
そして、前を向く。出囃子が鳴り、ふたりは拍手の中に飛び込んだ。
*
八月に入り、海水浴場のイベントステージでの営業の仕事が入った。海水浴場に設置された簡易ステージで、若手芸人が漫才やコントをしたり、若手のバンドなどが演奏を行うのだ。とは言っても、セプテンバーに依頼があったのは漫才ではなく、そのイベントの司会の仕事だ。
こんな焼けた砂浜でみっちりと女装するのはつらい。なにより、メイクがつらい。皮膚の呼吸が止まっているような気がする。その上、汗を拭うのも気を遣わなくてはいけない。
「暑いよー、暑いよー」
横で勇介もスーツのネクタイをいじりながら、つらそうだ。他にもステージ衣装をスーツに限定している芸人たちはその選択を後悔しているようだった。「ティーシャツと短パンにしといたらよかった」という愚痴が方々から聞こえくる。
一回目のステージが終わり、休憩所としてあてがわれた仮設テントで、いっしょになった他事務所の芸人から、関西ではもうラフコンの予選が始まっていると聞いた。セプテンバーとは初対面の彼らは、関西を拠点に仕事をしているという。
「今年も、すごいのいる?」
期待と不安の入り混じった複雑な気持ちで菊太郎は尋ねる。
「います」
緑川と名乗る、そのコンビの片割れは言った。
「誰?」
「俺ら」
緑川は言う。
「ごりごりのダークホースですよ」
「なるほど」
菊太郎は頷く。ラフコンにかける思いは、エントリーした芸人の数だけあるのだ。
勇介は他の芸人たちとかき氷を買いに行っている。人見知りを直そうとしているのか、勇介は他にもひとがいる場所ではゲームをすることはなくなった。ただ単にトモダチコレクションに飽きたのかもしれない、と菊太郎は思っている。
仮設テントからは、海で遊ぶ人々の向こうに水平線が見えた。それを見ていると、なんだか自分がいつも以上に小さくなったような気がする。
「まあ、それは冗談にしても、どのコンビ見ててもおもろいっすよ、それぞれのカラーがあって。だから、どのコンビの漫才見てても不安になるんで、もうあんま見ないようにしてます」
そう言った緑川に、どこも同じだ、と菊太郎は思う。
ふいに、「これ、聞いてええんかな」と、緑川が慎重な様子で口を開いた。
「ん?」
菊太郎は聞き返す。
「セプテンバーさん、最近テレビ出てはりませんけど、なんかあったんですか? 方針変えとか?」
「方針変えっちゃ、方針変えかな」
菊太郎は答える。
「髪、切ったんだ」
菊太郎がカツラを取って見せると、緑川はなにかを察したのか、目をまるくしただけだった。
「なんで、前髪まっすぐなんですか」
それは、髪の毛が伸びる度に勇介が切っているからなのだが、その事実がなんだか気恥ずかしかった菊太郎は黙っていた。
「まあでも、どこも、いろいろありますよね」
緑川は間延びした口調で言った。
「きみらもいろいろあんの?」
尋ねた菊太郎に、
「そりゃ、ありますよ」
緑川は言う。
「九条さん、覚えといてください。セプテンバーさんのブレイクが、たとえ、ご本人さんらの意に沿わんもんやったとしても、そのポジションを咽喉から手が出るほど欲しがってる芸人が、ごまんといてるんです」
「うん」
菊太郎は頷く。
「次に控えてんのが、なんぼでもいてるんです」
「わかってる。これは、今世紀最大の我儘だ」
汗で湿った天然パーマをわしわしとかきまわし、菊太郎は水平線を見た。
*
漫才の舞台と司会の営業を繰り返し、もうすぐ九月になろうとしていた。
そんな折、勇介が問題を起こした。勇介がピンで出ることになっていた番組の打ち合わせでのことだった。勇介が、その番組プロデューサーのスマートフォンの画面にボールペンのペン先を突き立てたのだ。当然のごとくプロデューサーは激昂し、勇介の番組出演の話は、その場で白紙に戻された。
事務所の廊下の自販機の前で、菊太郎は篠宮からその報告を聞いた。自販機に小銭を投入する直前だった。菊太郎は、自分の顔から血の気が引いて行くのを感じた。終わった、と一瞬目の前が真っ暗になる。しかし、なんとか気持ちを立て直し、自販機に小銭を投入した。
なにやってんだ、あいつ。
あわや、ラフコン予選直前に謹慎か、と懸念しながらも、勇介が理由もなくそんなことをするやつではないことを知っている菊太郎は、複雑な思いで息を深く吸い、吐き出した。買おうとしていたブラックコーヒーをやめて、アイスカフェオレのボタンを押す。とにかく、今後のことは勇介から直接話を聞いてからだ。
「来てください」
と篠宮に言われ、勇介のいるらしい会議室へ連れて行かれる。
「なにも話してくれないんです」
篠宮が、心底困った様子で言った。
子どもかよ。菊太郎は思う。
パイプ椅子に座って目を伏せている勇介の前に、菊太郎はアイスカフェオレを置く。そして、
「家族のこと、なんか言われたのか」
勇介の隣の椅子に腰掛けながら尋ねた。テレビのプロデューサーが、知りもしない勇介の家族をどう馬鹿にできるのかわからないが、勇介がこういうことをする時というのは、大事なもの、つまり家族を馬鹿にされた時だけだ。大事なものを馬鹿にされると、勇介は我を忘れる。そして、怒りの感情に任せるままに、相手の大事なものを破壊するのだ。
「やりすぎなんだよ」
菊太郎はため息交じりに言う。
「気持ちはわかるけどさ、どっかで折り合い付けなきゃいけないだろ。もうおれらもいい齢なんだから、ちょっとは我慢しろって。おまえ、せっかく久々のピンの仕事だったのに」
これ、おれ自身にもあてはまるな、と思いながら静かに説教をする菊太郎に、
「ごめん」
勇介は呟くような声で言った。
「なに言われたんだ」
改めて尋ねると、
「あいつ、菊ちゃんのこと外見だけだって。女装やめたら使えないって。なんにも知らないくせに」
「え」
菊太郎は虚を突かれ、ぽかんと勇介を見る。
「菊ちゃんが走るの速いこととか、すごく高く跳べることとか、なにも知らないくせに。菊ちゃんがどんだけ考えてネタ作ってるか知らないくせに。俺らの漫才、見たこともないくせに」
「おまえ、あれか。おれのこと馬鹿にされたから、あんなことしたの?」
勇介は唇を引き結び、こくりと頷いた。
「ごめん」
「あ、あー、そう……」
そう言われると、なにも言えない。菊太郎は口を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返し、諦めて手を伸ばし、篠宮の腕をポンと叩く。
「タッチ。だめだ。もうおれにはなにも言えない」
思わず両手で口許をおさえた。顔が熱い。照れくさい。不覚にも、うれしいと思ってしまった。
「ずるい。こんなこと聞かされたら、僕だって叱りにくいです」
篠宮は困ったように言う。
「ごめんなさい。今後は気を付けます。もうしません」
勇介だけが神妙にしている。放置されたカフェオレの缶は、ふつふつと汗をかいていた。
『セプテンバー月岡、相方バカにされ激怒』
その出来事は、少々おおげさに脚色され、ボールペンの突き刺さったスマートフォンのイメージ画像付きで、インターネットの芸能ニュースサイトやスポーツ新聞を小さな記事で飾った。幸いなことにセプテンバーのコンビ愛に重点を置いた内容であったためか、後日、篠宮と三人でそのプロデューサーに謝罪に行った際には、思っていたよりも怒られずに済んだ。先方も、事を荒立てるつもりはなかったらしい。逆に、「こちらにも非がありましたので」と謝られてしまった。勇介の番組への再起用こそなかったものの、「また、なにかあればよろしくお願いします」と、お互い言い合い、なあなあの雰囲気のまま事態は収束した。
*
「初心に戻ったんだなあ」
黒田にそう言われたのは、ラフコン予選の三日前だった。
「え、初心」
菊太郎は黒田の言葉を繰り返す。
「漫才」
事務所の廊下、自販機の前のソファで火の点いていない煙草を指でもてあそびながら、黒田は笑った。
「ボケとツッコミがぼんやりした感じ、事務所オーディションの時のおまえらの漫才みたいだ」
その言葉を聞いて、菊太郎は一瞬息を飲んだ。
「退化してるってことですか」
進化していると思っていた。自分たちの漫才は変化して、進化しているのだと。
「いや」
黒田はゆるゆると首を振り、
「形はデビュー当時に戻ったけど、デビュー当時は、やっぱそれでも漫才の形をカチッとなぞってたじゃん。いまは、なんていうか、漫才かどうかも怪しいというか。ふたりでマイク真ん中に置いて立ち話してるだけっていうか」
と言う。
「おれらのは、漫才じゃないってことですか」
「いや、そういう形の漫才だろ」
黒田はのんびりと言った。
「漫才じゃないっぽい漫才だ」
のんびりとした口調とは裏腹に、指先は忙しなく煙草をいじっている。
「どうぞ。吸ってください」
菊太郎が言うと、黒田は素直に煙草に火を点けた。
「本当は、そんなもんないんだけどさ。仮に正統派の漫才という形があるとして」
煙を吐き出しながら、黒田は話を続ける。
「それで笑いを獲れるやつと獲れないやつがいる。正統派がハマんないやつは、他の方法で笑いを獲らなきゃいけない」
菊太郎は黒田の吐き出す煙を目で追う。
「おまえらは、その方法を見つけた。それだけのことだ」
「ありがとうございます」
菊太郎が礼を言うと、
「え、なにが」
笑いながら言った黒田は幸せそうに煙草を吸う。
三日後、関東地区でラフコンの予選が始まった。昨年の貯金などないセプテンバーは、一回戦からの挑戦だ。昨年、準決勝まで勝ち上がったコンビは一回戦を免除されるため、サービスエースやネジ式バランスと顔を合わせることはない。
一回戦のネタ時間は二分間。立ち話のような漫才で、どこまで行けるのか。正統派を目指して挫折した。そのふたりが、やっとのことで見つけた笑いを獲る方法。それがどこまで通用するのか。
最後までだ。
菊太郎は思う。
行けるところまで行く。最後まで見届けてやる。
会場の廊下で壁に向かってネタ合わせをしながら、菊太郎は拳を握った。
「菊ちゃん」
勇介の呼ぶ声で、菊太郎は拳をゆるっとほどく。
「楽しみだね」
勇介は言った。
そうか、楽しみか。
菊太郎は勇介の顔を見上げて思わず笑んだ
楽しみだね。
その言葉は、いまの自分たちを表すのにちょうどいい。
*
そして、十二月。慌ただしいステージの裏、ふたりは扉の向こうで響くナレーションを聞いていた。傍らのモニターに、セプテンバーの過去の写真や映像が流れる。
『一年目、一回戦敗退。二年目、二回戦敗退。三年目、三回戦敗退。四年目、三回戦敗退。五年目、三回戦敗退。六年目、準決勝進出。七年目、準決勝進出。八年目、三回戦敗退。九年目、欠場』
自分たちの宣材写真の上を、下から上へ流れ始めた文字を見て、菊太郎は少し笑った。
『そして今年。十年目、決勝進出。女装を封印し、彼らは再び闘いの舞台に立った。真っ向勝負でラフコンに挑む。もう、アイドル芸人なんて言わせない。初出場、そして、ラストチャンス』
ナレーションが、耳をただすり抜ける。菊太郎は深く息を吸い込み、そして吐き出した。
「アイドル芸人だって」
勇介も、笑っていた。
十年目、決勝進出。
読み上げられるのは挫折の記録。
それは、中身のないただの言葉の羅列だ。そんなもんじゃない。世界から完全に無視され続けていたあの頃のことを、そんな簡単には語れない。
芸人になってから、挫折続きだった。事務所の定期ライブに出たくて挫折した。ネタ番組に出たくて挫折した。正統派漫才を目指して挫折した。ラフコン決勝にかすりもせずに挫折した。
順繰りに巡ってくる挫折の連鎖。断ち切ることができたのかどうかは、わからない。
目指していたものから、明らかにブレた芸風。ブレにブレて、ブレまくったその先に、いま自分たちは立っている。あの頃の自分が見たら、なんて言うだろう。そして、いまの自分は、なにを言おう。
胸を張って会えるだろうか。あの頃の彼らに。笑って夢を見ていた、あの頃のセプテンバーに。
あたりまえだ。だから、ここに立っている。過去、一度は諦めた、その舞台にいま、ふたりで立っている。
ラフコンが全てではないけれど。それはわかっているけれど。それでも、やっぱり欲しかった。本当は、欲しくて欲しくてたまらなかった。漫才で、いちばんになりたかった。勇介とふたりで。
悩んで泣いて倒れて立ち止まって見失って、地団駄踏んで弱音を吐いた。
だけど、芸人をやめたいなんて、一度も思わなかった。それはきっと、隣に勇介がいたからだ。
走るだけなら、ひとりで走るわ。
そう言ったのは、昔の自分。しかし、自分ひとりだったら、とっくに逃げ出していたかもしれない。父の言うとおり、就職して結婚して、家族を作って、今頃、子どものひとりやふたり、授かっていたのかもしれない。いまここには、立っていなかったかもしれない。それが悪いとは思わない。それも、ひとつの幸せの形だ。
でも、おれは、おれたちはここにいる。確かに、ここに立っている。
この先、どんなことがあっても、きっと大丈夫。悩んで悩んでもがいたぶん、ネタになる。そう開き直ることができるくらいには、図太くなった。それに、そう。もう、あれ以上の底はないだろう。それに近いところまで落ちたって、また、ふたりで這い上がればいいだけだ。
『セプテンバー!』
名前を呼ばれる。出囃子が鳴る。扉が開く。
サンパチマイク目掛けて階段を駆け下りる。
ここからだ。まだ終わりじゃない。ここから、やっと始まる。
楽しみだ。楽しみだ。楽しみだ。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
行くぞ、ユッケ。声を出せ。おれのために、ふたりのために、道をつくってくれ。
さあ、思いっきり、暴れてやろう。
「どーもー! セプテンバーでーす!」
*
菊太郎は、昔からひとの顔を覚えない。決して覚える気がないわけではないのだが、何度か会って親しく言葉を交わすまでの関係にならないと、顔と名前が一致しないのだ。現在は、仕事上、注意して覚えるよう努力しているが、やはり苦手だということに変わりはない。
そんな菊太郎の脳みそに、一発で刻みつけられた存在がいた。それが、勇介である。
勇介とは、高校に入ってから知り合った。菊太郎たちの通っていた公立高校は、隣接する三つの町の中学からほとんどの生徒が入学してくる。最初は勇介も、菊太郎の頭の中で「他中学出身で同じクラスのやつ」というグループにひと括りにされていた。それも、同じ教室にいるから同じクラスだと判断できていただけで、教室から一歩でも出てしまえば、同じクラスかどうかもよくわからなくなる、全くもって曖昧な記憶であった。出身中学が同じ生徒は別として、当然のように菊太郎は、クラスの生徒の顔を全く覚えていなかったのだ。
高校に入学して、まだ一ヶ月ほどしか経っていない頃であった。それは、体育の後の休憩時間に起こった。体育が終わり、教室に戻って着替えようとしていた時だった。女子生徒は着替えのために、ちゃんとした更衣室をあてがわれており、男子生徒にはそれがなかった。必然的に、教室で着替えることになる。みんなが制汗スプレーの貸し借りで忙しくしていた中、菊太郎と同じ中学出身の田原という生徒が、勇介の兄のことをからかった。それは、「さっき、お前の兄貴見たけど、なんなん、あの眼鏡。超だせー」という、わざわざ言うのもどうかと思うような、くだらない一言だった。勇介の兄は、同じ高校の三年生だった。彼は、ド近眼であり、当時はレンズの厚い、丈夫さだけは保証されているような垢抜けない大きな眼鏡をかけていたのだ。田原の口調からは、明らかな悪意が感じられた。田原はもともと、他人を馬鹿にするために、そういうくだらないことを平気で言うようなやつだった。またか、と菊太郎はいやな気分になったのを覚えている。それと同時に、教室の空気が凍りついた。正確に言うと、教室にいた約三分の一の生徒が一瞬だけ固まったのだ。それは、勇介と同じ中学出身の生徒たちだった。
彼らは瞬時に制汗スプレーを置き、勇介を抑えつけようとした。しかし、それでも少し遅かった。勇介は素早く田原の机に近付くと、そこに置いてあった腕時計を掴んだ。
「いけん! やめえ、つきおか!」
誰かが叫んだ。勇介は窓を開け、躊躇いなくその腕時計を外に向かってビュッと勢い良く投げた。川で平たい石を投げて遊ぶ時のような投げ方だった。
ものすげえことするのお、こいつ。菊太郎は思わず目を見張った。「つきおか」という名前が、窓の外に向けたその鋭い目つきと共に、菊太郎の脳みそにしっかりと刻まれた瞬間であった。
直後に、勇介と同じ中学出身者からもたらされた情報によると、勇介は感情の幅が極端に狭いのだという。笑うことも珍しければ、怒ることも滅多にない。それは、もう本当に、なにをされても怒らないのである。
中学二年生の時、そんな勇介を怒らせようと面白半分で給食のシチューに毛虫を入れたのだそうだ。それでも、勇介は怒らなかった。表情を変えぬまま、シチューから毛虫を取り出し窓の外に落としたあと、勇介はそのシチューを全てたいらげたのだという。
「うげ」
菊太郎はこのくだりで思わず吐き気をもよおした。
「あれは半分伝説になっとるで」
情報提供者はそう言った。しかし、例外があった。家族だ。勇介は自分の家族を馬鹿にされると、一瞬で感情のメーターが振り切れるのだ。そして、烈火の如く怒る。我を忘れて怒る。我を忘れてなにをするのかというと、馬鹿にした相手の「大事なもの」を壊すのだ。「大事なもの」を馬鹿にされたから、相手の「大事なもの」を壊す。ごく単純な復讐である。
中一の終わり頃、母親が大女だと馬鹿にされ、失言者の新品のスニーカーをどぶに投げ込んだ。中三の初め頃、弟の顔が家族の誰とも似ていないことを馬鹿にされ、失言者の鞄から電子辞書を引っ張り出してそれを机の脚で思い切り潰した。そして、小学生の時。これは情報提供者の彼も又聞きで誰を馬鹿にされたのかは不明なのだが、勇介は、その失言者の二十四色色鉛筆を一本一本、全て折ってしまったらしい。それら全て、彼らが当時いちばん自慢に思っており、大切にしていたものだった。
馬鹿にしたやつは当然悪い。しかし、勇介もやりすぎる。その都度、大人にこっぴどく叱られるのは勇介のほうだったという。そういうことがあってから、勇介の家族を馬鹿にする者は誰もいなくなったそうだ。
勇介が投げた、田原の腕時計。まるっこくてかわいらしいそれは、確かスプーンという名前がついており、当時、中高生の間で大流行していた。値段は、安くてもだいたい一万円はするものだった。中高生でなくとも普通に高価なものである。田原はそれを、高校の入学祝に父親に買ってもらったのだそうだ。そういえば、自慢気にしていたような気がする。菊太郎は、「大事なもの」と聞かされて、後からそう思った程度だ。
あいつは人間観察能力に長けとんじゃの。菊太郎はぼんやりと思う。勇介はいろんなことを見て、聴く。そして、その情報処理がきちんと脳内で行われている。何気ない仕草や言葉を組み合わせ、誰がなにを大事に思っているのかを、勇介の脳は自然に導く。そして情報は、ちゃんと頭の中に保管される。咄嗟の時、瞬時にその情報を引き出せるように。
あいつ、すげえわ。おれには、ようできん。他人の顔もよう覚えんもん。
菊太郎は、勇介に興味を抱いた。
その日の放課後、勇介は職員室に呼び出され、担任にみっちりと説教をくらっていた。失言者である田原への説教は短時間で終わったようだ。田原は、傷だらけになった腕時計を持って泣いていた。田原の手の中の時計を覗き込むと、きちんと現在の時間が表示されていた。
「おお。壊れとらんのんじゃ。すげえのお」
菊太郎が言うと、田原は一瞬キョトンとして、それから少し笑った。
「じゃろ。スプーンは丈夫なんじゃけえ」
こいつ、変なこと言わんとにこにこしとったらええのに。菊太郎はそんなことを思いながら、
「じゃあの。はよ帰れよ」
と田原に軽く手を振り、グラウンドへ向かった。
入ろうかどうか迷っていた陸上部の体験入部を途中で切り上げ、やはり高校では部活には入るまい、と決意しながら教室の扉を開けると、勇介がいた。帰り支度をしているようだった。
「いままで、説教だったん?」
声をかけると、勇介は、キョロンと菊太郎に目をやり、無言で頷いた。無愛想なやつだ、と菊太郎は思う。
「月岡くんは、家どのへん?」
尋ねると、
「駅の近く」
簡素な答えが返ってきた。
「チャリ通?」
「うん」
「ほいじゃあ、駅まで後ろ乗っけてってや」
駄目もとで言うと、勇介は不思議そうな顔で菊太郎を見た。勇介がなにも言わないので、
「いやだったら、べつにええんじゃけど」
とつけ加える。勇介は、
「いや。ええよ」
と呟いた。
「九条くんは、陸上部に入るん?」
体操服から制服に着替え、もたもたと学ランのボタンをとめていると、勇介は、「窓から、走りょんのが見えたけえ」と言う。
「中学ん時は入っとったけど、入らん。やめた」
「なんで? 速いんじゃろ?」
「速いことないよ」
菊太郎は笑って、首を振った。
「それに、走るんは好きじゃけど、部活みたいにみんなで走るんは好きじゃない」
「そうなん?」
「別に、おれ速うなりたいわけでもないし、大会出たいわけでもないけえ。走るだけなら、ひとりで走るわ」
勇介は興味があるのかないのか、
「ふうん」
と呟いたまま、ぼんやりと佇んでいた。
「月岡くん、背ぇ高いのお。何センチ?」
勇介の自転車の後ろから、その背中に声をかける。
「こないだの健康診断ん時は一七八だった。たぶん、まだ伸びようる」
勇介は、抑揚のない声で答える。
「ほんま。ええのお。おれ、低いけえ羨ましいわ」
「九条くんも、これから伸びるじゃろ」
「だったらええんじゃけど」
それからは、無言で自転車を漕ぐ勇介の首の後ろを眺めていた。
「じゃあね、九条くん」
駅前で自転車を停め、菊太郎が降りるのを待ってから、勇介は言った。
「菊でええよ。みんなそう呼びょうるし」
「うん」
いまにして思えばあの時、勇介は、
「ユウスケでええよ」
と言ったのだと思う。しかし、その時、ふたりのすぐ横をトラックが走った。その音で勇介の声は掻き消え、菊太郎の耳には、
「俺も、ユ……ケでええよ」
という形で届いた。
「ユッケ?」
菊太郎が聞き返すと、勇介は一瞬、不思議そうな表情をしたが、すぐに、
「うん。ユッケでええよ」
と、のんびり頷いた。
「じゃあの、ユッケ。また明日」
「うん。また明日、菊ちゃん」
他人を呼び捨てにできない性格なのだろうか。自信がなさそうに菊太郎を呼ぶ声は、小さい。
「菊ちゃんて。母ちゃんと同じ呼び方すんなや」
菊太郎が大袈裟に顔を顰めるて見せると、勇介は、くふふ、と笑った。
「まあ、別に菊ちゃんでもええけどよ」
「うん」
勇介が笑うと、キョロンと大きな目が、糸みたいに細くなり、表情が柔らかくなる。
ああ、なんじゃあ。こいつ、笑よったほうがええじゃんか。むすっとしとらんと、もっと笑うたらええのに。ほうじゃ。おれが、毎日笑わしちゃろう。ユッケも田原も、みんな、おれが笑わしちゃろう。
改札を抜けて振り返ると、勇介がまだこちらを見ていたので、菊太郎は大きく両手を振った。
「また明日!」
了
ありがとうございました。