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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 それからの日々は、篠宮が言っていたとおりだった。

 いままで経験したことのない目の回るような忙しさ。休みをもらっていたバイトは、辞めざるをえなくなり、以前は毎週のように立っていた遊園地のステージには全く立てなくなった。ネタ番組のオーディションを受ける時間も、漫才の稽古をする時間も、新しいネタを作る時間も、いままで以上になくなった。

 漫才が、できなくなった。漫才をしたかった。菊太郎は、胸の内に発生した、もやもやとした違和感に気づかないふりをし続ける。

 グラビア撮影の仕事が増えた。かわいらしい洋服を着せられた。もちろん女物。カメラに向かってアイドルのように微笑む。芸人なのに。

 女性誌の取材が増えた。好きなひとに告白するなら、どんなシチュエーションで? という質問に、絶句する。それ、芸人にする質問かね。

 ボケ回答はすべてボツになり、ボケなのか本気なのか、紙一重の歯がフワフワ浮くようなロマンチックな回答が採用された。

 え、よりによってそんなさっぶい回答使うの?

 菊太郎は再び絶句する。

 変な売れ方をした。菊太郎は思う。現在のこの状況を「売れている」と判断するのならば、自分は、自分たちは、セプテンバーは、芸人として間違った売れ方をしたのだ。

 菊太郎は以前のように髪の毛を短くすることができないでいた。

 違和感を無視できなくなった頃、菊太郎は、肩より下まで伸びてしまった髪の毛を、切ってもいいか、と社長に伺いを立てた。しかし、それは「だめ」の一言で一蹴されたのだ。

「まだ、だめよ」

 社長の背後の飾り棚、ガラスの一輪挿しが視界に入る。それに挿ささった花が自分と重なった。

 作り物の花。あれは、自分だ。

 確かに女装をやめたら、終わりのような気はしていた。いまのこの状況は、一過性のものだとわかっている。自分たちは、漫才で売れたわけではないのだから。実力で売れたわけではないのだから。

 見た目だけ。一発屋。そう言われていることを知っている。どうせ、来年消えるんでしょ。そう言われていることも知っている。

 いつか終わる。その不安を抱え、びくびくしながら仕事をこなす。がんばらないと、がんばらないと、がんばらないと。頭の中で、そればかりを繰り返す。


 八月の終わり頃、勇介が体調を崩した。暑さと疲労と睡眠不足。抵抗力が落ちているところへ夏風邪が追い討ちをかけたのだ。

 菊太郎がそれに気づいたのは、スタジオでのグラビア撮影で勇介と手を繋いだ時だった。

「すみません。手って繋ぐ必要あります?」

 菊太郎の質問に、

「ボディタッチが多いほうが、女性読者にウケるんですよー」

 と、なんとも大人な返事が返ってきた。倒錯的な。おっさん同士が手を繋いでいるのを見て、なにが楽しいのか。菊太郎は苦笑する。

 勇介は無言で、用意された品のいいデザインのスリーピーススーツを着て、ネクタイを締めたり緩めたりしていた。

 勇介はもともと、菊太郎とふたりの時やテレビ番組の仕事の時以外ではあまり喋らないほうなのだが、その日は、いつにも増して無口だった。

「ユッケ。手ぇ繋いでくださいって」

 菊太郎が差し出した左手を、勇介が右手でゆるく握る。

「熱い」

 その言葉は、反射的に口から出た。勇介の手は、驚くほどに熱かった。

「篠宮くん!」

 撮影スタッフに断って、菊太郎は篠宮を呼んだ。ほぼ同時に、勇介がまるい目を人形みたいにパタッと閉じて、菊太郎のほうに倒れ込んだ。

「わ。お前、もうちょっと待てねえのかよ!」

 勇介の大きな身体を抱きとめるも支えることができず、菊太郎は勇介を抱えたままへたり込む。

「ごめんなさい、ちょっと撮ります!」

 カメラマンが申し訳なさそうに、しかし、どこか嬉々として叫び、フラッシュが光った。

「え。おい、撮るな。撮るな、撮るな! 病人だぞ!」

 菊太郎は叫んだ。

 この時、勇介の意識は完全に飛んでいた。その身体は溶けそうなくらいに熱かった。篠宮の呼んだタクシーが到着するまでの間、勇介の意識がない状態で撮影は続行された。

 後日、その雑誌が事務所に送付され、それには、エプロンドレスを着てテディベアのように座る、笑うことを断固拒否したふくれっ面の菊太郎と、その肩にもたれかかって眠るスーツ姿の勇介という、季節感ゼロの写真が使われていた。ぱっと見、アリスと執事だ。

 それを見た勇介は、

「この写真、ぜんっぜん覚えがないんだけど……」

 と青ざめていた。

 勇介の体調は、点滴一本でなんとか動けるくらいには回復し、その日の仕事以外にはさほど影響は出なかったものの、菊太郎の心境に大きな変化をもたらすことになった。

 菊太郎は、欲しかったものをひとつ、諦めることにしたのである。

 たいしたことではない。それが絶対に必要だというわけではない。

 菊太郎はそう思ったし、実際、勇介にもそう言った。

 勇介は、自分なら大丈夫だから、と言った。しかし、菊太郎は首を振った。

 大丈夫じゃない。勇介は倒れたのだ。倒れたのが自分なら良かった。それなら、自業自得だ。なんの問題もなかった。だが、倒れたのは勇介だ。いちばん、倒れられては困るやつが倒れた。自分が勇介に無理をさせたからだ。ギリギリまで酷使したからだ。

 その思いが、罪悪感が、菊太郎の心中に渦巻く。それを諦めれば、勇介は少なくとも眠ることができる。体を休めることができる。たいしたことではない。本当に、たいしたことではないのだ。菊太郎に必要なのは、今回諦めたそれではなく、勇介なのだから。

 その日も、帰宅したのは結局、日付が変わってからだった。

「たいしたことじゃねえよ。別に、どうしてもってわけでもねえし」

 勇介を布団目掛けて蹴っ飛ばしながら、菊太郎はもう何度も言った台詞をもう一度繰り返した。

「そんなのなくても、おれは、お前と漫才ができたらそれでいいんだ」

 真夜中、二時すぎ。そんな時間だからこそ、ぽろりとこぼれた本当の言葉。

 新しい部屋のフローリングがやけに冷たく感じて、菊太郎は足の指をぐにぐにと動かした。

「菊ちゃんがいいなら、いいけどさ。でも、本当にいいの?」

 タオルケットにくるまって、少し不満そうに呟く勇介に、菊太郎は曖昧な笑みを返した。

「しつこいぞ。いいんだよ。お前はおとなしく寝てろ」


 ようやく忙しさにも慣れて落ち着いた頃、東雲からの手紙を読んだ。消印を見ると、あれからすぐに書いてくれたようだった。

 受け取ったのは、十月。三ヶ月分のファンレターの入った紙袋の中に、それはあった。謝罪の言葉や、あの時の漫才の感想などが、まるっこくかわいらしい字で綴られていた。

 セプテンバーの漫才をテレビで観られる日を楽しみにしています。

 そう締め括られた手紙を読んで、菊太郎は声もなく、ただ泣いた。

 心が乱れる。それでも、どこか冷静な頭で、なんとかやっていくしかない、と拳を握った。

 開き直れ。「かわいい」を活かせ。女装で笑いを獲れ。もう、とっくに覚悟はできていたはずだ。漫才でなくとも、笑いは獲れる。

 自分で選んだ仕事だ。ちゃんとやれ。

 そして。そして、笑え。ユッケの負担になるな。

 これからどうなるんだろう。わからない。やるしかない。だから、ちゃんと。ちゃんと、楽しめ。

 菊太郎は自分に言い聞かせた。チャンスは、きっとそこにしかないのだ。

 それから涙を拭い、前方を睨んだ。

 にっと笑顔を作ってみる。こめかみがぴくぴくと引き攣った。


   *


 移動のタクシーの中、菊太郎は、じっと固まって闘っていた。何と闘っているのか、自分でもよくわかっていなかった。ただ、どうしようもない憂鬱と焦燥感だけが、菊太郎の胸の内を支配していたので、きっとそいつらと闘っているのだろう、と、ひとりで納得した。

 負けてはいけない。

 俯くと、伸ばしっ放しにしている髪の毛が、ぞろりと頬の横に垂れた。必要以上に長いその髪の毛が心の底から忌々しくなり、菊太郎は勢いよく顔を上げる。

 また今日も女装をさせられる。そう思うと自然とため息が出そうになるが、菊太郎は、いつもそれを寸前で飲み込む。ため息など、ついてはいけない。仕事があるということは、ありがたいことなのだから。

 決めたじゃないか、ちゃんとやるって。やるしかないんだ。

 ぐるぐると同じところばかりをめぐる菊太郎の思考は、同じところを同じように通って、いつも同じところに戻ってきてしまう。いい加減、自分でもうんざりだ。気持ちを切り替えないと。菊太郎は思う。

 それに、今日は勇介も一緒だ。いつかのように、ひとりで軽くパニックに陥るなどということは、きっとない。

 大丈夫だ。

 大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、菊太郎は膝の上に置いた両の拳に、ぎゅっと力を入れた。隣に相方がいるということは、なんて心強いのだろう。菊太郎は、強張った身体の力を抜いてみる。

 もう何度も経験したが、タクシー移動は未だに慣れない。自分たちを運んでくれるタクシーの運転手という存在は、ただ乗り合わせただけの電車の乗客のように、無関係な他人というだけでは済まされない何かがあるような気がして、終始落ち着かないのである。勇介のことを人見知りだと思っていたが、こういうことを思う自分のほうが、実は人見知りなのかもしれない。

 左隣に座る勇介に視線を投げると、勇介は、どうしたの? という表情で菊太郎の目を覗き込んできた。

「月岡、お前さあ」

 言いかけて、菊太郎は、やっぱりなんでもない、と口を閉じる。こんな、自分たち以外の人間がいるタクシーの中などで、聞くべきことではないような気がした。勇介も、そう、と言ったまま、それ以上追求しようとはしない。少しだけ不満そうな表情が顔の表面をかすめたのは、自分が苗字で呼んだからだろうか。

 お前、おれのこと怒ってる? それとも、バカだって思ってる? お前はさあ、どう思ってんの? いまの、おれらのこの状況をさあ。

 先程、口にしかけた問いを頭の中で反芻してみる。

 宙ぶらりんな気分のまま、菊太郎は勇介から視線を外すと、窓の外の景色を眺めた。十二月の陽射しが、目の奥をやわらかく刺激する。

 窓から見えるピカピカの立派なビルは、テレビ局である。こうなる以前は、ネタ番組の出演オーディションでしか訪れたことのなかった場所だ。タクシーはいま、その向かいのスタジオへと向かっていた。

 あんなに憧れた場所なのに、あんなに望んでいた場所なのに。菊太郎の心は少しも晴れない。

 あーあ。髪、切りてえなあ。

 菊太郎は再び、ため息を飲み込んだ。


 タクシーがスタジオに到着する。

「さっ……むい」

 降りた途端、十二月の冷たい風が顔にぶつかった。菊太郎は、ふはっと白い息を吐き、念のために持って来ていたニット帽を目深に被る。

 どうしておれは、いつも同じことで悩むんだろうな。菊太郎は思う。ここ最近、ヘコんでは開き直りヘコんでは開き直りを繰り返している。ため息を吐こうとして飲み込むことなんて、珍しくもない。今日も思いきりヘコんでいる。

 タクシーの中からうっかり持って降りてしまった憂鬱と焦燥感を、菊太郎は持て余していた。勇介は、先刻、菊太郎がタクシーの中で言いかけてやめたことなど気にしていない様子で、

「今日、お弁当どこのだと思う?」

 と、はしゃいでいる。

 なんで、こいつはずっとおれと組んでんだろ。菊太郎はふと思う。おれだったら、いやだけどな、自分みたいな相方。すぐ怒るし、すぐ泣くし。浮き沈みが激しくて、扱いづらい。いっしょにいて、絶対面倒くさいと思う。そんなことを考えながら、

「そもそも、弁当出んの?」

 菊太郎は投げやりな返事をした。

 仕事が増えるに従って、菊太郎は、勇介のことを苗字で呼ぶようになった。特に理由はない。自然と仕事上での呼び方をプライベートに持ち込んでしまったのだ。以前は、「ちゃんと名前で呼んでよ」と勇介が言い、「お前はおれの彼女かよ」と菊太郎がツッコむというやり取りがパターン化していたが、お互い飽きたのか諦めたのか、いまではそのやりとりもない。

 最近は、ピンの仕事もたまに入ってくるようになった。勇介はそつなくこなしているようだが、菊太郎は、未だにひとりだとどうしていいのかわからない。

 勇介が隣にいれば、自分がなにを言っても拾ってくれる、という安心感がある。しかし、勇介がいないと畏縮してしまい、前に出て喋ることができない。

 勇介の通りのいい声は、菊太郎に安心な道を作ってくれる。まるで、ほら菊ちゃん、喋っていいよ、とでも言うように。だから、漫才の時も、勇介にいちばん最初に声を出させる。

 どーもー! セプテンバーでーす!

 その一声で、すうっと道ができるのだ。

 菊太郎のかすれた声は、ザラザラと通りが悪く、耳にすんなり入ってこない。ひな段では圧倒的に不利である。それでも、いつも勇介が道を作ってくれるので、菊太郎は安心して前に出ることができた。


 年末特番の収録。楽屋は大部屋で、もう数組の芸人が待機しており賑やかだった。彼らに挨拶をし、他に挨拶すべき諸々のひとたちに挨拶を済ませ、メイク室へ向かう。

 スタイリストの女性と、

「どういう感じがいいですか?」

「よくわかんないので、任せます」

 という、いつものやりとりをする。

「九条さん、いつもは森ガールなイメージですよねえ。たまにはスクールガールっぽくしてみましょうか」

 スタイリストの言うことは、ちんぷんかんぷんだ。

「なにガールでもいいです」

 菊太郎のその言葉を聞いて、そばにいた共演者のひとり、吉野夏樹が吹き出した。吉野は同じ事務所の後輩で、ネジ式バランスというコンビを組んでいる。

「九条さん、ガールですらないですやん」

 ケラケラと吉野は笑った。

「お前、やる気のないホストみたいだぞ」

 菊太郎は、スーツを着崩した吉野を横目で見て言った。真っ茶っ茶の長い前髪が余計にそれっぽい。

「あざっす」

 吉野がにこやかに言うので、いまのは誉め言葉だっただろうか、と一瞬考えてしまう。

「おれも、そういうの着たい」

 ぽろりと言うと、

「なに言うてるんですか。オレは逆に九条さんみたいなん着たいですけどね」

 吉野はふいに真顔になって、そんなことを言う。

「おいおいおいおい。まじか、こいつ」

 菊太郎はぎゃはぎゃはと笑った。

「堂々と女装して誰にも怒られへんて、超お得なポジションですよ」

 吉野は本気でそう思っているらしく、ひとりで納得したように頷いている。菊太郎は、もう一度、「まじか」と呟いた。続けて、

「おれは、親父に怒られたけどな」

 と言うと、吉野は再びケラケラ笑う。

「でも、性癖満足させられてお金までもらえるんですから、こんないいことないですよ」

「いや、おれのこれ性癖じゃねえし! 純粋に仕事だし!」


 用意されたのは、白いブラウスに、紺と黒のタータンチェックのプリーツスカート。サイドにスリットが入っている。中に白いペチコートを穿くと、スリットから白がチラチラ覗く。裾から覗くレースもかわいらしい。

 白いレースって、なんか黒よりよっぽどエロいよな、と思いながら、黒いハイソックスを履く。靴は同じく黒のローファー。ヒールがなくて歩きやすいのが、単純にうれしかった。

 スカートと同じ柄のベストを着て、仕上げに黒のリボンタイをつけると、次はくせっ毛をアイロンで真っ直ぐに伸ばされ、高い位置でポニーテールに結い上げられる。首の後ろがスースーした。

 きっちりとメイクをしてもらい、やっと「セプテンバーの菊ちゃん」が完成する。

 楽屋に戻ると、スーツに着替えた勇介が、菊太郎を見て、

「あ。菊ちゃん、今日、女子高生みたい」

 と言った。そして、

「俺も学ラン持って来れば良かったー」

 と、残念そうに笑う。

 こいつ、すっかりおれの女装に慣れやがったぞ。菊太郎は、考える。つうことは、もうしばらくしたら、視聴者も飽きてくるってことだよな。ため息を、ぐっと飲み込む。

「俺、今日、サラリーマンみたいだからさー、これじゃ、ふたり並んだら援助交際みたいじゃんね」

 勇介が笑うので、

「確かに」

 菊太郎もつられて笑った。菊太郎が笑ったのを確認して、勇介は鏡を見ながら髪の毛を七三分けにし始めた。援助交際に近づけるつもりだ。

「どう? サラリーマン?」

 きっちり七三分けにした勇介が聞く。

「就活中の学生みたいだ」

 菊太郎が言うと、勇介は、うーん、と唸り、

「川崎くーん、眼鏡貸してー」

 と、近くにいた吉野の相方、ネジ式バランスの眼鏡のほう、川崎泰典に甘えたような声をかけ、「いやですよ」と断られていた。それを笑った後、

「おれ、ちょっとトイレ」

 菊太郎は席を立つ。収録前は、いつもトイレが近い。緊張しているのだろう。いっしょに笑っていた川崎も、なにか用事があるらしく、ふたりに断って席を立った。

「うん」

 勇介は頷いて、バッグから旧型のDSを出し、イヤホンを耳に突っ込んだ。俺いまゲームしてるから話しかけないでね、というアピールらしい。

 勇介は、菊太郎がいないと人見知りをする。仕事の時とは別人だ。しかし、プレイしているゲームがトモダチコレクションなのがよくわからない。だったら、周りのひとと話せばいいのに。菊太郎は、内心で笑いながら楽屋を出た。


 便器の前でスカートを捲り上げていると、「ぎゃっ!」という短い悲鳴が聞こえた。首だけを動かして見た先には、ぽかんと口を開け、トイレの入り口に突っ立っている、襟足の長い男。

「ワタルくん、相変わらずかっこいいね。ベーシストみたい」

 サービスエースの大庭渉だ。事務所は違うが、同期の芸人である。他の同期と比べても、サービスエースとは仲がいいほうで、情報交換も兼ねていっしょに飲むことも少なくない。以前は、ネタ番組のオーディション等で度々顔を合わせていたのだが、最近は久しく会っていなかった。

「久しぶり」

 菊太郎はうれしくなり、にこりと笑った。

「え。その酒焼けしたガラガラ声は」

 突っ立ったままだった大庭がやっと口を開いた。

「酒焼け言うな。元からだ」

「きくたろ? あ、あ、そうだよね。あ、なんだ。びっくりした」

 大庭は大袈裟に胸を撫で下ろし、

「やだ、もう。やだやだやだやだっ。やめてよ、そんなかわいい格好で男子トイレ入んないんでよっ」

 と、首をぶんぶんと横に振り、ラバーソールをドカドカと踏み鳴らす。

「んなこと言われても、おれ、男子だしな」

「せめて個室入っててよ。どう見ても美少女なひとがスカート捲り上げてオシッコしてんのなんて、オレ見たくないんだってば。びっくりして、便器目前にしてオシッコちびっちゃうよ」

 大庭はべらべらしゃべる。菊太郎はそれを聞きながら、ひゃっひゃと笑った。

 手を洗い、洗面台に寄りかかって大庭の話を聞く。収録までにはまだ時間がある。

「きくたろ、髪伸びたね。ポニーテール超似合ってんじゃん」

「超絶かわいいだろ。アイドルも真っ青だぜ」

「なにそれ。ボケてんの? 本気なの?」

「両方」

 複雑な思いを隠し、にやりと笑って見せると、

「マジかよ。すっかり開き直ってんね」

 大庭は楽しそうに笑う。

「おかげさまで」

「それにしても、普段コケシちゃんみたいな顔してるくせに、メイクしただけでそんなに変わっちゃうもんなの? 詐欺だ、詐欺」

「いや、でも、メイクってそういうもんじゃん」

「そ。あ。そっか。うわー。もうオレ、女の子の顔信じられなくなりそう」

 用を足し終えた大庭は、笑いながら、ばしゃばしゃと手を洗う。

「それに、最近痩せ放題じゃない。ちゃんと食ってる? それとも事務所に痩せろって言われてんの?」

 その問いに菊太郎は驚く。

「ううん。ただ痩せちゃっただけ」

 答えながら、あれ、おれ、そんなに痩せたかな、と菊太郎は心の中で首を傾げた。あまり自覚はなかったが、確かに食欲は落ちたかもしれない。やばいな。野菜ジュースでもなんでもいいから、ちゃんと腹に入れよう。

「逆にユッケはさあ、なんかぽよんてしてきたよね、腹まわりとか。テレビだから太って見えるのかな」

 大庭の口は止まらない。よく見ているなあ、と感心する。

「いや。あいつちょっと太ったよ、実際」

「きくたろが、ロケやなんかで自分のケーキまで食わせてるからじゃないの? てか、きくたろ甘いものきらいなくせに、なに好きなふりしてんのよ。本格的に詐欺だよ。ジャロに電話しちゃうよ、オレ」

「やめて。嘘、大袈裟、紛らわしい、の三拍子がっつり揃ってるから言い逃れできないし」

「外見からして、いろいろ嘘だし大袈裟だし紛らわしいしね」

 テンション高く口を動かしていた大庭が、ふいに急に声のトーンを落とした。

「エントリーしなかったの? 今年」

 大庭がなんのことを言っているのか、すぐにわかった。この時期、同業者の間で、この話題が出ない日はない。菊太郎は笑いを引っ込める。

「予選の会場で見かけないし、グループとか日程が違うのかと思って、公式サイトも見てみたけど、どこにもセプテンバーの名前がなかった」

 電話で一言聞けば済むんだろうけど、やっぱ聞きにくくて、と大庭は言う。

 ラフコンテスト。毎年恒例の、年末の漫才賞レース。コンビ結成十年以内なら、誰でもエントリーできる。知名度も人気も関係ない。おもしろければ勝ち進み、おもしろくなければ落とされる。決勝までに、四戦。一回戦から三回戦、そして準決勝。準決勝まで勝ち進めば来年の一回戦が免除される。準決勝から進んだその先、決勝は全国ネットでテレビ放送され、優勝すればトロフィーと賞金の授与。一夜にして脚光を浴びることになる。ラフコン覇者の名が全国に知れ渡るのだ。せめて、決勝に残りたい。あのステージに立ちたい。漫才をやっている者で、そう願わない者はいない。

 予選は、夏頃から始まっていた。関西では八月、関東では九月から。セプテンバーの忙しさがピークに達していた頃である。

「獲れる可能性の低いタイトルより、目の前の仕事を優先するんだ」

 菊太郎は、ぼそりと言う。

「なあに、それ」

 大庭は顔をしかめた。

「赤プロだってラフコン、喉から手が出るくらい欲しいはずだよ。セプテンバーは手堅く出しとくと思った」

「赤プロには、おれらの下にまだネジ式バランスがいる。そっちががんばってくれるし、セプテンバーは出なくても大丈夫」

「事務所がそう言うの?」

「ちがうよ」

 菊太郎はそう言ったきり、なにも言わなかった。

 どういう理由があったにせよ、最終的にそれを選択したのは自分だ。諦めたのは、自分だ。

「オレら、今年も準決勝に残った。今年は絶対決勝に行く。ラフコンは、サービスエースが獲るよ」

 大庭は、真剣な顔で自らのコンビ名を口にする。

「どうかなあ。ネジバラも残ってるし」

 菊太郎が冗談めかして言うと、

「そうなのよ。あいつら、普段コントやってるくせに漫才もおもしろいんだよお。ずるいよねえ」

 大庭は眉を八の字にし、情けない声を出した。

「とにかく、まず決勝に残んなきゃ」

 大庭は静かに言う。

「いつ? 準決勝」

「今週の日曜日」

「すぐじゃん」

「うん」

 大庭は頷いた。そして、

「来年」

 聞き取れるか取れないかくらいの小さな声で言った。

「来年、オレら、ラストイヤーだよ」

「ん」

 菊太郎は曖昧に頷く。

「そりゃさ、ライバルは少ないほうがいいかもしんないけどさ。でも、ずっといっしょに闘ってたから」

 寂しいよ。

 そう言って、大庭は菊太郎を残して行ってしまった。大庭のラバーソールが立てる堅い音が耳に残る。

 来年、俺ら、ラストイヤーだよ。

 わかってる。今年で、コンビ結成九年目。来年が最後だ。

「は」

 菊太郎は浅く息を吸い込んだ。涙が出そう。頭が痛い。

「は」

 もう一度、息を吸い込む。吐き出す。瞼がじんわりと熱くなる。だめだ。いま泣くとマスカラが流れる。その思考に、思わず笑いそうになる。なんだ、それ。自分は、なんの心配をしているのだろう。

 ぐっと奥歯に力を入れた瞬間、ブツン、とこめかみがパンクしたみたいな衝撃を感じた。目の前が虹色にチラつく。視界がザラついてチカチカする。目が回る。つるり、と鼻の奥から液体が流れる感触があった。

 鼻血……?

 とっさに上を向く。液体が逆流して、咳き込んだ。衣装は番組が用意してくれたものだ。汚せない。しかも本番前だぞ。意地でも汚すもんか。

 菊太郎は上を向いたまま個室に入り、トイレットペーパーを巻き取った。


 ラフコンテストのエントリー受付は、六月から開始された。その時点で、セプテンバーはエントリーしていたのである。毎年エントリーしているので、エントリーしないという選択肢は頭になかった。ほぼ、恒例行事化していたのだ。

 一年目、一回戦敗退。悔しいというよりも、圧倒された。日本には、こんなにたくさんの芸人がいるのか。彼らが全員、ラフコン優勝を狙っているのか。そう思ってゾッとした。

 二年目、二回戦敗退。それでも前向きに考えていた。慌てるな、少しずつだ。

 三年目、三回戦敗退。昨年よりは前に進んだ。そう思う半面、悔しいと感じている自分に戸惑った。しかし、これが現時点でのセプテンバーへの評価だ。ただ単に、自分たちがおもしろくなかっただけ。

 四年目、三回戦敗退。悔しい。心の底から思った。自分たちは、もっと行けるはずなのに、と唇を噛んだ。

 五年目、三回戦敗退。またか、と思った。悔しいのかどうかもよくわからなかった。感覚が麻痺する。三回戦の壁は厚いと思い知った。

 六年目、準決勝進出。初めて三回戦を突破した。いままで、どこか現実感を伴わなかったラフコンの舞台が、急に現実味を帯びた。来年こそは決勝だ、と息巻いた。

 七年目、準決勝進出するも敗退。決勝に進んだコンビの漫才は、文句なしにおもしろかった。自分たちに足りないものはなんだろう、と考えた。おもしろい漫才がしたい、と切実に思った。

 そして昨年、八年目。一昨年の貯金で一回戦を免除されるも、三回戦で敗退。後退してしまった。

 しかし、菊太郎は、思ったよりも冷静に受け止めていた。受け止めていたつもりだった。しかし、勇介が言ったのだ。

「俺ら、絶対おもしろいのにね」

 真面目な顔で、真っ直ぐに前を見て、熱を含んだ声で、そう言ったのだ。勇介がそういうことを言うのは初めてだったので、よく覚えている。

 菊太郎の涙腺は、その言葉で崩壊した。

 三回戦の会場。声を殺して涙を流す菊太郎を、勇介は黙って待っていた。泣いている者はたくさんいた。菊太郎たちは、たくさんの中の一組でしかなかった。

 今年は一回戦から這い上がらなくてはならない。一回戦のネタの持ち時間は二分間。二回戦、三回戦は三分間。準決勝、決勝は四分間。三種類のネタを用意する。

 新しいネタを作った。同時に、既存のネタを練り直した。二分間のもの、三分間のもの、四分間のもの。後は、ひたすら稽古した。稽古しながら、またネタを練り直す。ネタはすぐには良くならない。だから、タイミングとテンポだけは完璧にしよう、と、いつもふたりで話している。現在、セプテンバーの漫才はテンポが命だ。それには、ひたすら稽古するしかない。菊太郎は、そう思っていた。

 月見荘に住んでいた頃は、少しの時間を使って稽古をするだけだった。一日に、少しだけ。思えば、あの頃はまだ余裕があった。朝の出発までの間、駅までの道中、共同風呂の順番を待つ間。それらのどこかを使って、少しずつネタの稽古を重ねていた。引っ越してからは、それが更に頻繁になった。東雲とのこともあり、合わせなしで完璧にできるまでに仕上げようと躍起になった。睡眠時間を削って何度も何度も同じやり取りを繰り返した。菊太郎がネタに修正を加える度に、勇介は文句も言わずにネタを覚えた。しかし、勇介はネタを覚えるのが苦手で、度々つっかえては流れを止める。なかなかスムーズにいかない苛立ちから、その度に、菊太郎は勇介の尻を蹴った。勇介はやはり文句も言わず、わかっている、というふうにただ頷いていた。

 稽古を重ねる内に、漫才はなんとか形になってきた。こういう時、相方と同居していると便利だな、と菊太郎はのん気に考えていた。いつでも稽古ができる。

 しかし、それが仇となった。結果、勇介は倒れた。入院するほどではなかったものの、本調子に戻るまでには時間がかかった。その間も、仕事はこなさなくてはいけない。これを続けていたら、勇介はいつか潰れる。しかし、これくらいやらなければ、ラフコンを勝ち進める気がしない。いままで、ずっとだめだったのだ。いままで以上に完璧にやらないと。

 でも、だけど、それでも。考えるまでもない。一回戦を目前に、菊太郎はラフコンのエントリー取り消しを申請した。

 九年目、欠場。

 勇介が潰れたら、ラフコンもなにもない。本末転倒だ。ラフコンがすべてではない。そこがゴールではない。しかし、目指すもののひとつだった。漫才をやっている多くの芸人にとって、ラフコン決勝は憧れの舞台であり、憧れで終わらせたくない通過点でもある。優勝すれば、未来が約束される。そう言われている。なにより、優勝すれば、自分たちがいちばんおもしろいのだと証明される。そのためだけに、闘っている。トロフィーも賞金も二の次で、いちばんおもしろいのは自分たちだ、と胸を張るために、闘っている。

 ああ。菊太郎は、声にならない呻き声を漏らす。おれ、結構本気で欲しかったんだ。そうでなければ、あんなに必死になったりしないだろう。欲しかったんだ、おれ。ラフコンの話題が出ただけで身構えてしまうくらい、本当は、欠場を後悔していたのに。

 勇介とふたりで獲りたかったんだ。漫才の一等賞を。


「月岡、頭痛薬ある? あったらちょうだい」

 トイレットペーパーを鼻に詰め、楽屋に戻った菊太郎は勇介に右手を差し出した。眩暈は治まったし血も止まったが、頭痛は続いている。勇介は、DSのイヤホンを耳から引っこ抜きながら、

「なに、それ。どうしたの。鼻血?」

 ぎょっとしたように言った。

「ん」

 菊太郎は頷いて、勇介の隣のパイプ椅子に腰掛ける。

「あんまり、薬とか飲まないほうがいいらしいよ。本当は」

 言いながら、勇介はバッグにDSを仕舞い、代わりにバファリンを取り出し、菊太郎の右手に置いた。

「ん」

 菊太郎は曖昧な返事をしながら、ケータリングの水で錠剤を二錠、飲み下す。勇介は、机の上のティッシュの箱から一枚取り、ちぎってまるめて鼻栓を作った。そして、菊太郎の鼻に詰まったトイレットペーパーをおそるおそる抜き取り、それを代わりに突っ込んだ。下手に動くと、深く突っ込まれて痛いことになりそうだったので、菊太郎はじっとされるがままになっていた。

「もう血は止まってるって」

 菊太郎が言うと、

「うん。でも、念のため」

 勇介は言う。周りから、

「イチャイチャすんな、セプテンバー!」

 という声が飛び、楽屋は笑いに包まれた。菊太郎と勇介も笑った。

 セプテンバーはコンビ仲がいいほうらしい。大部屋の楽屋を見渡しても、隣同士で座っているコンビはまずいない。そう考えると、周りからよく言われるように、仲がいいほうなのだろうな、と思う。どうしても相方とつるんでしまうのは、同じ事務所に同期の芸人がいないからかもしれない。最近は、コンビ愛さえも故意に売り物にしている。コンビ仲は、悪いよりもいいほうが喜ばれる。資本主義のこの世界、なんでも商品になるのだ。

「さっき、トイレでワタルくんに会った」

 菊太郎が報告すると、

「あ、いいなー。俺も会いたかった。なんかの収録?」

 勇介が、はしゃいだように言った。

「あ。聞かれてばっかで聞くの忘れたな」

「なに話したの?」

「お前が太ったなって話」

 勇介はまるい目を更に見開いた。それから俯いて、

「腹筋する。今日から」

 と宣言した。ショックだったらしい。

「サービスエース、今年も準決勝行ったって」

 菊太郎は言った。なんの、とは言わない。勇介も聞かなかった。

「そっか」

 勇介が、息を吐くように呟いた瞬間、楽屋の扉がノックされた。

 本番だ。


「あのさあ。さっきからガッサガサうるさいきみは、女性なの? 男性なの? ハーフなの?」

 収録の流れで、司会者が、ひな段に座る菊太郎に言った。

「ガッサガサ!? それ声のことですか?」

「うん。ガサガサしてるよね」

「いや、その前に、バラエティで若手にうるさいって言うの、反則ですよ!」

 司会進行役は、浅井タカユキ。彼は、セプテンバーとは、この特番が初共演だった。他事務所の先輩芸人である浅井は、中堅と呼ぶには大きすぎ、大御所と呼ぶにはやや弱いといったポジションだ。

「で、どれなの?」

 浅井が、柔和な印象の表情を、さらに綻ばせながら問う。しかし、菊太郎と勇介は、収録の前に、浅井の楽屋を訪ねて挨拶をしていたし、浅井が持っている進行表には、セプテンバーの簡単なプロフィールが書かれているはずだ。浅井は、本気で菊太郎の性別を知りたいわけではない。要は、話を振ってもらえたのだ。

「男です」

 菊太郎は、幾分か緊張気味に答える。テンパるな! 笑え! 菊太郎は、自分自身に命令する。

「だよね。声もだけど、仕草とかも」

 そんな格好してんだから、少しはかわいい声作りなよ、と、ツッコまれた。

「その声、すっごい耳障り。なにそれ、酒焼けしてるの?」

 柔和な笑顔で、浅井は、ぽんぽんと毒を吐く。

「地声です! てか、さっきら浅井さん、やさしげな笑顔でひどいこと言いいますね。顔とのギャップがキツいです」

 菊太郎が言うと、勇介が声を上げて笑う。あ、こいつ普通に本気で笑ってやがる。菊太郎は、勇介の脇腹を、こっそり小突いた。

「なんで、そんなかわいい格好してんの?」

 さあ。おれにもよくわからないんです。菊太郎は、頭の中だけで答える。

「菊ちゃん、それしか取り柄がないからだよね」

 勇介が、よく通る声で、元気良く言った。

「待て。なんかあるだろ。もっとこう、さあ」

「たとえば?」

「やさしさとか」

「それなにもなかった時の最終兵器じゃん。もっと他になかったの」

「あー」

「ないのかよ」

「でも、ほら。この外見も取り柄は取り柄ですよ。かわいいでしょ?」

 菊太郎も、にこにこと笑みを浮かべながら、それに乗っかる。

「いや、すっごい自信だね。確かに似合ってるけど。うん」

 自信なんて、ないですよ。いまも、ずうっと、不安ですよ。だが、それを気取られてはならない。菊太郎は、笑う。とにかく笑う。

「きみたちは、普段なにやってるひと?」

 浅井が言う。

「こいつは普段、トモダチコレクションとかやってます。友だちいないくせに」

「普段は、漫才やってます」

 菊太郎と勇介が、口々に言う。

「へえ。漫才やってんの。観たい。ちょっと、やってみて」

 浅井がうれしそうに言った。

「え! いいんですか」

 菊太郎は、立ち上がって声を上げる。同時に、拳をぐっと握った。

「できる?」

「やります! やらせていただきます!」

 菊太郎は即答する。そんな流れは台本にもなかったし、リハーサルでもなかった。完全に、浅井の気まぐれだ。

 漫才ができる!

 菊太郎は、浅井に心の中で感謝した。

『一、二分くらいで。短いの』

 カンペに、頷く。番組全体の流れの邪魔にならないように、素早く終わらせなければならない。

「月岡。亭主関白、二分ネタ、いける?」

「いける」

 勇介はこくこく頷いた。

「デートネタもいけるよ。新しいやつ」

 勇介はちょっぴり得意気に口角を上げる。その顔を見て、菊太郎は思わず笑った。たくさん稽古したもんな。

 亭主関白ネタとデートネタならば、やはり前者のほうが勇介は得意だ。菊太郎はそう思い、

「わかった。じゃあ、亭主関白ネタで……」

 言いかけ、はっと気づく。

「あっ!」

 思わず声を上げた。顔から、ざあっと血の気が引いていくのがわかる。

「えっ?」

 勇介が心なしか不安そうな表情で菊太郎を見た。慌てて首を横に振り、にかっと笑顔を作る。

「大丈夫!」

 うそだ。心臓がばくばくと跳ねている。本当は、大丈夫なんかではない。どうして、いままで気づかなかったのだろう。これで、やるのか。この格好で、亭主関白ネタを?

 菊太郎はネタを脳内で高速再生する。「ぼく、結婚したら亭主関白ってのをやりたいんですよ」という、菊太郎の振りで始まるこのネタは、菊太郎が関白な亭主を演じ、勇介の演じる妻に無理難題を持ちかけるというものである。

 変だ。変だろ。どう考えても、おかしい。女子高生みたいな格好して、亭主関白もなにもない。デートネタもパターンは同じだ。菊太郎が彼氏役、勇介が彼女役。大丈夫なのか、これ。いや、しょうがない。しょうがない、なんて思いたくないが、しかし、しょうがない。女装して漫才をすることを想定していなかった自分が悪い。やるしかないのだ。

 ぎゅっと拳を握り、菊太郎はローファーで床を蹴った。

「あ」

 その時ひるがえったスカートの裾を、勇介がさりげなく抑える。菊太郎の頭のてっぺんで、ポニーテールが揺れた。

「どーもー! セプテンバーでーす!」

 勇介が声を張り上げ、道ができる。

 こんな時なのに、出囃子がついたことに感動した。ご丁寧にサンパチマイクを用意してくれたことに感動した。久しぶりに漫才をやれることが、うれしかった。


 しかし、漫才は結局、最後までできなかった。オチの直前、菊太郎の鼻から、ぼたり、と血が落ちたのだ。

「あっ、赤! 出た!」

 勇介が叫んだ。

「うわうわうわ」

 菊太郎は慌てて鼻を隠す。バラエティ番組で血はまずい。

「え。ええええ。なにやってんの、菊ちゃん」

「うるせえ」

「オチ、台無し!」

 勇介が笑う。

「あーあ。血はだめだよ。ねえ、セプテンバー。きみたちの漫才はカットだねえ」

 浅井が笑いながら言う。

「ちょ、待ってくらさいよう」

 スタッフが持ってきてくれたティッシュを鼻に詰めながら菊太郎は、情けない声を出す。

「テレビで漫才やるの、初めてだったんです。なんとか、オンエアお願いします」

「でも、鼻血だからさあ。顔にモザイクかけるならオッケーかな」

「モザイク?」

 それはそれで、おもしろそうだ、と一瞬思ってしまったが、やはり、漫才といっしょに顔も印象づけなければ意味がない。

「もう一回。もう一回だけチャンスください」

 頼み込むと、あっさり許可が出た。

「デートネタやる?」

「うん」

 小声で素早く打ち合わせをし、鼻にティッシュを詰めたままで、サンパチマイクを前にして立つ。この時点で、すでに失笑ものだ。

 二回目の漫才はややウケだった。みんなが、菊太郎の鼻のティッシュに気を取られていたからだ。漫才の内容ではなく、ティッシュにくすくすと笑いが起こる。結局、鼻血のくだりがいちばんウケた。

「あの。あれ、鼻血。どうやってるんですか? 毎回やってるんですか?」

 収録終わりに、他事務所の後輩に羨ましげに聞かれ、菊太郎と勇介は爆笑した。どうやるもなにも、単なるハプニングだ。

「毎回やってたら、おれの血、いくらあっても足りねえよ」


 マンションに戻るタクシーに乗り込んだ菊太郎は、シートに身体を預け、腕組みをした。ぎゅっと目を閉じていると、

「どしたの? 頭痛?」

 左隣に座った勇介が言う。

「眉間にしわ寄ってるよ」

「考えてる」

 かすれた声で、ひそひそと返事をする。頭痛もするけどな、と言って菊太郎は目を開く。

「おれらのネタ、あれじゃだめだ」

 変わらず、ひそひそ声で菊太郎は言った。

「うん」

 勇介は頷く。

「なんでタクシーだと、いつもひそひそ喋るの?」

 つられたのか、勇介もひそひそと尋ねる。

「運転手さんに悪いだろうが」

「なるほど」

 菊太郎は話を戻す。

「おれが、あんな格好して、結婚がどうの、亭主関白がどうのとか言ったってさあ、説得力ねえんだもん」

「うん」

 結婚ネタだけで、パターンがいくつかある。相手がアナウンサーであったり、女優であったり、アイドルであったり。いずれも、勇介が女役である。それらが全て、いまの状態では使い物にならない。

「デートネタにしてもさあ」

 菊太郎は、うーん、と唸った。そして、

「ぼくね、かわいい女の子とデートしたいなあって思うんですよ。ちょっと、その日がきた時のために練習しときたいんで、月岡さん、女の子やってくれません?」

 ネタ振りの台詞を口にした。

「俺が女の子役って、普通に変な感じだね」

 勇介が言う。図体のでかい男が女役をするという滑稽さが売りの漫才だったが、菊太郎がすでに女装してしまっているために、その滑稽さが半回転して、ただの違和感にしかならない。

「それに、かわいい女の子っつっても、下手すりゃおれのほうがかわいいからね」

「そうだね」

 勇介が頷く。

「おい。いまボケたんだよ。ツッコめよ」

「あ。そうなの」

 呟いた後、勇介は、濡れた犬みたいに、ぷるぷると頭を振った。菊太郎はため息を飲み込む。瞼が重い。


「今日は、ありがとうございました」

 菊太郎と勇介は、深々と頭を下げた。

「こちらこそ」

 収録が終わり、楽屋へ挨拶に行ったふたりに、浅井は言った。

「普段は、女装してないんだね」

「はい」

 菊太郎は頷いた。

「変える?」

 浅井は、にっこりと笑い、やわらかく問う。

 変える? なにを? どっちか? どっちを?

 菊太郎は、迷いながら浅井を見る。

「でもね。選択肢は、それだけじゃないよ。変えないって道も、ちゃんとある。それで、うまくいってるやつもいるし、変えてうまくいったやつもいる。道は無数に延びてる。そういうもんだよ」

 浅井は、小さく笑い声をもらし、

「悩むのは、悪いことじゃないからね」

 と言った。


「ところで。俺が取っておいたお弁当なんだけど」

 勇介の声で、菊太郎は瞼を開いた。

「ふたつ取っといたのに、いつの間にか消えてたんだけど、菊ちゃんがどっかやったの?」

 勇介がひそひそと言う。

「川崎と吉野にやった。欲しがってたから」

「……楽しみにしてたのに」

「知ってる」

 ふたりとも、しょんぼりと目を閉じた。もうすぐ、マンションに着く。

ありがとうございました。

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