表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

pixivにも同様の文章を投稿しております。


(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)

 ふたりが、いままで住んでいた月見荘を出ることになったのは、七月も半分が過ぎた頃だった。慣れないテレビの仕事もなんとかこなせるようになり、それがオンエアされ始め、メディア露出がぐんと増えてきた頃。

「明日は、まるまるオフですから。ゆっくり休んでくださいね」

 仕事帰りに立ち寄った事務所で篠宮に言われ、菊太郎と勇介は頷いた。

「これからしばらくは、休めませんから」

 手帳を見ながら篠宮は言う。

 これまでの自分たちは、毎日が休みのようなものだったのだから、これから休みがなくなるということは、辻褄が合っている気はする。菊太郎は、なんだか納得したような気分になった。

「はい、どうぞ」

 別れ際、篠宮は、菊太郎と勇介に紙袋をひとつずつ手渡した。

「こちらが九条さん宛、こちらが月岡さん宛」

 それから、

「こちらは、セプテンバーさん、おふたり宛です」

 と、三つめの紙袋を差し出すので、勇介が受け取った。紙袋には、色とりどりの手紙が詰まっている。それを見て勇介が、

「あー」

 空気の抜けたような声を漏らした。

「手紙だ。こんなに、たくさん」

「ファンレター?」

 ぽそりと菊太郎が呟くと、篠宮は、

「ええ。六月からの、一ヶ月分です」

 と微笑んだ。


「明日、洗濯しとかなきゃね」

 事務所からの帰り、電車に揺られながら勇介が言った。

「手紙も読まなきゃ」

 勇介はうれしそうに、菊太郎に、「ね」と同意を求める。菊太郎は緩く頷いて、「うん。ありがたいよな」と呟く。

 ファンレターなんて、五年くらい前に、男の子から葉書をもらって以来だ。葉書には、「おもしろかったです」と一言だけ書かれていた。遊園地のステージでの漫才を観てくれたのだろう。あの頃、セプテンバーが人目に触れる機会は、そこしかなかった。

 あれは、うれしかったなあ。

 うつらうつらとまどろむ頭で、菊太郎は思う。窓の外を、夜のネオンがつるつると通りすぎて行く。

 明日、いっこくらいネタ作れたらいいんだけど。菊太郎は、重たい瞼を閉じ、電車の揺れに身を任せた。

 最近、漫才してないなあ。漫才、してえなあ。ぼんやりと浮かんだ思考は、すぐに無意識の底に沈んだ。

 月見荘へは、駅から三十分ほど歩く。いつものように、ネタ合わせをしながら歩こうかと思ったが、お互い疲れていたので黙々と歩く。大学へ続く坂道の途中に、そのアパートはあった。

 坂道を、「待ってよ、菊ちゃん」と言う勇介の声を背に、月見荘まで一気に掛け上る。電車の中で少し寝たので、頭はスッキリしていた。門灯がぼんやりと照らす玄関先、ファンレターの入った紙袋を地面に置き、リュックを肩から下ろす。紛れてしまった鍵を探しながら、勇介を待った。

「速いよー」

 息を切らした勇介が追いついて、菊太郎の背中をタッチした。

「へっへっへ」

 菊太郎は優越感たっぷりに笑う。鍵がやっと見つかり、鍵穴に差し込んだところで、

「あ、あの……」

 後ろから声をかけられた。振り返ると、黒いキャップを目深に被った、なで肩の男が立っていた。

「せ、セプテンバーの、つ、月岡さんですよね」

 男はボソボソと言った。

「はい。そうですけど」

 勇介が息を整えながら頷く。

「あの、あ、握手してもらえませんか」

「あ、はい。いいですよ」

 男と勇介の距離が詰まる。

 ユッケのファンか。そう思った瞬間、ヂチッという音が弾けた。同時に、勇介が両手で脇腹を押さえ、その場に崩折れる。勇介の持っていた紙袋が地面に落ち、手紙が散らばった。

「え。なに」

 菊太郎は、勇介を助け起こそうと、とっさにリュックを投げ出して、しゃがみながら立っている男を見た。男の右手には、なにかが握られている。

 なんだ、あれ。充電器? なわけあるか。あれは。

「スタンガン、だ」

 勇介が苦しそうな声を出す。

「なに、やってんの、あんた」

 かすれた声で、菊太郎は呻くように言った。男は、左手でキャップを取り、初めて菊太郎の存在に気づいたというふうに、目を細め、こちらをまじまじと見つめてきた。つるりとした瓜ざね顔が門灯に照らされる。二十代後半くらいだろうか。菊太郎と同じくらいの身長。ひょろりと青白く、女みたいに細い腕は、平均的な成人男性と比べても、とても強そうには見えない。喧嘩なら、たぶん負けないだろう。高三の頃、菊太郎はほとんど日常的に父親と体当たりの喧嘩をしていたのだ。逆に言うと、父親以外とは喧嘩をしたことがなかったのだが、まあ、なんとかなるだろうと、うずくまる勇介のシャツの背中を、ぎゅううう、と握り締めて考える。

 あのスタンガン、邪魔だな。右手蹴り上げて、どっか飛ばすか。

「菊ちゃん、だめ」

 まるで、菊太郎の頭の中を読んだかのような絶妙なタイミングで勇介が言った。

「手ぇ出しちゃ、だめだよ。絶対」

 動くことができないらしい勇介の声には、力がない。

「手なんか出すもんか」

 菊太郎はふてくされたような口調で言った。

「足だ」

「同じだよー、もう」

「なんだよ。正当防衛だぞ。お前は危機感が足りないから、こういうことになるんだ」

「菊ちゃんは過剰防衛しそうでこわいんだよ」

「お前には言われたくねえよ。お前、ヒトには手え出さねえけど、物を過剰に破壊すんじゃん」

「いま、それ関係ないでしょ。菊ちゃんのばか」

 どこか緊張感を欠いたふたりの会話を聞きながら目を白黒させていた男は、勇介の発する固有名詞に食いついた。

「菊ちゃん……?」

 男は、目を見開く。

「本当だ……菊ちゃんだ……」

 菊太郎が肯定も否定も口にしないうちに、男は甲高い声で言いながら、腰を屈めて菊太郎の顔を覗き込んだ。

「お化粧してないから、わからなかった……髪形も違うし……」

 なんだ、こいつ。ぞわり、と鳥肌が立った。

 しかし、この隙を逃さず、菊太郎はしゃがんだ体勢のまま、男の右手から、そっとスタンガンを取り上げた。

「あ」

 男が間の抜けた声を上げる。

「か、返して」

 男は焦ったように言う。

「いやです」

 菊太郎は、きっぱりと言った。

「返したら、ぼくのこともバチッてするんでしょう」

「菊ちゃんに、そんなことしないよ」

 男は慌てたように、両手を振る。男の持っていたキャップが足元に落ちた。

「じゃあ、なんで月岡にこんなことしたんですか」

 菊太郎は立ち上がり、スタンガンを地面に叩きつける。それは、あっけなくプラスチックの破片を撒き散らした。

「月岡さんは、いっつも菊ちゃんといて……ずるい」

 男は、破片を散らかすスタンガンを見つめながらボソボソと喋る。

「だ、だから、ちょっとだけ意地悪……してやろうと思って……」

 ちょっとだけ意地悪ってレベルじゃないだろ。男の言葉に、菊太郎は内心でツッコんだ。

 なにがどうしてそういう結論に辿りつくのか、男の思考回路は菊太郎には全く理解できなかったが、

「つまり、あなたはぼくのファンですか」

 ということだけは理解できた。

「うん」

 男は泣きそうな顔で頷いた。

「お、おお……」

 あなたはぼくのファンですか。そう言ったのは自分だが、いざ肯定されると反応に困った。

「本当に?」

 一応確認する。

「うん」

 男はまた頷いた。

 菊太郎は、不覚にも高揚してしまった気持ちをじたばたと足踏みで鎮めようと試みた後、さっとしゃがんで、未だうずくまる勇介の背中をバシバシと叩く。

「聞いたか、おい! ファンだって、おれの! なあ!」

「うんうん、聞いた聞いた。てか、ちょ、やめて」

 勇介は情けなく声を震わせる。

「どうしたユッケ、痛いのか。痛いんだな」

「痛いよ、そりゃ」

「どこが痛いんだ」

「左の脇腹と、背中」

 菊ちゃんが叩くから、という勇介の言葉は聞かなかったことにして、

「ほら」

 菊太郎は立ち上がる。

「こういうことしちゃ、だめですよ」

 菊太郎は言った。男は、いまにも泣き出しそうな顔で黙っている。

「月岡がいないと、ぼく仕事できないんです」

 菊太郎は、事実を伝えるだけの、感情のこもらない声で淡々と言う。

「月岡が怪我したら、困るんです。本人だけじゃなくて、ぼくも困ります。ぼくらといっしょに仕事するひとたちも困ります。たくさんのひとが困ります。わかりますか?」

 男は目をぎゅっと瞑って、深く頷いた。菊太郎は、スニーカーの踵でゲシゲシとスタンガンの欠片を砕く。

「ご、ごめ、ごめんなさい」

 男は、絞り出すように謝罪の言葉を口にする。

「月岡だけじゃなくて、他のひとにもしちゃだめです。困る以前にねえ、痛いんだから! 危ないんだから!」

 言っているうちに、だんだん腹が立ってきて、菊太郎は初めて声を荒げた。

「うん」

 男は肩を震わせながら頷く。

「あなたも、痛いのいやでしょう。自分がされていやなことは他人にしちゃだめです」

 怒りを鎮めようと、菊太郎はとにかくスタンガンを踏みつける。男はそれを見ながら、こくこくと何度も頷いた。

 男がこれ以上なにかしてくる様子はないと見た菊太郎は、やっと肩に入っていた力を抜いた。

 さて、どうしようか。

 菊太郎は少し思案し、

「免許証とか、持ってます? いま」

 男に確認を取った。

「原付のなら……」

「それ、ちょっと貸してください」

 男は素直に財布から原付の免許証を出し、菊太郎に渡す。

 東雲檜という名前を、菊太郎は読むことができなかった。免許証にふりがなは振られていない。

「なんて読むんですか? 名前」

 菊太郎は素直に尋ねる。

「しののめ、ひのき」

「ふうん。きれいな名前ですね」

 思ったそのままの感想を口にする菊太郎に、

「あ、あり、ありがとう!」

 東雲は、顔を真っ赤にして礼を言った。

「て、え、まだ十六じゃん!」

 菊太郎は東雲の生年月日を見て、思わず声を上げた。

 驚いた。自分と同じくらいかと思っていた。

「おれと一回りも違うんだ」

 すげえ大人っぽいね、と言いそうになり、菊太郎は言葉を飲み込む。外見のことを言われるのは、好きではない。東雲だって、そうかもしれない。

 自分がされていやなことは他人にしちゃだめです。

 そうだった、と菊太郎は、自らの言葉を反芻する。基本的なことだが、なかなか難しいものだ。

 ふと見ると、菊太郎をじっと見つめる東雲と目が合う。

「免許証、写真撮らせてもらいます」

 菊太郎は言い、東雲は頷いた。

 菊太郎はパンツのポケットから携帯電話を取り出した。そして、ボタンを少しいじくった後、難しい顔をして、

「なあ、ユッケ。カメラってどうやんだっけ」

 と、うずくまったままの勇介に尋ねる。

「無理。いま動けない」

 勇介は弱々しく呟いた。

「あの、やろうか……?」

 東雲がそう言うので、菊太郎は、

「お願いできる?」

 自分の携帯電話と東雲の免許証を手渡した。

「文字が読めるように撮ってね」

「ナイトモードついてるから、たぶん、大丈夫」

 東雲の言葉に、菊太郎は首を傾げる。

「ナイトモード? って、なに?」

 東雲は説明しようとするのだが、うまく言葉にできないようで、しばらく口をぱくぱくと動かした後、結局、無言で携帯電話のシャッター音を響かせた。

「うん。ちゃんと撮れてる」

 東雲の手元を覗き込んで、菊太郎は頷く。東雲は、くすぐったそうに微笑んだ。笑うと年相応に見える。菊太郎は、東雲の幼くかわいらしい笑顔を見て、なんだかうれしくなった。

「高校生だよね。学生証も持ってる?」

 菊太郎が問うと、

「持ってる」

 東雲は頷いた。

「じゃあ、それも撮っといてください」

 菊太郎は言う。

「そのナイトモードってやつで」

「うん」

 東雲は素直に頷き、自ら学生証の写真を菊太郎の携帯電話に保存した。

「東雲くん。念のため、きみの個人情報は預かりました」

 菊太郎は、携帯電話をポケットにしまいながら言った。

「一応、ぼくらの事務所には、こういうことがあったよっていう報告はします。でも、東雲くんが反省してるなら、家や学校や警察には言いません」

 こっちも、あまり大袈裟なことにはしたくないし、ということは敢えて口にしない。

「反省してる?」

 菊太郎が尋ねると、

「し、してる!」

 東雲は顔を真っ赤にして言った。

「ん。じゃあ、言わない代わりに、罰ゲームです」

 菊太郎のその言葉に、東雲の表情が不安そうに歪んだので、

「大丈夫。痛くないやつだから」

 と、菊太郎は笑って見せた。

 携帯電話の時計を確認すると、二十四時を回っていた。

「家のひと心配してない? 大丈夫?」

 東雲に確認すると、

「大丈夫。家、近いから……歩いて、すぐ」

 と、坂の上のほうを指差した。

 ああ、近所だから家を知っていたのか、と少し安心する。

 東雲は、悪意があって家を調べ上げたわけではないようだ。悪意が先か、状況が先か。最終的な行動は同じでも、やはり全く違うと菊太郎は思う。東雲は日頃、勇介が月見荘に出入りするのを見かけたりしていたのだろう。だから、こういう「意地悪」を思いついた。家を知らなかったなら、こんな「意地悪」は思いつきもしなかったはずだ。と思いたい。

 そして、女装時と素の時では顔や髪形や服装、とにかく全体の印象が全く違う菊太郎に、東雲は気づきもしなかったようだ。

 実際、さっきも全く気づかれてなかったみたいだし。なんだ。おれ、オーラゼロか。

 若干へこんだが、仕方がない、と気を取り直す。菊太郎は現在、女装でしかテレビに出ていないのだから。

「もう少し時間いい?」

 菊太郎が言うと、東雲は、

「うん」

 と頷いた。

「じゃあ、まず手紙を拾いましょう」

 狭い範囲だが、散らばってしまったファンレターを、東雲とふたりで拾い集めて、紙袋に入れる。混ざってしまった宛名は気にせず、全部いっしょに入れた。後で自分がちゃんと仕分けしよう。そう思いながら、菊太郎は丁寧に手紙を集めた。

「これ、全部読むの?」

 紙袋の中の手紙を見ながら東雲が言うので、菊太郎は顔を上げて答える。

「うん。全部読むよ」

「手紙、書いたら、読んでくれる?」

 意を決したように言う東雲に、菊太郎は、

「うん、読むよ。返事は書けないかもしれないけど」

 と笑顔で答えた。

「事務所に送ってくれたら、何ヶ月分かまとめてだけど、ちゃんと、こんなふうにぼくらの手元に届きます」

 菊太郎は、紙袋を示して言う。

「事務所」

 東雲が呟く。

「うん。赤座プロダクションてとこなんだけど」

「し、知ってる」

 東雲は、こくこくと頷いた。

「手紙、書く」

「うん」

 菊太郎が頷くと、東雲は、あのくすぐったそうな幼い笑顔を見せた。


「罰ゲーーーーム!」

 少し音量を抑えた、しかし、テンションの高い菊太郎の声が、門灯のぼんやりとした灯りの中で場違いに響く。

「東雲くんには、いまから、ぼくらの漫才を観てもらいます」

 そう言いながら、菊太郎はうずくまる勇介の右隣に立った。いつもの立ち位置である。

「なに言ってんの?」

 勇介の弱々しい問いを無視し、菊太郎は続ける。

「立っててもいいし、座ってもいいし、楽な姿勢で観てください」

 東雲は、キョトンとした表情で、ただ頷いた。

「おもしろくなかったら、笑わなくていいです。でも、おもしろかったら、思いきり笑ってください」

 東雲は、再び頷く。

「罰ゲームは、それだけです」

 菊太郎が言うと、東雲は、

「うん」

 と強張った顔で返事をした。

「ほら、立て、ユッケ」

 亀のようにまるまった勇介の背中をぽんぽんと叩くと、

「無理。まだ立てない」

 と、返事があった。

「じゃあ、そのままでいいや」

 菊太郎は、観客である東雲に向き直った。東雲は、座って観ることにしたようで、自分の両膝を抱えて菊太郎を見ている。

 一瞬の沈黙が下りた。

 かちかちかちかち。

 なにかが小刻みにぶつかり合う音を、菊太郎は聞いた。自分の歯が鳴っているのだ、と気づき、唖然とする。七月だ。寒いはずはない。実際、少し暑いくらいだった。ならば、どうして。

 そうか。おれ、いま、びびってんだ。目の前の、たったひとりの観客に。

 だって、こわい。東雲が笑うか、笑わないか。それだけのことが、こんなにもこわい。

 かちかちかちかち。

 気を緩めると、歯は鳴りっ放しである。菊太郎は、ぐっと奥歯に力を入れる。

「どれやるの?」

 のそり、と勇介が脇腹を押さえて立ち上がった。

「菊ちゃん、手、ぐうになってるよ」

「大丈夫なのか」

 菊太郎が手を開きながら問うと、

「なんとかね」

 勇介は弱々しく笑った。菊太郎は、ふうっと息を吐き出した。

「で、どれやるの?」

 勇介が再び言う。

「ん。お前、合わせなしで、どれできる?」

 勇介は、うーん、と唸って、

「亭主関白ネタ。でも、それもちょっと自信ないかも」

 と、首を振った。

 ネタ合わせをしっかりやっていればできるネタだが、最近は時間がなくて漫才の稽古はしていない。いま、ネタ合わせをがっつりして、未成年の東雲をこれ以上長く引き止めるのも忍びない。

 菊太郎は、自分のリュックからネタ帳を引っ張り出して、勇介の足元にひろげた。

「ごめんなさい」

 菊太郎は、東雲に謝った。

「ぼくらの練習不足で、完璧な形じゃないけど、勘弁してください」

 東雲は、とんでもない、というふうに両手を振った。

「合わせなしで完璧にできるネタ、作っとかないとな」

 菊太郎が呟くと、勇介は真面目な顔でこくりと頷いた。

「ほら」

 菊太郎が勇介の背中を叩く。勇介が弱々しい声を発した。

「どーもー、セプテンバーでーす」

「おい、もっと声張れ!」

 まだお腹に力が入んないんだよー、と、ぶつぶつ言いながら、それでも勇介は精一杯の声を張り上げた。

「どーもー! セプテンバーでーす!」

 東雲は、笑った。セプテンバーの漫才で笑ってくれた。東雲の、くすぐったそうな幼い笑顔を見て、菊太郎も勇介もうれしくなった。

 調子に乗った菊太郎は、元のネタを無視してアドリブをがんがん入れた。その度に、勇介がツッコむよりも先に笑ってしまうので、菊太郎がそれにツッコむはめになる。それを観て、東雲は手を叩いてキャッキャと笑った。

 漫才が終わると、東雲は勇介に頭を下げた。

 泣きそうな顔で、しかし、泣くのを必死にこらえて、東雲は、

「ごめんなさい」

 と謝った。

「うん。いいよ」

 勇介は困ったような顔で、そう言った。

「ちゃんと謝ってくれたしね」

 勇介は、弱々しく笑って、落ちていたキャップを拾い、汚れを払ってから東雲に手渡した。東雲は、そのキャップをぎゅうっと抱き締め、もう一度、頭を下げた。

 送って行こうか、というふたりの言葉に、東雲は、

「これ以上、迷惑、かけられないから……」

 と、ひとりで坂道を上って行った。

「ばいばい。菊ちゃん、月岡さん」

 ふたりは手を振って、その後ろ姿を見送った。

「おい。お前のせいで、視聴者の方々に『菊ちゃん』が定着しちゃってるぞ」

 菊太郎が言うと、勇介は声を上げて笑った。

 勇介は初めてテレビに出たあの日から、菊太郎のことを常に「菊ちゃん」と呼んでいた。

「わざわざ、菊ちゃんとか九条とか呼び方変えるの、面倒くさいんだもん」

 勇介は言う。

「いいじゃん。覚えやすくてさ」

 それもそうか、と菊太郎は口をつぐんだ。

「なんで、罰ゲーム、漫才なの」

 勇介が言うので、菊太郎は、

「やりたかったから」

 と、なんでもないように答えた。

「そっか。最近やってなかったもんね」

 勇介はにこにこ笑っていたが、菊太郎は笑えなかった。

 もやりとした感情が澱のように胸の底に滞っていた。


「女の子に、涙こらえながら謝られたらさ、それだけで許しちゃうよね」

 勇介の部屋で、菊太郎は、混ざってしまったファンレターを黙々と仕分けしており、それを眺めなから勇介が言った。

「ずるいよね、あれ。下手に泣かれるより効くもん」

「……女の子って?」

 菊太郎は、勇介の言葉に違和感を覚え、聞き返す。

「え。さっきの、東雲檜ちゃん」

 勇介はケロリとした口調で言う。菊太郎は、驚いて勇介の顔を凝視した。その表情を見て、

「え、え、え。菊ちゃん、男の子だと思ってたの?」

 勇介は呆れたように言った。

「免許証も学生証も見たんでしょ? 性別書いてなかった?」

「見たよ。見たけど、どっちも性別なんて書いてなかった」

 菊太郎は、むすっとして言い返す。

「そう。いや、でもさあ、確かに髪は短かったけどさ、どう見ても女の子だったじゃん。肩とか、腕とか見たらわかるでしょうに」

 そう言いながら勇介は、ころりと万年床に寝転がった。確かに、女みたいに細い肩や腕だとも思った。

「声も普通に女の子だったし」

 勇介は続ける。確かに、男にしては甲高い声だとも思った。

「菊ちゃんだって、きれいな名前だねーとか言ってヘラヘラ愛想良くしてたじゃん」

「いや。ファンだって言われたら愛想良くするだろ」

「そもそも、男の子だって思う要素がどこにあったわけ?」

 勇介の問いに、菊太郎はしばらく考え込み、そして答えを口にしようとした。

「お」

 そこから、言葉を繋いでいいのかどうか。それが、あまりにも間抜けで最低な理由であったために、菊太郎は自分自身を信じられなかった。

「お?」

 勇介が、先を促す。

「おっぱい、なかったじゃんか」

「へえっ?」

 勇介は、寝転がったまま、キョトンと菊太郎を見上げた。目が合い、菊太郎は立て膝をついて、拗ねたように勇介を睨みつける。その視線を受けて、勇介は笑う。

「菊ちゃんのスケベ。最低」

「二十代も後半になってスケベとか言われてもなあ。痛くも痒くもない」

 菊太郎も情けなく笑う。

「まあ、確かにね。スケベなのは当たり前だけどさ。でも、やっぱり最低」

「ふん」

 お互い呆れたように笑い合った後、

「どうして、逃げなかったの?」

 勇介が、ぽつりと言った。

「ん?」

「あんな危ない状況で。いくらでも逃げるタイミングあったじゃない」

 言われて、菊太郎は、

「そんなこと、思いつきもしなかった」

 と、率直に答えた。

「なら、お前は、なんで逃げろって言わなかった?」

 反対に問いかけると、

「うん。言おうと思ったんだけどね」

 勇介は、モゴモゴと言葉を濁す。

「なんか、置いてかれるの、いやだったから。さすがに、痛くて、こわかったし。ひとりになりたくなかったから」

 勇介は、

「『逃げろ』ってさあ、言おうと思ってても、なかなか出てこないもんだね」

 情けない顔で笑い、そのまま布団をかぶってしまった。

「次、こういうことがあったらさ、菊ちゃん逃げなね。俺、たぶん逃げろって言わないけど、ちゃんと逃げてよね」

 布団越しに言う勇介に、

「次もあってたまるかよ」

 独り言のように菊太郎は呟き、仕分けし終わったファンレターの紙袋をカラーボックスの上に置く。

「お前のがファンレター多い!」

 菊太郎はそう言って笑った後、

「ねえよ、もう。こんなこと」

 ぽつりとそう言い残して自室に戻った。


 それ以来、月見荘には帰っていない。いや、帰らせてもらえない。

 今回のことを事務所に報告すると、応急処置として、事務所が手配したマンションの一室に、勇介とふたりして放り込まれた。社長と篠宮には、時間ができたらきちんと引っ越せと言われている。アイドルでもあるまいし、大丈夫だと言ったのだが、どこがどう大丈夫なのか説明しろ、と詰め寄られ、結局できなかった。

 今回は、たまたま大丈夫だっただけだ。怪我で済めばいいが、命まで取られては取り返しがつかない。

 可哀想だったのは篠宮で、真っ青な顔をして、

「僕の責任です」

 と繰り返していた。

「僕が、ちゃんと家まで送らなかったから」

 普通、マネージャーに家まで送ってもらう若手芸人なんかいない。

 篠宮くんのせいじゃないから、と勇介がなだめてなだめて、やっと落ち着かせた。

 これでは、立場が逆じゃないか。どっちがマネージャーなんだかわからない。そう思うと、なんだか笑えてきた。

ありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ