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(ゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります)
移動のタクシーの中、九条菊太郎は、じっと固まって闘っていた。何と闘っているのか、自分でもよくわかっていなかった。ただ、どうしようもない憂鬱と焦燥感だけが、菊太郎の胸の内を支配していたので、きっとそいつらと闘っているのだろう、と、ひとりで納得した。
負けてはいけない。
俯くと、伸ばしっ放しにしている髪の毛が、ぞろりと頬の横に垂れた。必要以上に長いその髪の毛が心の底から忌々しくなり、菊太郎は勢いよく顔を上げる。
また今日も女装をさせられる。そう思うと自然とため息が出そうになるが、菊太郎は、いつもそれを寸前で飲み込む。ため息など、ついてはいけない。仕事があるということは、ありがたいことなのだから。
テレビ出演は皆無、知名度も皆無。唯一の仕事らしい仕事と言えば、郊外の遊園地のステージでウケない漫才を披露すること。
決して嫌だったわけでも楽しくなかったわけでもないが、つらくなかったとは言えない。そんな日々を思うと、こんな憂鬱なんて贅沢なことだ、と自分に言い聞かせる。
それに、今日は勇介も一緒だ。いつかのように、ひとりで軽くパニックに陥るなどということは、きっとない。
大丈夫だ。
菊太郎は、膝の上に置いた両の拳に、ぎゅっと力を入れた。隣に相方がいるということは、なんて心強いのだろう。菊太郎は、強張った身体の力を抜いてみる。
何度か経験したが、タクシー移動は未だに慣れない。自分たちを運んでくれるタクシーの運転手という存在は、ただ乗り合わせただけの電車の乗客のように、無関係な他人というだけでは済まされない何かがあるような気がして、終始落ち着かないのである。相方のことを人見知りだと思っていたが、こういうことを思う自分のほうが、実は人見知りなのかもしれない。
左隣に座る相方、月岡勇介に視線を投げると、勇介は、どうしたの? という表情で菊太郎の目を覗き込んできた。
「月岡、お前さあ」
言いかけて、菊太郎は、やっぱりなんでもない、と口を閉じる。こんな、自分たち以外の人間がいるタクシーの中などで、聞くべきことではないような気がした。勇介も、そう、と言ったまま、それ以上追求しようとはしない。少しだけ不満そうな表情が顔の表面をかすめたのは、自分が苗字で呼んだからだろうか。
お前、おれのこと怒ってる? それとも、バカだって思ってる? お前はさあ、どう思ってんの? いまの、おれらのこの状況をさあ。
先程、口にしかけた問いを頭の中で反芻してみる。
宙ぶらりんな気分のまま、菊太郎は勇介から視線を外すと、窓の外の景色を眺めた。十二月の陽射しが、目の奥をやわらかく刺激する。
窓から見えるピカピカの立派なビルは、テレビ局である。こうなる以前は、ネタ番組の出演オーディションでしか訪れたことのなかった場所だ。タクシーはいま、その向かいのスタジオへと向かっていた。
あんなに憧れた場所なのに、あんなに望んでいた場所なのに。菊太郎の心は少しも晴れない。
あーあ。髪、切りてえなあ。
菊太郎は再び、ため息を飲み込んだ。
漫才をしたくて芸人になった。
しかし、芸人になったはいいが仕事がない。仕事がないので金もない。金がないのでバイトで食いつなぐ。住まいは、月見荘と名付けられた、風呂とトイレと台所が共同のボロアパートである。正確に言うと、玄関と呼び鈴と郵便受けと靴箱と廊下と物干し場も共同である。要するに、たくさん部屋のある古い二階建て一軒家のようなアパートだ。駅からも近いとは言えず、家賃は安い。菊太郎は一〇三号室、勇介は二〇五号室に住んでいた。
それが、ほんの半年前までの話だ。
*
同じ事務所の先輩、黒田クロ太の家で酒を飲んでいた時のことである。他にも誰か呼ぶ? と提案だけしてみて、つまみや酒を買い足すのが面倒になり、結局ふたりだけで飲むことになった。
テレビは、ずっとつけっ放しにされており、音楽専門チャンネルに設定されていた。
「最近、スカパー契約してさあ」
黒田が言った。
「もう、うれしくて、CSばっか観てるよ」
いいなあ、と菊太郎は素直に羨ましがった。菊太郎の部屋には、テレビすらない。テレビを観たい時は、勇介の部屋で観せてもらっていた。CSなんて、夢のまた夢である。
テレビでは、着うたダウンロードランキングなるものをやっていた。曲と共にミュージックビデオが紹介される。
ゴールデンタイムと称されるこの時間帯、まともな仕事のない菊太郎にとって、たくさんの芸人が出演しているバラエティ番組を観るということは拷問に近い。そうは言っても、好きな芸人はいるし、好きな番組もある。普段ならなんということはないのだが、しかし、今日は事務所のネタ見せで失敗したばかりであった。他の芸人の活躍を観ても素直に楽しめず、卑屈な気分になるだけだろうし、そうなったら黒田に気を遣わせるかもしれない。
そう思っていた菊太郎は、黒田のチャンネル選択にほっとした。もしかしたら、黒田が先回りして気を遣ってくれたのかもしれない。そんなふうに気を遣われる自分が、少し惨めなようにも感じ、そして、そう感じてしまう自分のことが菊太郎は大嫌いだ。
しかし、なんにせよ、黒田が音楽チャンネルを選択してくれたことを、ありがたく思う。
テレビから流れる音楽を背に酒盛りが始まり、しばらくして、聴き覚えのある曲を耳がとらえた。
あれ、スノスタの新曲だ。発売日は来週のはずなのに。
視線をテレビに向けると、大きな画面いっぱいに、自分によく似た少女の姿が映っていた。
いや、違う。少女ではない。少女なんかでは、決して。
菊太郎は、瞬きも忘れて、テレビ画面を見つめた。いま念じれば、このテレビは易々と浮くのではないか、と思うくらいに見つめた。
それは、約二ヶ月前に撮影された、自分の姿であった。
そう認識した瞬間、菊太郎は口に含んでいた清酒を霧吹きのように吹き出し、向かいに座る黒田の顔を汚してしまった。
「ちょ、ばか!」
汚ねえなあ、と笑いながら本格的に文句を言おうと口を開きかけた黒田が、菊太郎の魂の抜けたような表情を見て首を傾げた。そして、菊太郎の視線の先、テレビ画面に映る少女をとらえ、
「ああ。この子、九条に似てんね」
菊太郎とテレビを、交互にキョトキョトと見比べた。
「え? あ! え! MVの仕事したって、これのこと!?」
黒田は楽しげな声を上げたかと思うと、ゲラゲラと笑い出した。
「まじ? まじで、これなの? 腹いてー!」
黒田があんまり笑うので、次第に菊太郎もおもしろくなり、黒田と一緒になって大声で笑った。
「こりゃ、内容聞いても教えてくんないわけだわ」
「口止めされてたんですって」
「ああ、そっか。うん、そういや、社長に聞いても教えてくんなかったもんなあ」
テレビの中の菊太郎は白いワンピースを身にまとい、泣きそうな顔で、どこか遠くを見つめていた。
*
スノースタンドというバンドが、一年半ぶりに新曲をリリースするという。そのミュージックビデオ出演のオーディションの話は、菊太郎たちの所属する赤座プロダクションの社長が持ってきた。
スノースタンドは、中高生に絶大なる人気を誇るバンドである。菊太郎も、その名前や曲を耳にしたことがあった。
その日、菊太郎だけが社長室に呼ばれ、オーディションを受けろと言われた。菊太郎は、いやだ、と言った。勇介とふたりでないと、オーディションは受けない、と自分が仕事を選べる立場ではないことを承知で駄々をこねた。
「コンビで募集してるわけじゃないのよ。それに月岡は、オーディションの募集要項にかすってもいないしね」
社長は言った。
「九条は、ぴったりなの。私の勘だと、あんたきっと受かるわよ」
読んでみな、と渡された募集要項には、「身長、一五五から一七〇センチメートルまでの痩せ型の男性。秘密を守れる方。年齢は十八歳から二十五歳までとするが、二十代前半に見える外見ならば年齢は問わない」というようなことが、堅苦しい文章で記してあった。
菊太郎の身長は、一六三センチである。対して、勇介の身長は、一八〇センチ以上あった。確かに、勇介では無理だ。
「あんた、確か二十五歳だったわよね?」
「いえ、二十七です。今年で二十八……」
「え、うそ。結構いってんのね。まあ、いいわ。あんた童顔だし」
質問に答えながら、菊太郎は、この奇妙な募集要項を何度も読んだ。
これは違う、という信号が、頭の隅で点滅している。
これは違う。このオーディションは、芸を求められているわけではない。
言葉を失っていると、ねえ、と社長が呼びかけてきた。
「このまま売れないでいるのと、このオーディションに受かって名前だけでも世間に知ってもらうのと、どっちがいいと思う?」
社長は、静かな声で言う。
菊太郎は、ごくりと生唾を飲み込んだ。
どっちがいいと思う?
社長の問いが、耳の奥に残り、頭蓋骨に響く。
どっちがいいのだろう。わからない。
「この曲はね、CMに起用されることが決まってんの。絶対売れるわよ」
社長は、大手飲料メーカーの名前を挙げた。こちらも、頭がくらくらするくらいのビッグネーム。
心が揺らぐ。菊太郎は、再び唾を飲み込んだ。
このひとは、こういう情報を、いつもどこから拾ってくるのだろう。
「あんたたち、芸歴何年だっけね?」
社長の問いに、
「今年で九年目になります」
菊太郎は、かすれた声で答えた。変な汗が吹き出る。
「いつまで青春ごっこを続けるつもり?」
後ろ頭を殴られたような気がした。
勇介との九年を、「青春ごっこ」の一言で片付けられたことがショックだった。だが、一方で、「青春ごっこ」という表現が、あながち的外れでもないことを菊太郎は知っていた。だからこそ、余計にショックだった。
「あんたと月岡、高校の同級生だったわよね?」
菊太郎は頷いた。
「その名残かしらね。部活の延長みたいなのよ、あんたたち。売れない売れない、でも頑張ろう。ふたりで慰め合ってるだけじゃ、売れるわけないわ」
社長は続ける。
違う、違う。そんなんじゃない。
言い返したかったが言葉が出てこない。のどがカラカラに渇いている。
頭が痛い。ユッケ。お前、バファリン持ってたよな。なあ、ユッケ。
菊太郎は必死で勇介の名を呼んだ。しかし、勇介はいま、ここにはいない。ここには、自分しかいない。
「売れたいならね、使えるもんは全部使いなさい」
社長は菊太郎の目をじっと見つめる。
「漫才の仕事がないなら、他の手を考えなさい」
菊太郎は、堪えられなくなり、目を泳がせた。
「いまのあんたが持ってる物の中で、使いもんになるのは、ひとつしかないわ」
社長の背後の飾り棚に置かれた、ガラスの一輪挿しをぼんやりと眺める。しかし、そこに答えが挿してあるわけではない。挿してあるのは、作り物の花だけだ。
「あんたの武器は、コンパクトでかわいらしい、その外見よ」
社長は、きっぱりと言い放った。
いままで、自分たちの唯一の武器は漫才だと信じてきたが、それはどうやら使い物にならないと判断されたらしい。
菊太郎は、カサカサに渇いた唇を舐める。少し、鉄の味がした。
「ねえ、九条。これは命令なの。あんたに選択肢はない。あんたは、オーディションを受けるの」
情けないことに、菊太郎はその言葉にほっとした。
自分で選んだわけではない。自分が頷いたわけではない。そういう、逃げ道ができて安心したのである。
情けなさすぎて死にたくなった。こんな言い訳、勇介には絶対できない。
「とりあえず書類審査ね。顔写真と全身写真撮るわよ」
社長はにっこり笑って性能の良さそうなデジタルカメラを取り出した。
髪形と服装を整えられ、写真を数枚撮られた後、もう帰っていいわよ、と、あっさり言われた。
まだ受かると決まったわけではない、と菊太郎は自分を落ちつかせる。だが、
「あんたは、絶対受かる」
社長は確信に満ちた声で言うのである。
頭が痛い。自分が受かりたいのか、そうでないのか、よくわからなかった。
社長は、帰ろうとする菊太郎を呼び止めて、
「そうだ。髪の毛切っちゃだめよ」
と言った。
言われなくても、散髪する金なんてない。伸ばしっ放しのボサボサの髪の毛を両手で引っ張り、菊太郎は何も言わずに頷いた。
*
結果、社長の勘は当たった。菊太郎は書類審査をすんなり通過し、一応定められていた年齢制限よりも上だったにも関わらず、最終選考にも通ってしまったのだ。事務所に届いた合格通知を見た社長の、それ見たことか! という勝ち誇った顔が、しばらく頭から離れなかった。
撮影当日、肩まで伸びたくせっ毛をヘアアイロンで真っ直ぐに伸ばされ、白いシンプルなワンピースを着せられた菊太郎は、髪の毛を切るなってこういうことか、と半ば呆れていた。極秘情報をどこで入手したのかは不明だが、社長は、このプロモーションビデオがこういう撮影だと知っていたようだ。当然といえば当然だが、菊太郎は何も聞かされていなかった。
「篠宮くーん。おれ、すね毛と腕毛とワキ毛を剃られちゃったよ。全身つるっつるだ。屈辱」
臨時で一緒に来た、売れている後輩の担当マネージャーにぼやくと、
「女性になるなら、無駄毛処理は必須ですよ」
と、笑いを噛み殺しながら言われた。
「だよなあ。ランニングだから、ちょっと腕上げたらワキ毛見えちゃうしな」
「ランニングって、九条さん。ノースリーブですよ、それ」
「どう違うんだよ」
普段、菊太郎たちには専属のマネージャーが付いておらず、仕事の際には手が空いた誰かしらのマネージャーが付き添うことになっている。と、菊太郎はこの日、初めて知った。いままで、マネージャーを必要とする仕事などしたことがなかったのだ。遊園地のステージに立つ時も、番組のオーディションを受ける時も、勇介とふたりで勝手に行って、勝手に帰って来ていた。
「スノスタいないね」
菊太郎が呟くと、
「スノースタンドさんの映像は、もうずっと前に撮り終わってるみたいですよ」
篠宮がそつなく答える。後で映像を編集し、混ぜ合わせるのだそうだ。
「しっかし、本当に女性にしか見えませんね。口さえ開かなきゃ九条さんだってわかりませんよ」
「なあ。メイクってすげえよなあ」
この撮影は、話題性を狙ったのか、男性を女装させるというのが大前提らしい。そして、その男性が無名ならなお良い。そういうことを、菊太郎は撮影当日、ロケ現場で聞かされた。
情報が流出しないように、オーディションを受けた者たちにも、徹底的に伏せられていた。
あの奇妙な募集要項は、こういうことだったのか。無名だが全くの素人というわけでもなく、小柄で痩せっぽちで童顔の菊太郎は、もってこいの素材であったようだ。オーディションでとった笑いは、やはり無意味で、純粋に外見だけで選ばれたことがわかり、菊太郎は少し悲しくなる。
確かに、菊太郎の、整ってはいるが無個性でプレーンな顔立ちは化粧映えした。丁寧にアイラインをひかれ、マスカラをたっぷりと塗られた菊太郎の目は、普段の二倍の大きさに見えた。
篠宮と雑談をしているとスタッフが呼びに来た。ロケ現場は、埋め立て地の近く、草ぼうぼうの空き地である。菊太郎は、そこに裸足で立った。
海風がびゅうびゅうと吹き、菊太郎のむき出しの肩にぶつかる。歯がガチガチと鳴った。もうすぐ四月だというのに驚くほど寒い。うう、と菊太郎は小さく唸る。
遠方に大きな工場らしきものが見える。赤と白の煙突からは、灰色の煙が立ち上っていた。
やるからには全力で、と挑んだ撮影だったが、力みすぎて駄目出しを連発された。もっとふわふわしろ、と言われた。
なんだよ、ふわふわって。
「心ここにあらずっていうか、不安定な感じを出したい」
監督が言った。
「そうやって踏ん張ってちゃだめ」
「すみません」
おれ踏ん張ってたかなあ、と思いながら、菊太郎は謝った。ふと、自分が拳をかたく握っていることに気づき、慌ててそれを開く。
確かに踏ん張ってたな。
「なんか、他のこと考えてみて」
監督に言われ、
「他のこと? ですか」
菊太郎はきょとんと返事をする。
「たとえばねえ、不安なこととか心配なこととか、ない? そういうの」
ある。
視線を少し遠くに投げれば、煙突の煙が真っ青な空に溶けていくのが見えた。勇介の顔が浮かぶ。
勇介は、撮影に付いて行くと言って、聞かなかった。勇介が我儘を言うことは珍しい。
「だめだよ。部外者連れて来ちゃだめって言われてんだから」
菊太郎が言うと、
「部外者じゃないよ。俺、菊ちゃんの相方だよ」
と勇介は弱々しい声で言った。
「篠宮くんは行くのに」
「マネージャーはいいんだよ」
「篠宮くんは、菊ちゃんのマネージャーじゃないじゃん」
「知ってるよ」
出かける前、月見荘の玄関先で、終わりのない押し問答をしばらく続けた。
勇介は、大きな身体を極限まで小さくして項垂れている。部外者じゃないよ、と勇介はもう一度呟いた。
「ごめんて」
菊太郎の胸の内は、罪悪感でいっぱいであった。自分だけ仕事をするということで、勇介に対してこんなに申し訳ない気持ちになるとは思っていなかった。しかも、笑いとは一切関係のない仕事なのである。それが余計に罪悪感を膨らませた。
勇介は、不安がっている。いままでとは違う何かが起こりそうだという予感が、勇介にもあるのかもしれない。
そこにいた時間が長すぎて、すっかり慣れて居心地が良くなってしまった泥沼。その泥沼にいられなくなりそうで、不安なのだ。
菊太郎も不安であった。これまでの八年間、ずっとふたりでやってきたのである。
初舞台は、事務所主催の新人顔見せライブだった。緊張する舞台袖で、菊太郎は拳をかたく握り、勇介の横顔を盗み見た。勇介は、楽しそうに笑っていた。緊張なんて、微塵も感じていないようだった。それを見た菊太郎は、大丈夫だ、と思った。こいつが笑っている限り、おれは大丈夫だ。
いま思えば、そこが頂点だった。それ以降、ネタ見せでなかなか合格をもらえず、事務所のライブにも出してもらえない日々が続いた。
苦肉の策として、先輩の黒田から遊園地のステージを紹介された。黒田も昔、立っていたというステージだった。ぐったりと休憩するパパさんたちに、聞いてもらえない漫才を披露する。
「どーもー! セプテンバーでーす!」
勇介の張り上げる声が、ステージの上で高らかに反響していた。緩慢な空気が漂う中、ふたりのテンションだけが高かった。
全力の漫才を右から左に流されるのは悲しい。しかし、漫才ができないよりはいい。漫才をしている間は、楽しかった。周りの音や視界、すべてがクリアになる。観客席の動き、反応、誰が席を立ったか誰が笑ったか。見逃すまい、聞き逃すまいと五感がフル活動する。勇介のツッコミを全部吸収しようと脳みそが高速で思考を巡らせる。一種のトランス状態と言ってもいい。漫才をしている時だけは、全身で、楽しい! と感じることができた。
前に進もうともがいて、浮上したかと思うとずぶずぶ沈む。そういう八年間をふたりで歩いてきた。いつも、左隣に勇介がいた。いつでも、隣でにこにこ笑っていた。隣に勇介がいないということが不安で仕方ない。
そして九年目にして、急に、いままでの生活が変わってしまうかもしれないという予感に、菊太郎は震えそうになる。
この仕事が成功したら、少しだけど、きっと名前が売れる。もしかしたら、テレビ出演の仕事が入るかもしれない。テレビで漫才をやれるかもしれない。それを素直に喜んでいればいいのだ。
しかし、どうしても喜べない。それで仕事をもらえたとしても、それは、自分たちの実力が認められたわけではないからだ。スノースタンドに借りた力である。当然、それは勇介も感じていることだろう。
ああ、そうか。
菊太郎は思う。これが仕事だと、チャンスだと割り切れない。どうしても感情が入り込む。こういうところが「青春ごっこ」なのだ。
社長室に呼ばれた日、月見荘に帰った菊太郎は、勇介の部屋の木戸を叩いた。
帰りの電車の中でも、ずっと頭痛が続いていた。ぎゅうぎゅうと締めつけられるような痛みが、自分を責めているように感じた。
六畳の部屋で膝を突き合わせ、菊太郎は勇介に社長とのやりとりを報告した。自分の感情が入り込まないように、できるだけ淡々と話した。ただ、「青春ごっこ」のくだりと、この件が社長命令だということだけは伏せておいた。
社長命令で仕方なくオーディションを受けるのだ、と言い訳してしまいたいのを、腹にぐっと力を入れて堪える。その言い訳に、それじゃ仕方ないね、あのひとには逆らえないもん、勇介はそう言って笑ってくれるだろう。
菊太郎は、しかし、その顔を直視できる自信がなかった。自分が、スノースタンドの人気と大手飲料メーカーの名前に心をぐらつかせたのは事実なのだ。
「菊ちゃんが、自分で決めたの?」
勇介は、おそるおそるといった様子で口を開いた。
「うん」
菊太郎は頷く。勇介の目の奥が、ゆらゆらと揺れている。目をそらしたかった。だが、そらしてはいけないと思った。
菊太郎は、勇介の目の奥に揺れる感情を見定めようと、それを見つめる。
「受かる、自信あるの?」
「社長は、絶対受かるって言ってくれた」
「そう」
勇介は下唇をきゅっと噛み締めた。そして立ち上がり、バッグをごそごそと探り始めた。勇介は、バッグの中からEVEを取り出すと、菊太郎に投げて寄越した。
「菊ちゃん、悩むと頭痛くなるでしょ」
勇介はそう言って笑った。バファリンじゃなかったな、と思い、菊太郎も全身に張り巡らせていた緊張を解き、少し笑った。そういうオーディションではないのだとわかってはいるが、絶対に笑いをとってやる、と菊太郎は決意した。
まさに、心ここにあらずの状態で、ぼんやり草を踏み分けて歩いていると、監督のオーケーが出た。
「不安で泣き出しそうな表情が素晴らしかった」
と言われた。
「ありがとうございます」
そう応じながら、そんなに不安そうな表情をしていたのだろうか、と愕然とする。
情けない。
唇をペロリと舐めると、舌にグロスがまとわりついてぎょっとした。
うわあ、女ってめんどくせえなあ。唇も舐められないし、目もこすれない。グロスって、舐めても大丈夫なんだよな。腹こわしたりしないよな。不安である。
仮設テントでメイクを直してもらっている最中、ずっと、こめかみがぎゅうぎゅうと痛んでいた。
また頭痛か。確か勇介にもらったEVEがまだ残っていたはずだ、と思い当たり、鞄の中を探ったが見つからない。どうやら月見荘の部屋に忘れてきたらしい。菊太郎は、小さく舌打ちをした。
鏡を見ると、舌打ちなんか絶対しなさそうな、清楚な顔の女の子が映っている。菊太郎は、ふと、その顔が誰かに似ていることに気づいた。誰だろう、と考えて、自分の母親に似ているのだと思い至る。
うひゃっ、と笑い声を漏らし、そのことを勇介に伝えようとした。
なあユッケ、と言いかけ、勇介はいま、ここにはいないのだと思い出す。仕方がないので、そばで片付けをしていたメイクさんに、
「おれ、メイクすると母親そっくりになります」
そう言ってみた。メイクさんは、
「お母さまも、かわいらしい方なんですね」
と、にこにこしていた。やはり、母親の顔を知っていないと腹からは笑ってもらえないんだな、と菊太郎は少し物足りなく思う。
その後、笑ったり走ったり転がったりといったシーンを撮り、撮影は終了した。菊太郎には、出来上がりが全く想像できなかった。こんなの、どう使うんだろう、と思いながら、菊太郎は草の中に仰向けに寝転んだ。
メイクを落としていると、
「せっかくかわいいのに、なんだかもったいないですねえ」
篠宮に言われた。
「おっさんの女装が、かわいいわけねえよ」
と菊太郎は言い返す。
「九条さん、おっさんじゃないですよう。確か二十八歳でしょう? 外見は僕よりも若いし」
「まだ二十七だ。や、どっちにしても四捨五入したら三十だぞ。もうおっさんじゃん」
「どうして四捨五入する必要があるんです?」
屁理屈のぶつけ合いをしていると、スタッフが寄ってきて、今日の撮影の内容はくれぐれも口外しないようにしてくれ、と念を押される。菊太郎と篠宮は神妙に頷いた。初出のインパクトを薄れさせないため、話題性を出すため。これは絶対の条件なのだそうだ。
ユッケにも話しちゃダメなんだろうな。菊太郎は、ぎゅっと拳を握る。薄暗い部屋の隅、三角座りで待っている勇介を想像してしまい、また頭が痛んだ。
いやいやいやいや。なんだ、いまの寂しい画は。あいつ、たぶん寝てるし。趣味、寝ることだし。
こめかみを指で押していると、
「頭痛ですか?」
篠宮が言う。
「うん? ううん」
曖昧に誤魔化すと、
「月岡さんから、バファリンを預かってますけど」
篠宮は、そう言って自分の鞄から、ノーシンの箱を取り出した。
「え」
「九条さんは頭痛持ちだからって、渡されました」
あいつはおれの保護者か。菊太郎は苦笑する。
「篠宮くん。それ、バファリンじゃねえよ。ノーシンだよ」
「頭痛薬は、みんなバファリンですよ」
「いや、そんなことないだろ。他の製薬会社に謝れよ」
小さな紙箱をペリペリと開ける篠宮を見ながら、菊太郎は、ひゃっひゃっ、と笑った。
*
菊太郎が黒田の家で観たのは、CDの発売に先行してダウンロード配信された曲がランクインしたものだった。
散々笑った後、菊太郎は終電を待たず、早い時間に月見荘に帰宅した。黒田の家に泊まらせてもらうつもりだったのだが、当の黒田に、
「月岡にも知らせてやれ」
と言われ、それもそうだ、と、あいさつもそこそこに部屋を飛び出した。
「MV解禁したから、もう、お口のチャック開けちゃっていいわよ」
駅を出たところで、携帯電話に社長から連絡が入った。
「明日の午前中、月岡とふたりで事務所に来なさい。観せてあげる。それから、今後の相談もしなきゃね」
わかりました、と簡潔な返事をし、携帯電話を閉じる。
ダッシュで夜道を急いだ。五月の終わりの空気が、アルコールと興奮でほてった頬に気持ちいい。
玄関の引き戸を開けるのももどかしく、菊太郎は倒れ込むようにして、スニーカーを脱いだ。自分の部屋へは戻らず、階段を一段飛ばしで駆け上り、二階の勇介の部屋へと直行する。階段がミシミシと悲鳴を上げたが、構っていられない。
ユッケ、ユッケ、と呼びながら部屋の木戸をぼんぼん叩くと、ベコンと音を立てて扉が開き、
「なに、もう、菊ちゃん。何時だと思ってんの、もう、もう!」
という、苛立ったような声が足元から聞こえた。
「お隣にも迷惑でしょうが」
勇介は布団をかぶったまま、匍匐前進でここまで移動して来たらしい。
「いや、うん。悪い。ごめん」
お前が寝るの早すぎなんだろ、という言葉が出そうになるのをこらえ、菊太郎は足元の布団の塊に向かって、まず謝罪の言葉を口にした。
勇介は、散々だったネタ見せから戻ると、
「もう今日は終わり。俺、明日まで寝るから」
と、ふて寝したのだ。どうやら、夕方からいままで、ずっと眠り続けていたようだ。
「ユッケ。あのさ。こないだ撮ったPVが」
菊太郎が言いかけたところで、足元の布団が、もこっと盛り上がった。
「もう観れるの!?」
勇介が菊太郎の足首をつかむ。
「社長が、明日の午前中、ふたりで事務所来いって。観せてやるって」
菊太郎は倒れそうになりながら答える。勇介は、こくこくと頷いた。
「菊ちゃん、もう観た?」
「クロさんのとこでチラッと観た」
布団を抱え、万年床に戻りながら勇介は、「どうだった?」と問う。扉を閉め、その後ろに続きながら、こいつ、簡単そうな顔で難しい質問するなあ、と菊太郎は思った。なので、
「なんか、おれじゃないみたいだった」
それだけ言った。
「そういえば、どういうの撮ったの? かっこいい感じ?」
勇介は更に質問を重ねてくる。
「ええ? とねえ。うん。女装、した」
菊太郎は勇介の表情を窺いながら、もごもごと事実を口にした。
「まじでー?」
勇介は、ふふふ、と、おもしろそうに笑った。
*
事務所でミュージックビデオを観た勇介の第一声は、
「誰!?」
であった。
「これっ、これさあ。これ、本当に菊ちゃん?」
「うん。おれおれ」
菊太郎が頷くと、
「俺、女装って、こういうのだとは思わなかった。うわあ。全然、違うひとみたい」
勇介は言った。
「もっと、なんか、こう、おもしろい感じかと思ってた」
菊太郎は、勇介の反応に共感した。芸人の女装といえば、普通は、おもしろい感じのものなのだ。
「かわいいでしょう?」
社長はご満悦である。
「うん。かわいい」
勇介は素直に頷いた。
「菊ちゃん、普段、小汚いし、口悪いし、すぐ怒るし、すぐ蹴るし、根暗で卑屈で我儘で、ほんと全っ然かわいくないのに、この菊ちゃんは、くそみたいにかわいい」
ほめているようで、明らかにけなしている言葉を並べ立て、それから、勇介はせきを切ったように笑い始めた。なにやってんのよ菊ちゃん、なにやってんの、と繰り返しながら、勇介はぷるぷると震えている。いまにも椅子から転げ落ちそうだ。
「お前、普段、おれのことそんなふうに思ってたのかよ」
菊太郎も、やはり笑う。笑うと止まらなくなった。勇介はとうとう椅子から落ちてしまっている。
一旦笑いが収まったところで、菊太郎が、
「なあユッケ。おれ、メイクしたら母ちゃんそっくりだろ」
と言うと、勇介は一瞬動きを止め、菊太郎の顔を見た。そして、床に這いつくばって再び笑い始める。
菊太郎はその姿を見て、満足した。社長は、呆れたようにため息をつく。
「これから、ちょいちょい仕事が入るわよ」
ふたりの笑いが完全に収まるのを待って、社長が言った。
「ミュージックビデオにチラッと出たからって、注目されるとは限らない。でも、九条の奇跡の外見なら必ずどこかしらから声がかかるはず。このMVは天下のスノースタンドで、その上、スノスタよりも、九条がメインで撮られてる。注目度はハンパないわ」
社長が言うには、仕事が増えるのはだいたい再来週あたりからだろうということだった。
CDの発売が来週、きっとランキングの上位に入る。そこで流れるプロモーションビデオが馴染むのが、だいたい再来週あたり。出演している女の子の正体が実は男で、しかも芸人だという事実が明るみになるはずだ。そうすれば、そこに話題性を見出した局や雑誌から、きっと仕事の依頼がくる。
菊太郎は眉間に皺を寄せ、首を傾げた。社長の言うことが、いまいちピンとこない。勇介はどうだろう、と表情を横目で窺うと、見事なキョトン顔を晒していた。
あ、こいつも全然ピンときてないな、と菊太郎は内心で笑う。
「依頼がなくても、その時期を狙って、こっちから売り込みをかける」
社長は続けた。
「たぶん、声がかかるのは九条だけだろうけど、九条に仕事が入ったら、無理矢理にでも、そこに月岡をねじ込む」
菊太郎と勇介は、顔を見合わせる。社長の声は真剣そのものだった。
「ふたりでテレビに出るのよ、セプテンバー」
ありがとうございました。