歩と幸芽
「幸芽、元気でね」
「歩も、元気でね」
幼い少女達は強く抱きしめ合い、体を離してお互いの連絡先を交換した。
「年賀状出すね!手紙も書くからね!幸芽も頂戴ね、どこに行っても負けたら駄目だよ」
「うん!歩も、負けたら駄目だよ」
小学校の正門の前で、名残惜しそうに歩と手を握り合う幸芽。
「大人になったら・・・・・成人式の日に、ここで会おう」
言いながら歩が小指を立て差し出した。
「早く大人になりたいね・・・・・歩と会える日を心の支えに頑張るよ」
幸芽がしっかり小指を絡めた。
「幸芽、元気で頑張れよ、美咲の事もしっかり守ってやれよ」
「うん・・・・お兄ちゃん達も元気で、今まで一緒に遊んでくれて、勉強も教えてくれて本当にありがとうございました」
別れを惜しむ幸芽の傍らで、まだ明確に状況を飲み込めていない妹の美咲が、けれど、当たり前のように一緒に居た歩たちと一緒に居られなくなる事は理解していて涙を浮かべていた。
消化しきれない辛い事が重なり過ぎて、歩と歩の双子の兄、大地と幹汰を見上げた後、俯いて、堪えきれずに泣き出した。
堰を切ったように声を上げ泣きだした美咲を真っ先に幹汰が宥めた。
「大丈夫だよ美咲、いっぱい泣いて良いんだよ、でも向こうに行ったら元気いっぱいで頑張るって、お兄ちゃんと約束して?」
差し出された小指をジッと見つめた後、美咲が胸の奥で頑張る事を誓って、やがて頷いて小さな小指を絡めた。
「よし!偉いよ美咲、大きくなったら遊びにおいで、お兄ちゃんたちも遊びに行く」
「ありがとうな、幹汰君・・・・」
幹汰のおかげで美咲が、まずは小さな、けれど大事な一歩を踏み出せたのを見届けて父親が感謝を述べた。
「いえ・・・・」
子供たちが別れを惜しむ横で、親同士も名残惜しそうに、寒空の下、立ち話をしていた。
「本当に、長い間お世話になりました、どこに行ってもお元気で!」
「こちらこそ大変お世話になりました、隣に住んでいるのが支倉さんで本当に良かったと思っているんですよ、ほら、3人共、支倉さんに挨拶して」
母親に促されるまま、3人が幸芽の父親に挨拶した。
「2人も、鏑木さんに挨拶して」
美咲と幸芽も促されるまま挨拶した。
風に乗って聴こえてくる演劇部の発声練習とグラウンドに響き渡る野球部員やサッカー部員達の元気な声をボンヤリ聞きながら小柄な少女、支倉幸芽は図書室で本を読んでいた。
真剣な眼差しでページを捲り文面を追う表情には隠しきれない翳りがあった。
豊かな自然に囲まれて送る生活は、傍から見たら恵まれているように見えるかもしれないが、幸芽の心に空いた穴は今もまだ埋まる事は無かった。
生まれ育った故郷を離れ、父方の両親を頼り遠く山梨にやってきて数年。
幸芽は遠く離れてしまった幼馴染で親友でもある鏑木歩に思いを馳せた。
そんな歩は静岡県にある西浜中、2年A組に在籍していた。
学習面では、学年で上位に位置していて面倒見が良い一方で、良い事は良い、悪い事は悪いで、誰に対しても白黒ハッキリと意見する少女に成長した。
部活動は俊足を活かす為、陸上部に所属していた。
そんな歩の日課は、放課後に3階の自分の教室からサッカー部の坂口翔を見つめる事だった。
2人は周囲からの冷やかしを避ける為に周りに秘密で小6の終りから付き合っていた。
両想いで、歩の方から気持ちを伝えた事で始まった関係だった。
けれど、中学に上がってからはクラスも違う上にお互い部活動で何かと忙しくしていた。
だから、せめて帰りは一緒に下校しようと、通学路にあるショッピングセンターの書店で待ち合わせて帰るようになった。
下校を促すチャイムが鳴り響き、歩は視線をグラウンドから教室の時計に移した。
戸締りをして教室を出ようとした時、教室の前の扉が突然開いた。
怒りの形相で教室に入ってきたのは陸上部顧問の両角だった。
余分な脂肪も無く、引き締まった体は典型的なアスリート体型で、顔も悪くないので女子からは人気を博していたが、歩は全く眼中に無い上に、入部当初からウマが合わず苦手意識さえ有る相手だった。
「鏑木、今日も無断で部活サボったな!いい加減にしろ!どういうつもりだ!大会も近いというのに」
「どういうつもりも何も、イエスマンばかり贔屓する先生のやり方についていけないので行きませんって先日ハッキリと伝えましたけど、事前にお伝えしてるので無断ではないと思うんですけど、そして先生の卑怯なドーピングの餌食になりたくないから大会も辞退すると、ちゃんとお伝えしましたけど」
「そんな身勝手が世の中に通用すると思っているのか!?いつまでそうして訳の分からない言いがかりを付けたら気が済むんだ!良いか!とにかく明日こそ部活に来い!絶対だ!」
言いながら壁際に押しやり歩の進路を威圧的に遮ったが、歩は臆せず押し退けた。
そして自分の意思を今一度ハッキリ伝えながら両角の横を通り抜け、廊下に出た。
背後で騒ぐ顧問を無視して、突き当りの階段から正面玄関に降りていった。
歩は自分の下駄箱を開けて、空っぽの下駄箱を見て、そっと下駄箱の扉を閉じた。
予想した通りの結果に表情一つ変えず、そして背中に感じる視線とクスクス笑う声に気付かないフリで近くに設置されているゴミ箱を開けた。
中から不自然に汚された通学靴を拾い上げて気配のする方を一瞥して靴を履き、上履きを持って立ち去った。
待ち合わせのショッピングセンターの書店に行くと、歩は真っ先に、その日発売のある雑誌を手にした。
少し前、漫画を投稿していたのだ。
もともと絵を描くのが好きだった歩は絵画コンクールで入選したのを機に自分の可能性を伸ばしたいと考え、幾度となく漫画を投稿し、落胆を繰り返していた。
そして、この日、雑誌の中で入賞者等が発表されることになっていた。
若干、寝不足になりながら投稿した作品は渾身の自信作ではあったが、それでも今回も、きっと入賞には至っていないだろうと思いながらも確認せずには居られなかった。
淡い期待を抱きながらパラパラと捲って手を止めた。
「・・・・あった・・・・・うそ!」
歩は思わず声に出してしまい、直ぐに辺りを見回して恥かしそうに雑誌で顔を隠した。
それでも何度も自分の名前を見て笑顔を隠し切れずにいた。
その時、店内に5時から行われる恒例のタイムセールを知らせる館内放送が流れた。
「それにしても遅いな翔」
ハイテンションのあまり、つい思った事が声に出てしまう現象に一層赤面して深呼吸して気持ちを落ち着けた。
遠目から見ても嬉しそうな様子の歩を見つけた翔はホッとしながら歩に近づいた。
「お待たせ、ゴメン、遅くなって、監督の話が長引いちゃって」
「翔、お疲れ様、そうなんだ?」
普段は長く待たせると機嫌を損ねるが、今日は歩の機嫌が良かったので、大丈夫だった。
「何か凄く嬉しそうだな、何?面白い記事でも有った?」
言いながら、翔は日焼けした顔で、歩の読んでいた雑誌を覗き込んだ。
「うん、夢に一歩近づいたよ!名前も載ったんだよ!見て!ここ!嬉しい!凄く嬉しい」
「凄いじゃん!おめでとう」
同じ頃、静岡から離れた山梨で、幸芽が歩の名前を見つけた。
チラリと書店の時計を確認して、とりあえず、その雑誌を手にしてレジに並んだ。
会計を済ませた後、素早くトイレに入って携帯のアドレス帳から歩の情報を引っ張り出して慎重に言葉を選びながらお祝いのメッセージを作成した。
『歩、久しぶり、元気?私は可もなく不可もなくの中学校生活を送っているよ、ところで今日、雑誌で歩の名前を見つけたよ、奨励賞に入賞したんだね、おめでとう、確実に夢の実現に近づいているんだね、これからも歩の漫画家の夢、応援しているからね、少し早いけど歩の誕生日にはスクリーントーンを送るからね、よく使いそうなのを選んで送るよ』
幸芽のメールは直ぐに歩に届いた。
『ありがとう、元気だよ、勉強とか色々大変になった所為で電話もメールも前みたいに出来なくなってゴメンネ、幸芽の誕生日には図書券を送ろうと思っているよ♪』
直ぐにまた幸芽からの返信が届いた。
『中学の勉強、難しいもんね、ところで私の近況を報告すると先日、愛用し続けたガラケーの故障を機に遂にスマホにしたよ、それから、ちょっと気が早いけど今度の夏休みは山梨に遊びにおいでよ、私の方から、また静岡に行っても良いけど、今度は山梨の良さも是非、歩に見せたいと思うよ、では、今日は塾の日なので、この辺で・・・・・またメールするね』
一旦やり取りを中断して、重い足取りで書店を出た幸芽は同級生の2人に人気のない公園に連れ込まれた。
「遅いんだよ、彩夏を待たせてるんだから早くしろよ!チビガリ」
「彩夏、お待たせ!」
書店に入る所を運悪く、同じ塾の3人に目撃され、この日も万引きを強要されていた。
3人で居ると何かと目立つので彩夏は人気のない公園で「戦利品」を待ち、取り巻きの2人は書店の入口で逃走されないように待ち伏せていた。
公園ではブランコに腰掛けスマホを操作しながら彩夏が待っていた。
3人の姿を公園の入り口に認め、手を止め、ブランコから降りた。
「遅いんだよ!一冊パクってくるのに、どれだけ時間かけるんだよ!謝れ、チビガリ!」
怒鳴りつけながら幸芽から雑誌を奪った。
「・・・ごめんなさい」
不明瞭に、相手の目を見ずに無気力に抑揚なく謝った。
「マジでムカつく!こんなに待ってあげたのに!これアタシの読みたい雑誌じゃないし!やり直し!」
「え・・・・」
「え、じゃ無いんだよ!アタシの読みたい雑誌パクって来いよ!10秒以内!行け!!」
雑誌を強かに投げつけられ踏みにじられた。
「でも、何でも良いって、さっき・・・・」
「ゴチャゴチャ言うな!出来ないなら土下座しろよ!彩夏が謝れって言っているんだから謝れよ!」
後ろから取り巻きの朝美に背中を蹴飛ばされて踏み止まれずに倒れこんだ。
「ゴミの分際で息してスミマセンって心から謝れば許してやるよ」
もう1人の取り巻き、風歌が倒れこんだまま黙り込んでいる幸芽の頭を土下座を強要して抑え込んだ。
「ほら!早く言えよ!チビガリ!!」
「・・・・ゴミの分際で息してスミマセン」
聞きたい台詞を聞けて満足した3人が笑って、それぞれ幸芽を詰って立ち去った。
「消えろ」
「単細胞」
「役立たず」
幸芽は3人の気配が無くなるまでジッと地面に突っ伏し続け、やがて顔を上げ、3人が立ち去った方向を憎悪の眼差しで睨みながら雑誌を拾って、歩の名が載ったページが無事なのを確認して服についた土をしっかり払って立ち上がった。
そして幸芽も塾へと向かった。
一方、歩は幸芽から届いた文面を確認して、何だか返信する気にはなれなくて、夕飯と入浴を済ませる為に階下に降りた。
手早く入浴と夕飯を済ませると再び自室に戻り勉強に励んだ。
その後、取りあえず幸芽に当たり障りのない返事を送信して、やり取りを完全に終了させた。
9時半を少し過ぎた頃、階下で玄関の開閉の音が聞こえ、下に行ってみると。
「お兄ちゃん、久しぶり、お帰り」
「勘違いするな、別に帰ってきたわけじゃない、金貰いに来ただけだ」
家に寄り付かない兄の言葉に歩は律儀に傷ついた。
住み慣れた地を離れ、母親の両親が移住して暮らしていた静岡にやってきて数年。
素直だった双子の兄の片割れの大地は、移住後、心の拠り所にしていた祖父母との相次ぐ死別や様々な事が積み重なり思春期に自分を見失い非行に走っていた。
高校へも殆ど行かず単位も当然足りる筈も無く進級試験も放棄し、今年まだ高1の大地。
一方の幹汰は空手の特待生として全寮制の私立高校に進み、この春に問題なく高校2年生に進級した。
母親の千春は、細々と年金生活を満喫していた両親に極力負担を掛けずに、3人の子供を育て上げるために移住して直ぐ、巡回警備と居酒屋の店員という二足の草鞋を履いて肉体的に非常に負担の掛かる事をしていた。
「ただいま」
一気に漂う不穏な空気に、歩は目を伏せて2階の自室に逃げ込んだ。
親子ゲンカは早速始まった。
「またピアスが増えているじゃない、親から貰った大事な身体に、どうして穴を開けたりするのよ!学校も行かないなら辞めて働きなさいよ!歩も幹汰もあんなにシッカリしているのに!あんただけよ!脛かじりが!大変な思いをしたのは、あんただけじゃないの!皆一緒なの」
歩達と比較された事に、大地が反発した。
「俺が頑張って無いとでも言うのか!」
「頑張って無いでしょう!学校も行かない!仕事もしない!どうしてもお金が欲しいなら働きなさい!あんたを遊ばせるお金なんて1円も無いわよ!」
自室のドアを閉めても、怒鳴り合う2人の声は聞こえた。
歩はベッドに潜り込み、耳を塞いだ。
昔は普通に仲の良い家族だったが。
今のバラバラの家族が、歩は悲しかったが誰の事も責める気は無かった。
誤った道を迷走している大地自身も、本当は辛い事を歩は察していたから。
それでも、それ以上に傷付きやすい年頃の歩には今の状況は辛かった。
やがて口論する声が聞こえなくなり、大地が家を出て行く音が聞こえた。
下に降りていくと、千春が疲れ切った様子でリビングで家計簿をつけていた。
「歩・・・・・煩くしちゃってゴメンネ?」
「ううん、今日の夕飯、美味しかったよ、作っておいてくれてありがとう!明日はコロッケが良いな」
「そう?じゃあ明日はコロッケを作っておくわね、学校は楽しい?」
「うん!」
直ぐに頷いて満たされた表情を作って笑って見せた。
「本当に困った子だわ・・・・大地も、幹汰程じゃなくても、もう少し普通に勉強が出来ていたら嫌にならず学校に行っていたのかしら」
そんな呟きをモヤモヤ不快な気持ちになりながら、けれど黙って聞いていた。
歩が反発心を高めている事に気付かず、千春は大きなため息をつきながら電卓を叩いた。
そして思い出したように歩を振り返った。
「そういえば最近、幸芽ちゃんと、どう?」
「・・・・どうって、なんで?」
「最近、あなた幸芽ちゃんの事、全然口にしなくなったから、もしかして連絡取り合ってないのかしら?と思ったから」
「ああ・・・・でも普通にメールとかやっているよ、誕生日にはプレゼントも送り合っているし、今日もメールで話をしたし」
「そうなの?どんな話したの?」
「大した話はしてないけどね、幸芽が遂にスマホにしたって」
「・・・・そう、歩もスマホにしたい?」
手を止め家計簿に改めて目を落とし、申し訳なさそうに歩の意思を確認した。
「別に、ガラケーでも特に、不便は感じないし」
「・・・・本当に?色々我慢させてない?」
「大丈夫!我慢なんてしてないから」
「ごめんね、生き残ったのが私で」
「何ソレ・・・・・!」
歩の怒りを纏った声音に千春は思わず自分の発言を後悔した。
「お母さんの代わりに、お父さんが助かれば良かったなんて一度も思った事無いよ、お母さんが無事で本当に良かったけど、勿論お父さんにも、お爺ちゃんにも、お婆ちゃんにも助かって欲しかったよ!皆にも・・・・・・二度と自分が代わりに死んでいれば良かったなんて言わないで!生きたかった皆に失礼だから!」
すぐに取り繕おうと腰を上げかけた千春を目の端に捉えながらも怒りを露わにして、千春をリビングに残し自室に駆け上がりベッドにもぐりこんだ。
あふれだす涙が枕を濡らした。
泣き疲れ、気づくと眠りに落ちて夢を見ていた。