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風が強くなり始めた。
ノイチとアイシャの家を包む森が大きく揺れ、雨が降り始めた。
母子はベッドの上で抱き合っていた。
「カミナリ鳴りそう。こわい」
アイシャがそう言った直後に外で雷鳴が響く。
アイシャは母の胸に顔を埋め、怯える。
「大丈夫よ」
ノイチは娘の黒い髪を撫でる。
「ママがいるでしょ」
自分の怯えが娘に伝わらないよう、気をつける。
ガラス窓を風がガンガンと叩く。いや、風ではなかった。
見ると少女の小さな拳がガンガンと、何度も窓を叩いているのだった。
嵐の音に混じって叫び声が聞こえて来る。
「ママ! 入れて!」
ノイチは必死で耳を塞いだ。
アイシャが小さな声で叫ぶ。
「ママ! お外に誰かいる!」
「いるわけないでしょ! こんな嵐なのよ!?」
朝にはすっかり晴れていた。
濡れた窓から明るい朝陽が射し、浅い眠りに苦しめられていた母子は起き上がる。
窓から外を見るとひどい有り様だった。木の葉がそこら中にひっつき、門は風で壊れていた。
外に出ないように、とマイキーから言われているのだった。
そうでなければすぐにでも表に出て掃除をしたいところなのに。今日は警察から出動依頼があっても断らなければならなかった。
ふと庭の片隅に膝を抱いて蹲っている少女の姿が目に映る。
雨に濡れ、風に打たれてくたびれたような偽物のアイシャが顔を上げ、こちらを恨めしそうに見た。
それが立ち上がったのを見ると慌てて踵を返し、ノイチはキッチンへ入った。
「お腹空いたでしょ? 今、ご飯にするからね」
「幼稚園は?」
アイシャがハムエッグを食べながら、つまらなそうに言う。
「幼稚園、行きたい」
「今日はだめなの。送迎バスも断ってるから」
「行きたーい」
「ママも今日はずっと家にいるから。我慢してね」
「あれっ?」
アイシャがすっとんきょうな声を上げた。
「あんた、誰?」
ノイチが急いで振り向くと、窓の外に偽物のアイシャがいて、手を窓に当ててこちらを覗き込んでいる。
アイシャは窓に駆け寄り、開けようとしていた。
「だめよ! アイシャ!」
ノイチは思わず壁を突き破ってしまいそうな勢いで飛び、娘を止めた。
「この子、びしょ濡れだよ? かわいそう。入れてあげようよ」
「その子は怖いのよ。絶対に入れちゃだめ!」
「えー。こわくないよ? だってあたしにそっくりだもん」
「窓は強化ガラスだから破れない。ほっとけば大丈夫よ」
「あたし、あの子と遊びたい」
「絶対にだめよ! 私が何とかするから!」
ノイチは娘に絶対に中にいるように言い置いて、外に出た。
昨夜の嵐にさらされてぼろぼろのアイシャが振り返り、あどけない目を向けて来た。
「アイシャ」
「ママ!」
偽物のアイシャが嬉しそうに駆けて来る。
「こっちへいらっしゃい」
表情を石膏のように固めてノイチは彼女を窓から見えない場所へと誘導する。
「ママ! 会いたかった!」
飛びついて来ようとするそのハグをかわすと、ノイチは指先を向けた。
もう外の掃除をしても大丈夫なように思えたが、念のため、本物のアイシャから目を離さないようにするため、家にずっといた。
アイシャに絵本を読んで聞かせ、パソコンでアニメを一緒に見た。
時間をもて余してパンケーキを焼いた。アイシャが手伝い、調理台を卵のしろみでべちゃべちゃにした。それを見ながら笑うと気晴らしになった。
ピンク色の風船型シェルターに閉じ込められて、偽物のアイシャはずっと壁を押したり引っ張ったりしながら、庭裏で声を上げていた。
「ママ! ママ!」
家の中にいてもノイチの耳にはそれがはっきりと聞こえた。
どれだけ感度を落としても聞こえて来た。
娘の形をしているロボットを壊すことは、やはり出来なかった。
アビーがそれを破壊した時のことを思い出す。衝撃波を浴びせればそれがただのガラクタの本性を現すことはわかっていた。
しかし、あり得ない考えが頭に浮かんでしまう。
もしも知らない間に、家の中のアイシャとこの子がすり替えられていたら……?
『もちろん、それなら……』
ノイチはパンケーキを食べる娘を見ながら、考える。
『この子はこうやってパンケーキを食べたりせずに、すぐに抱きついて来て、爆発するだろう』
しかしそう考えることこそが、教授の思う壺なのかもしれない。あの男が何を考えているのかわからない。マイキーが早く来てくれるのを願うしかなかった。
そこへちょうど電話がかかって来た。マイキーからだ。
『やあ、ノイチ。変わりはないかい?』
「マイキー……。早く来て」
『不安だろうけど夕方まで待ってほしい。もうすぐ2つとも完成するよ』
「偽物が現れたの」
『なんだって? それで?』
「外に閉じ込めてあるわ。風船シェルターの中に」
『バカな。外に出たのか?』
「大丈夫よ。アイシャは中にいたし、物音にも気をつけてたから」
『君が外に出ていた間にすり替えられているかもしれないぞ!? 忘れたのか、教授は天才だ。君の耳が感受できない妨害電波を作るぐらいやりかねない!』
そのアイシャもシェルターに閉じ込めておくようにアドバイスし、マイキーは電話を切った。
ノイチが動揺する視線を動かすと、パンケーキを食べる手を止めているその娘と目が合った。
「マイキーからなの?」
娘は元気のない声で聞いた。
「そうよ」
ノイチは頷くと、1つの考えが頭に浮かび、それを試した。
「マイキーのことは好き?」
娘の目をまっすぐ見ながら、聞く。
「マイキーは、こわい」
アイシャは目をそらし、答えた。
「パパとおんなじ匂いがするの」
ノイチは信じた。これは本当の自分の娘だ。
もしも「好き」などと答えようものなら直ちに風船シェルターで包まなければならないと思っていたが、予想通りの答えが返って来た。
教授のロボットがいくら見た目は信じられないほど娘にそっくりでも、中身までは似せられまい。
『そうよ。会話をすればいいのよ』
ノイチは心に希望の光を見た。
『私はアイシャのことを誰よりも知っているのよ、教授』
笑顔を浮かべ、ノイチは言った。
「マイキーは善い人なの。出来るだけ早くあなたもわかってね?」
笑顔でそう言うと、既に懐かしくなっている北の故郷の話を娘と始めた。
娘はすべて覚えていた。嫌なことも、辛かったことも。その隙間に訪れたほんの些細な幸せの瞬間のことも。
ノイチはなるべく楽しい思い出を選んで語り、娘と共有して来た時間をいとおしんだ。