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朝陽が山の上の一軒家を明るく照らしている。ノイチは娘と手を繋ぎ、もう1人背の低い黒人女性と並んで待っていた。
大きな黄色いバスがやって来た。幼稚園の送迎バスだ。
開いた扉に小さなアイシャが飛び込むと、運転手のおじさんが笑顔を見せた。
「やあ、アイシャ。今日からまた通えるんだね?」
アイシャはにっこりと会釈すると、はきはきとした口調で言った。
「そうよ、おじさん。あたしクナンを乗り越えたのよ」
「苦難の意味がわかってるのかしら」
後ろでノイチがくすっと笑う。
「それじゃ、お願いね、ベン」
と、運転手に声を掛ける。
「いつも遠いところから出発させてしまって悪いわね」
バスの中にはまだ誰も園児は乗っていない。いつものことだ。山の上に住んでいるアイシャをまず一番に乗せてから皆のところを回るのだった。
「構いませんよ、奥さん。天気がいい日は眺めもよくて、朝から気分がよくなれますんでね。それじゃ」
「あ、ベン」
ノイチはシフトレバーを入れようとした運転手を引き止め、隣の黒人女性の背中に手を当てる。
「彼女も一緒に乗せて行ってほしいの。幼稚園とは話をしてあるわ」
「聞いてますよ。アイシャのボディーガード役のロボットですよね」
「ええ。念のためなのよ」
ノイチはすまなさそうに笑顔で肩をすくめた。
「私に恨みを持っている相手に住所と、娘がいることを知られてしまっただけよ。私が心配だから彼女を側に置かせてほしいだけ」
「わかりますよ」
運転手は微笑む。
「それじゃ、行って来ますんで」
バスの扉が閉まる時、ノイチはもう一度アイシャをサングラス越しに確認した。爆発物の反応はない。
「お願いね、アビー」
ノイチは黒人女性に声を掛けた。
人間にしか見えない黒人女性型のロボットは白い歯を見せて笑った顔を表現すると、自然な発音で言った。
「お任せください。当プログラムは何度も試行を重ねられ、完璧なものとなりました。万一の場合、カメラを通じてユーザーへ報告を……」
扉が閉まり、大きな黄色いバスは動き出した。
ノイチは心配そうにバスを見送ると、自分の車に乗り込み、反対方向へ走り出した。
ノイチは研究室でパソコンのモニターばかり見ていた。
そこにはリアルタイムで幼稚園内の様子が映っている。アイシャが友達とmonkey-pirate-robot-ninja-zombieの複雑なジャンケンをして遊んでいるのをノイチは見つめる。
「ワン、ツー、スリー……」
「キーーーアーー!」
ふざけてアイシャが走り出すと、カメラもそれを追う。
黒人女性型ロボットのアビーが眼球に内蔵されたカメラで映像を送り届けているのだ。彼女はきちんと仕事をしてくれている。ノイチは安心したように画面をやりかけの仕事に戻す。
しかし気になってしまい、すぐにまた幼稚園の映像をアップにする。
後ろから見ていた髭の研究員が見かねて声を掛けた。
「ノイチ……。気持ちはわかる。でも、仕事だ」
「ごめんなさい、コーディー」
ノイチは申し訳なさそうに映像を画面の端に小さく追いやった。
「集中するわ」
後ろを通りかかったマイキーが彼女の手に肩を置いた。
「安心して、ノイチ。僕の作ったアビーは何があってもアイシャを守る。危険があればシェルターに変形して対象を保護する機能もついている」
「ねえ、マイキー……。私、町中に引っ越そうと思うのよ」
ノイチは手で顔を覆いながら、言った。
「それは駄目だ」
マイキーが真剣な顔になる。
「町中では雑音が多すぎて、君の耳がせっかくの機能を果たさない。静かな山の上だからこそ安全なんじゃないか」
「ゆうべ、不安で眠れなかったのよ」
ノイチは頭を抱えた。
「誰かに側にいてほしいの。誰かの気配が側にないと怖いのよ」
マイキーは黙り込み、困ったように頭を掻くと、照れ臭そうに口を開いた。
「……僕でよければ、今夜から側にいよう」
「本当に?」
ノイチは顔を上げる。嬉しそうに笑っていた。
「もちろん……君がよければ、だけどね」
「悪いわけがないわ! お願いよ、是非!」
ノイチは彼の手を握り、哀願した。
彼が連日泊まりにやって来てくれることを、その表情は心から切望していた。
ノイチは研究室を一番先に退出する契約になっていた。
彼女はロボット工学の研究員であるが、彼女自身が高性能なサイボーグであることから、どちらかと言えば貴重な研究対象となっていた。
人間部分と機械部分の適合状態等のデータを提供する研究体としての仕事さえすれば、実質彼女の仕事は終わりである。あとは誰にでも出来る雑用のようなパソコン仕事と、ロボット工学の知識を彼女が学習するための時間となるが、それについては一時間もあれば充分であり、それ以上の勉強は他の研究員の邪魔ともなるので控えるべきだった。
ノイチには研究員の他にも母としての、そして町を守るための仕事もあった。
サイボーグの力を町の治安のために使うことを警察から許可されているのである。
そのためにもいつでも出動出来るよう、体を待機させておく必要があった。
ノイチが自動車で通勤するのはカムフラージュのためである。あるいは誰かを乗せて走る必要があるためだ。
セスナ機の速さで走れる彼女に自動車は必要ない。その走りは1歩で80mを飛べるので、空を飛んでいると言っても間違いではなかった。
自宅の車庫に車を入れると、ノイチはすぐに家に入り、片付けと掃除を始めた。
ベッドのシーツを替え、念入りに皺を伸ばしていると、3キロ先から幼稚園の送迎バスが帰って来る音を聞きつけた。
急いでアイシャにおやつのクッキーを用意すると、外へ出ようとする。
思い出して「あ」と小さく呟く。テーブルの上に外していたサングラスを手に取ると、改めて外へ出た。
ちょうどバスの大きな顔が見えて来たところだった。
運転手のベンの顔が見えて来た。ノイチは笑顔で手を振った。
後ろでアビーが立ち上がるのが見えた。アイシャが運転席のすぐ後ろまで駆けて来て、ぴょんぴょん跳び跳ねながら手を振り返して来る。
ピー…… ピー……
サングラスに内蔵されている爆発物感知のブザーが小さく鳴り始めた。
バスの扉が開き、アイシャが駆け下りて来る。
ピー、ピー、ピーピーピピピピ
激しくブザーが爆発物の存在を報らせ、アイシャの胸の部分にオレンジ色の点が浮き出る。
ノイチは3歩後退って息を飲むと、右手の人差し指を前に出し、ピンク色の風船型シェルターを、駆け寄って来る愛娘めがけて発射した。
バスは走り去り、降りて来ていたアビーはそこに立って無表情で首をひねっている。ピンク色の風船に包まれたアイシャはびっくりした顔で自分の置かれた状況をきょろきょろと確認していた。
「……ママ?」
風船の中から不思議そうにこちらを見ているアイシャに、ノイチは衝撃波を発する腕を伸ばす。
マイキーが今日の仕事の追い込みにかかっていると、彼のスマートフォンが鳴った。
「どうしたんだい、ノイチ?」
彼が電話を取るなりそう言うと、研究室中に響くほどの声で、ノイチの泣き喚く声が言った。
『出来ないの!』
「……ノイチ?」
マイキーが眉をひそめて意味を尋ねる。
『出来ないの! だってあの子……アイシャなんだもの! 本物のアイシャはどこなの!?』
「ノイチ!」
マイキーはスマートフォンを握り締め、叫ぶように言った。
「すぐに行く!」