35 その事象、奇跡につき――
バルディークは人智を超えた力を行使する許可を願う祈りを捧ぐ。
『神よ、高々たる天に坐す我らが陽光神よ。我は抗う者に御身の守護を願う者。傷付きながらも立ち上がる者に活力を。強者に立ち向かう者に奮い立つ勇気を。背に守りし者を隠す者に幸運を。我が身を糧に非力なる者に御身の輝きを貸し与え給う。御身の教えにかくあれかし』
バルディークが祝詞を終えれば、レイラは祝福に満ちた柔らかな光りに包まれる。
そして全身に深々と刻まれた戦闘の証拠は見る見るうちに癒えていく。皮膚が裂け、溢れ出ていた血が止まる。
手足に溜まっていた疲労が抜けていき、逆に活力が満ちていく。
傷が完全に塞がる事こそ無かったが、しっかりとした立ち姿となったレイラを見て、実情をしらなかければ吸血鬼と激戦を繰り広げたなど信じる者はいないだろう。
簡素な禊と多少の魔力を捧げるだけでは成せない、厳しい修行の末に身に着けた敬虔な信心と真摯な祈り。
そして人が神に縋るだけの家畜に成り下がることが無いよう、神に課せられた対価を必要とする高位の奇跡。
正当な手順を踏めば金貨が何枚あっても請願できるか分からない奇跡、それを行ったバルディークに言葉を失うレイラ。
「慈母神の奇跡と違って傷を全て癒やすことはできませんが、痛みを和らげて治癒力を高めています。残念ながら身体に働きかける魔法薬の副作用などは癒えませんが、二、三日もあれば痕を残さず癒えますよ」
「あの、バルディーク司祭……」
「皆まで言わなくて大丈夫ですよ。それに私は陽光神に誓いを立てていましてね、それを守り続ける限り奇跡の請願に支払う代償は少ないのです」
突き返すこともできない物を贈られては今更断ることも出来ず、他の人には内緒ですよと茶目っ気のある笑みを前にレイラが言えることはなかった。
レイラへの〝御礼〟が済んだバルディークは今度はヴィクトールへ向き直る。
「貴方へは……そうですね、その櫃の証明書を認ましょう。幾ら〝妖精の棲家〟とは言え、その見た目では要らぬ誤解を生みますからな」
何気なくバルディークが口にした言葉にヴィクトールはギョっとする。
今まで多くの人と接してきたが、誰一人として自分が担いでいた〝エルダンシアの柩〟の正体に気付いたものなどいなかったからだ。
「……よく、気付かれましたネ」
「昔、聴罪僧として方々を旅していた頃に妖精語を学ぶ機会がありましてな。その櫃に刻まれた文字を読めただけですよ」
博識だと褒めるヴィクトールに嫌味に成らない謙遜を見せるバルディーク。
そして差し出された手を見てただの握手だと思ってなんの気無しに手を握り返すヴィクトールだったが、手を掴まれた瞬間に思いもよらぬ力強さで引き寄せられる。
「貴方の正体を探る気はありません。無辜の人々に仇なさぬ限りは、ですが……」
「……承知した」
引き剥がそうとしてもピクりともしない手。
柔和な笑みを称える口元に反して笑っていない目元に顔を引き攣らせながらもヴィクトールが頷けば、バルディークは剣呑な瞳を消し去り破顔する。
「さて、お二人共お疲れでしょう?彼らへの説明は私がしますので、今は家に戻ってゆっくりと身体を休めることをお勧め致しますよ」
背筋を凍らせているヴィクトールを解放し、振り返ったバルディークの視線の先から馬蹄に似た重々しい足音が響いてきていた。
恐らく領主隷下の騎士達がやって来たのだろう。随分と遅いお出ましにも思えるが、まだウィリアムが暴れ始めてから四半刻と経っていないのだ。
それだけの時間で人数を集め、武装も整えて派遣されたことを考えれば十分早いほうだろう。
あと数分もしない内に辿り着くだろう騎士達に捕まれば、事情聴取だなんだと数時間以上拘束されることは想像に難くない。
そんな面倒事も一手に請け負ってくれる事にも気掛かりを覚えなくは無かったが、仮に〝お礼〟を請求されるようなことがあったとしても、既に高位の奇跡の請願という大きな物を受け取ってしまっている以上は一つ二つ増えたところで変わらない。
そう判断したレイラは素直に甘えることにし、ヴィクトールを連れてその場を辞した。
「……いやはやなんとも、人って言うのは誰も彼も油断ならないネ」
騎兵に姿を見られれば面倒だと合意し、そそくさとその場を離れてバルディークの姿が見えなくなれば、堪らずと言ったふうに溜め息交じりにヴィクトールは言った。
胡乱な目を向けるレイラに何でもないと言い、二人は無言で〝羊の踊る丘亭〟への帰路につく。
「随分と大きな騒ぎになってるわね」
「まぁ、アレだけ派手に暴れればさもありなんと言う気もするけどネ」
「……この中を抜けて行くのは億劫ね。裏通りを行きましょうか」
戦いの場から離れ、一つの区画を越えた頃には衛兵や住民の怒号の応酬が方方から聞こえ、二区画目に差し掛かる頃には大通りは灯りを手にした住民たちで溢れ返っていた。
裏道に入ってからも普段なら人っ子一人居ない筈の道で時折人とすれ違うが、明らかに堅気に見えない格好のレイラとヴィクトールを見て顔を背けて脇を抜けて行く。
そんな人々に時折視線を送りながら、ヴィクトールは思い出したようにレイラを見る。
「なぁ、レイラ。一つ提案があるんだけど良いかネ?」
「なに?」
「……このまま私達で組まないかネ?」
ヴィクトールの提案にレイラは無言でヴィクトールを見返した。
まるで続きを話してみろと言わんばかりの瞳に、ヴィクトールは前へ向き直りながら言葉を続ける事にした。
「お互い、他人には言えない秘密を共有しているし、今日一緒に戦ってみて相性もそれほど悪くなかったと思うんだよネ」
「……それで?」
「実を言うと、私はあまり魔法を扱える人族と相性が良くなくてネ。妖精とは言え、陰の気を持つ妻たちを連れていると他の精霊が寄り付かなくて魔法の行使に支障が出るんだヨ」
「……」
「その点、君自身が陰の気配を放っているから妻たちが居ても支障はないし、何より妻たちに普通に接せられる。妻たちも君の事を気に入っているから今日だけと言うのが惜しくてネ」
更にヴィクトールは組むにあたっての条件を提示する。
組むと言っても常に一党で行動するのではなく、お互いに気が向いた時や頭数が必要と成ったときに一党を形成するという緩いもの。
一党を組んで依頼を受けた時の報酬は物資調達に掛かった費用を引いた額を等分すること。
かなりの好条件と言っても良いだろう。
レイラが今まで一党を組まなかったのは自身の欲求を満たすにあたり余人の目が邪魔であったのもあるが、レイラが魔法――――とりわけ生活魔法すら使えないことも大きく影響していた。
生活魔法が一般的となっているこの世界で組まれる旅程は水源を考慮しない物となっている。
そのため、レイラが居ることでその一党の面子はレイラの分の作業を負担しなければならない場面が多々出てくる。
些細なことだがその些細な事が積み重なれば、いずれ無視し得ない不和の種と成りかねない。
その上、戦闘でも魔法を使うことを前提に戦術を組んでいる事が多い冒険者達では、魔法が扱えないレイラは扱いに困るだろう。
臨時の一党ならば兎も角、恒久的な一党を組むにはレイラは不適な人材なのだ。
その点、ヴィクトールは魔法を扱えないレイラでも問題ない。
それどころか魔法を扱えないことが利点ともなり得るのだから、旅程での不便など目を瞑ってもあまりあるだろう。
また既にヴィクトールにはレイラの本性を見せており、気兼ねなく欲を満たしに行けるとなればこれ以上の人材を探すのは不可能と考えても過言ではない。
だがそれでも、レイラの答えは決まっていた。
「お断りするわ」
その言葉を聞いたとき、ヴィクトールの胡散臭い笑みが固まった。
かなりの好条件を提示したはずだがと言う思いがあったからだが、隣を歩くレイラの表情から真意を読み取ることはできなかった。
「理由を聞いても?」
「あぁ、先に言っておくけれど別に貴方の出した条件が気に食わない訳でも、もっと私に有利な条件を引き出すために言ってるわけでもないの。それどころか私としても有り難い申し出だったわ」
「なら、何故かネ?」
「だって貴方、わざわざこの大陸に来た本当の理由を話していないでしょう?」
まるで明日の朝食は何が良いか尋ねるような気軽さで発せられた言葉に今度はヴィクトールの足が止まる。
同じように足を止めるレイラの目には雄弁に語る瞳が見えたのだろう。ヴィクトールが言葉を紡ぐ前に人差し指を立て、そう考えるに至った理由は二つあると言った。
「一つは貴方が今朝方に特殊な魔石を求めて来たと言ったけど、ただ魔石を求めてるだけなら他大陸でも別に手に入らないわけではないでしょう? 現に貴方が見せてくれた魔石はこの大陸以外で手に入れたものでしょうしね」
次に中指を立てるレイラの表情は変わらない。
ただ平然と、どうでもいい事のように。
「二つ目は貴方が冒険者である私と組む必要がないこと。貴方は私と組む方が都合が良いと言ったけれど、別に私と組まなくても問題はないわよね。貴方の奥方の特性は確かに冒険者だったら不都合でしょうけど、領主や代官お抱え、傭兵団の専属なら幾らでもやりようはあるわ。
それどころかお抱えや専属になれれば彼らの持つ伝を使えるようになるでしょうし、冒険者になるより確実に特殊な性質を持つ魔石を手に入れられるでしょうね。出自の問題はあるでしょうけど、絶対数の少ない魔術師となれば引く手数多でしょう?」
滔々と語られる理由にヴィクトールは反論しなかった。実際にレイラの言うことは正しかったのだから。
「他にもあるけど、大凡の理由はこんな所ね」
「……一つ聞きたいんだけど、君は私の本来の目的を聞いてどうするんだネ?」
「別に貴方の目的が知りたい訳でもないし興味もないけれど、それを知らない限り貴方と組むリスクとリターンを正しく天秤に掛けられないでしょ?もし貴方が大罪に手を染めるようなことを目的として、私の首に知らぬ間に荒縄を巻かれていたなんて、そんなつまらない終わり方で短い人生を終わりにしたくないだけよ」
「………」
肩を竦める時も、身体が冷えてきたと言って歩き出す時もレイラの表情は変わらない。
何を考えているのかも読み取れない顔付きのまま静かに前を歩いていくレイラの後ろ姿を見ながらヴィクトールは必死に考える。
レイラの完璧に働く表情筋に隠された真意は何か。
本来の目的を聞き出してどうするのか。
それで得られるレイラの益は何か。
ぐるぐると回る出口の見えない迷路のような思考に陥り掛けたヴィクトール。
だが直ぐに思考を占めていた考えを切り捨て、考えるだけ無駄だと割り切った。
何故ならレイラは自身の欲望に関すること以外にはほぼ無関心なのだ。
親しい人間をも騙し通せるだけの演技力が有りながら、本人は法を遵守し、交わした約束事は破らない。
一見すると不可思議で支離滅裂な行動にも見えるが、それらは全て一つのことに集約するのだ。
自身の欲望を満たせるか、否か。
それだけなのだ。
更にレイラは欲望の為ならどんな事でもしてみせるくせに、無関係であれば無用な労は極端に嫌う。例えば、本性を知る相手には正体を取り繕わないほどに。
ならばと振り返ってみれば、レイラの真意も簡単に見えてくる。
レイラの表情は心底どうでも良く本当に興味がないからであり、レイラが言った言葉は全てただ提案を受けるか受けないかを天秤に架ける為なのだと。
ただし、レイラの中にある天秤は一つではないのも理解していた。
もう一つの隠された天秤にはヴィクトールを仲間に引き入れた利点や敵対するのに要する労力と、ヴィクトールが見せる最期の〝彩〟を見たいという欲求が秤に載せられて揺れていることだろう。
なんとも危険な天秤ではあったが、同時にレイラがヴィクトールを有用で有益だと判断し、敵対するのが面倒なほどの信頼をレイラ以外の者達から得られればレイラが敵対することはないと言える。
それが確信できた以上、ヴィクトールは覚悟を決めた。齢一六の少女が見せた尋常ならざる才覚、そして短い間隔で吸血鬼に関連した事件に遭遇している豪運に賭けたと言っても良い。
「……確かに君の言うとおり、魔石を求めているのは一つの目的の為の過程でしかないヨ」
「それで?」
スッとレイラの瞳が細められる。
心底興味がないと言わんばかりの表情は消え、代わりに全てを見透かそうとする澄んだ瞳が向けられた。
「私はネ、レイラ。娘たちを蘇らせたいんだヨ」
ヴィクトールの言葉を聞いたレイラは珍しく好奇心で瞳を彩った。




