58 その少年、決意につき――
淡い燐光が夜闇を払う空間から離れ、もと来た道の途中で足を止めたレイラは傍にある木へと視線を向ける。
「コレでご満足頂けたかしら?」
木の陰に立っていたヴァレラルは冷めた目を向けてくるレイラに頷き返す。
『その事で貴様に頼みたい事がある』
昼間、癒者が営む庵を訪ねたのは何もレイラの様態を確認するためだけではなかった。
あの夜、多くの犠牲を払って生き延びたカリストリスは散っていった命が無為に終わらぬようにと表舞台へ立つことを決めた。
しかし政治の場に立つと決め、第二王子派の旗印となったものの、カリストリスが避けようとしていた事がなくなった訳ではない。
兄である第一王子との政争――――そしてそれに伴って流れる夥しい量の血。
それはカリストリスの杞憂ではなく、ここ数日だけでも数え切れない命が散っていった。
粛清、暗殺、自死など死に至る道筋は違えど全ての因果は次期国王への道に集約される。
互いの陣営で殺って殺られてを繰り返し、その場に居合わせたからと殺された者も少なくない。
事実、事の発端を作ったからという理由でレイラ達に放たれた刺客も一人や二人ではない。
体面とレイラとの契約の為に本邸から急遽寄越されたカリファ達によって未然に防いでいるものの、然程深手を負っていないヴィクトールが庵に詰めていたのは万全に動けぬレイラを守る為の保険だった。
そんな現状にカリストリスが悩まぬ筈もなく、決心が変わる事はなくとも傍から見ていても分かる程に揺らいでいた。
なんとかカリストリスの背を押そうとあの夜講堂にいた者達も声を掛けたが、所詮は今の状況を望んでカリストリスを担ぎ上げた者たちの言葉であり、カリストリスに響く事はなかった。
一二歳の子には酷だとは思いつつ、それでもなんとかしようと考えていたヴァレラルだったが、そんな折にカリストリスの方から相談があった。
――――あの冒険者と話をさせて欲しい、と。
特に派閥などの柵もなく、また平民故にいくら力があれど政争に巻き込まれる側のレイラに話を聞きたいと思うのも分かる。
それにレイラは例え拳が砕けていようと、腕を切り落とす寸前に陥ろうと前に進み続ける姿を見せており、歩みが止まりそうになるカリストリスが憧れに近い感情を抱くのも理解できる。
しかしヴァレラルには懸念があった。
レイラにしろ、ヴィクトールにしろ、あの冒険者達は普通ではないと今のヴァレラルには理解できていたのだ。
致命傷に近い傷を負い、腕の骨が砕けていれば普通ならば動きに支障をきたすのだ。
どんなに痛みに強くとも激痛で動きは鈍り、僅かに動かす事すら躊躇うのだ。例え戦闘で興奮していたとしても。
にも関わらず、骨の砕けた拳を迷いなく拳打に用いるなど、常軌を逸していると言わずして何と言う。
ヴィクトールもヴィクトールだ。
水晶の壁に遮られてくぐもっていたが、悲鳴のような音を発する魔術を躊躇いなく使う精神性。
更に終わったからと水晶壁を解除したヴァレラル達が見たのは、悲鳴と懇願の声を上げながら一人でに四肢を引き千切られ、全身を捩じ切られて絶命するメローナの姿だった。
いくら自分達の命を狙い、目の前で同胞を屠った相手であろうと、同情してしまうような惨たらしい方法で殺す魔術師をただの冒険者と見なせるだろうか。
挙げ句、壮絶な光景に腰が引けていた者たちの態度が理解できぬと首を傾げるような手合の仲間に会わせて良いものかと、ヴァレラルは大いに悩んだ。
だが結局、相談をしたセララリルの後押しやそれ以外に手がないが故、まだ理知的に見えるレイラと合わせる事にした。
そして結果はヴァレラルの懸念に反して良好そうだった。
少なくとも俯いていて表情までは見えずとも、どこかカリストリスの纏う気配が変わっているように見えるのだから。
ヴァレラルは影の中に潜んでいたカリファに合図を出し、そっと手渡された木札をレイラへと差し出した。
「母上から今回の報酬として金貨五枚、魔人や貴様が仕留めた狼鬼の功績等を含めた追加報酬が金貨二五枚、更に貴様が事件の際に見た物を口外しない為の金貨が一〇枚。貴様とあの術師、ヴィクトールにそれぞれ支払うそうだ」
ヴァレラルが渡したものは王国を含めた複数の国、そして数多くある商業組合が共同で発行している為替手形。
比重が重く、大量に持ち運ぶ事が難しい金貨の代わりに使われるこの為替手形は国内だけでなく、連盟に連ねる国と商会に持ち寄れば金と同様に扱えるもの。
総額で金貨四〇枚分の価値と等価の木札をつまらなそうに弄ぶレイラの態度はまったく興味のないものへ向けられたもののソレ。
母親のセララリルから金銭への執着はないと聞かされていたが、それを肯定するような態度にヴァレラルは扱いにくいと愚痴を零していた母親の姿を思い出し、浮かびそうになる苦笑をひた隠す。
「それとコレは今回私に協力してくれた礼だ、受け取れ」
最後にレイラへと渡したのは壊れた武具を新調する際に掛かる費用、その全てをヴァレラルが肩代わりすると言うもの。
一線級の冒険者が誂える武具となれば、生中な金額にはならないだろう。平民では到底買えず、貴族でも躊躇うような金額になる事もあり得る。
それはヴァレラルとて変わらず、当主でもなく、辺境伯の地位を継ぐ兄とも違ってヴァレラルが自由に使える予算は少ないのだ。
金欠の心配をせねばならぬのは業腹だが、しかしやらねばならぬのだから頭が痛い。
必要だったとは言え、契約外の働きをレイラに求め、挙げ句弱みとなる事を頼むのならば、敵に回さぬように礼節を尽くしておけとセララリルに忠告されたからだ。
自分の尻は自分で拭えと言う言葉と共に。
いっそヴァレラルも今の混乱に乗じてレイラ暗殺に加担してしまおうか等と、出来もしない頭の悪い考えが浮かびそうになる。
「……さっきの話、あれは本当か?」
中身を検分した証書をどう元に戻そうかと思案しているレイラを見て、カリファに手伝ってやれと顎で示しつつ聞けば、レイラは含みのある笑みを浮かべる。
「さぁ、どうでしょうね」
「勿体振ることでもあるまいに」
「勿体ぶっているつもりはないわ。ただ、乙女には人に言えない秘密が多いものよ」
ついさっきまでカリストリスに憂いた表情を見せていた人物とは思えぬ妖艶な微笑を浮かべ、潤んだ唇に人差し指を当てるレイラ。
レイラの実力を知らぬ者が見れば見惚れるほど様になっているが、レイラの戦いぶりを直に見たヴァレラルの背筋に怖気が走る。
人が浮かべる笑みとは、本来威嚇の表情であると語ったのは誰であろうか。
たった笑み一つでヴァレラルの口を封じたレイラは夜風で風邪を引かぬようにとだけ残し、そそくさと庵へと戻っていった。
「ふぅ。まさか笑み一つに怯むとは……」
「ヴァレラル様、最後の問いは余り宜しくはなかったかと。例え片腕が使えずとも、あのレイラ殿を相手にするのは骨が折れるのですが」
「……分かっている。済まなかった」
レイラの姿が完全に夜闇へ紛れるまで見送り、十分に時間を取ってからヴァレラルは肺に詰めていた息を吐き出せば、隣に立つカリファから言葉以上の抗議の気配がひしひしと伝わってくる。
コレは後でセララリルから直接説教されるだろうなとげんなりしつつ、切り替えるように咳払いをする。
「それより、殿下の周囲は大丈夫か?」
「……はい。現状、王宮でカリストリス殿下の不在に気付いた者はなく、周囲も完全に掌握しておりますので問題ないと思われます」
「そうか。とはいえ、長引けば勘づく者もいるだろうな」
首肯するカリファに合図を送り、影に潜ませたヴァレラルはその足でカリストリスの元へと向かう。
「……殿下、答えは出ましたか?」
声を掛ければ、レイラと問答をしてからずっと俯いて考え込んでいたカリストリスの表情が顕になった。
「あぁ、お陰でなんとなく答えが分かったような気がする」
「……左様ですか。であれば、喧しい王宮雀共を欺いたかいがあったというものです」
学院に身分を偽ったカリストリスが入学した時よりずっと傍で見てきたヴァレラルだからこそ分かる。
カリストリスは迷いを捨て、どんな道であろうと進み続ける覚悟を決めた者の目に変わっている。
「ヴァレラル、余は王を目指す」
「はい」
「例えどれ程の血が流れようと、例え兄や父を蹴落とす事になろうと、もう躊躇うつもりはない。余の為に散っていった者達が呆れぬように、輝かしい未来を余に託してくれた者達が後悔せぬように。何より、何もしなかった事を余自身が悔いぬように」
真っ直ぐとヴァレラルを見つめ、淀みなく語る姿は頼りなく見えた一二の少年ではなく、正しく王位を目指す精悍な青年の貌。
これならば頼りないと嘲り、あるいは不安視していた貴族も減るだろう。逆にカリストリスが秘めていた王の資質に気付き、膝を着く者も出てこよう。
「ただ余は政務から離れすぎた。再び責務を果たせるようになる為にも余を支えて欲しい」
「言われるまでもなく、全霊を賭して貴方様にお仕え致します」
膝を付き、頭を垂れるヴァレラル。
この時、父や母の思惑など関係なく、ヴァレラルはヴァレラルの意思でカリストリスの元に付き、一生をカリストリスへ捧げる誓いを改めて自分に課した。
それが心優しいカリストリスを茨の道に向けて背を押した者としての責務だからだ。
「では、王宮へと戻りましょうか。殿下が許可なく出歩いていたと露見すれば事ですし、なにより殿下には今まで溜め込んでいた仕事が山とありますからね」
「……待て。時間も時間だし、明日からでは駄目か?」
「しっかりと殿下が責務を果たすように支えるのが私の役目ですので」
ヴァレラルの言葉に溜まっているだろう仕事の量を思い浮かべ、カリストリスの姿が見る間に煤けていく。
その情けない姿に思わずくすりと笑みを零せば、それに気付いたカリストリスがからかわれていた事に気付き、気付かれた事に気付いて逃げ出すヴァレラルの背を追いかける。
覚悟を決め、王位を目指す者に相応しい顔付きになろうとカリストリスは自分よりも歳下の少年である。
王位へ至る道程は辛く厳しく、果てしないものになるだろうが、常に気を張っていては続く物も続かなくなる。
ならばせめて今ぐらいは、肩の力を抜いても罰は当たるまい。
それに適度に一息着けるようにするのも、忠義を捧げる臣下の役目であろう。
そうして二人主君と臣下でありながら、友人のように巫山戯合いながら待たせている獣車へと向かうだった。
それはそれとして、王宮に戻ったヴァレラルはレイラとの対話の為に溜まっていた仕事を今日中に終わらせるようにカリストリスへ迫るのだった。




