魅了された令嬢が婚約者に助けられる話
「離してっ! 離してよっ!!」
わたしは男の腕から抜け出そうと暴れた。
「いやっ! 離して! この人さらい! 誰か助けてっ! ジョナス様……っ!!」
大好きな人の名前を叫ぶ。
だけど彼はここにはいない。
この馬車の中にいるのは、わたしと恐ろしい人さらいだけだ。
人さらいの胸を力いっぱい叩く。わたしが使える風魔法の中でもっとも強い攻撃魔法を唱える。
でも、馬車は壊れるどころか、止まる気配もない。馬の駆ける音と、車輪が勢いよく回っていく響きだけが、わたしの耳に届いている。
この恐ろしい男の闇魔法は、わたしの風魔法をはるかに上回っていた。
闇の精霊に愛された男だと、誰かがいっていた。
この男は、夜中にわたしの屋敷に押しかけて、寝台で眠っていたわたしを無理やり攫ってきたのだ。
お父様もお母様も止められなかった。こんなに恐ろしい男だもの、逆らったらきっと殺されてしまう。
そうとわかりながらも、わたしは抵抗せずにはいられなかった。
「あなたなんか大っ嫌いよ! わたしがお慕いしているのはジョナス様だけだもの! あの方がきっとあなたを倒すわ! そしてわたしを救ってくださるの! いやよ、やめて、触らないで、この化け物公爵……っ!!」
どれほど罵っても、男は顔色一つ変えない。
噂通り、この男に人の心なんて無いにちがいない。
わたしの目から涙がこぼれた。馬車は走り続けている。小窓からのぞく景色は、もうわたしの知らない場所だ。わたしの屋敷からは、ずっとずっと遠くなってしまったんだろう。
涙がぼろぼろと頬をつたう。
人さらいは、初めて、嫌そうに眉をひそめた。
わたしは構わず泣いた。人さらいにどう思われたって、怒りを買って殺されたって構うものか。だってわたしはジョナス様のものだ。あの方に身も心も捧げている。ほかの男の手で汚されるなら死んだほうがましだ。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。明日も学園で、いつもと同じようにジョナス様にお会いできるはずだったのに。わたしがさらわれたことに、ジョナス様は気づいてくださるだろうか。助けに来てくださるだろうか。ジョナス様はいつも、婚約者でもないわたしを、それでも愛おしむ眼差しで見つめてくださっていた。あの方の傍にいられるだけで、わたしは幸せだったのに。
涙で歪む視界の中に、大きな大きな門が見えた。
あぁ、王都を出てしまったんだ ─── 。
絶望に似た心地で、そう思ったときだった。
ふつりと、どこかで、なにかが切れる音がした。
それはまるで、呪縛の終わりにも似ていた。
するすると、波が去るように、全身から熱が引いていく。
急に、視力が良くなったようだった。頭にかかっていた霧が晴れて、世界が鮮やかに見える。
わたしは、ぱちり、ぱちりと瞬いた。
目の前にいるのは、公爵であり、希少な闇魔法の使い手であり、そして、八年も前からずっと ─── わたしの婚約者である人だ。
「…………うそ…………」
なに、なんなの、これは?
うそだ。うそでしょう。だれか夢だといって。悪夢を見ていたのだといって! そんな、わたし、なんてことを……っ!
「ライラ」
わたしの異変に気づいたんだろう。
彼は、ふっと優しい目をして、わたしを見た。
「私のことが、わかるかい?」
「 ─── セシル様っ!!」
わたしは、がばりと、身体を離した。
今度は、セシル様も止めなかった。
わたしは、ぶんっと勢いよく頭を下げた。できることなら地面に頭をこすりつけたい。わたしは、今、なんていったの? なにをしていたの!?
「申し訳ございません……っ! 本当に、本当に、ごめんなさい!!」
「謝らなくていいから、頭を上げてくれ。君のせいじゃない」
わたしは頭を下げたまま、ぶんぶんと首を横に振った。
たとえ操られていたって、わたしの口が吐いた悪意だ。化け物公爵と罵った。この人に、心がないなんて思った。おぞましさに吐き気がする。信じられない。
わたしはおかしくなっていた。そうだ、本当におかしくなっていたんだ。
ジョナス様? あのジョナスを、あの忌まわしい男を、わたしは何て呼んでいたのだろう。お慕いしている? きっと助けてくださる? 身も心も捧げている? わたしを魔法で支配し、操り人形にしたあの悪魔を!?
……でも、操られていたからって、許されることじゃない。わたしはセシル様になんていった? 化け物公爵。許せない。わたしを許せない。セシル様が、今までどれほど、心無い言葉を投げつけられて苦しんできたか知っているのに、わたしは。わたしは……っ!
今すぐ舌を噛み切って死んでしまいたい。あまりにもひどい暴言だ。セシル様が許してくれても、わたしはわたしが許せない。
「このまま修道院にいきます……。一生を神に捧げます」
震える声でそう誓えば、セシル様は憂いに満ちた口調でいった。
「では、私は、毎日修道院を訪ねよう」
「……はい?」
思わず顔を上げてしまう。
セシル様は、その憂鬱な横顔だけで数多の乙女の心臓を止める方だ。
実際、わたしの侍女たちはよく奇声を上げて倒れている。その美しさと妖しさ、艶やかさと儚さは、人ではなく精霊のそれだといわれている。
でも、わたしは、知っている。
セシル様がこういう顔をするときは、たいがいろくでもないことをおっしゃるのだ。
「君がどこの修道院へ入ろうと、毎朝毎晩欠かさず訪ねていくと約束しよう。それでは仕事が回らないと、宰相殿にお叱りを受けるだろうが、私にとっては、愛しい婚約者殿が最優先だ。職務放棄もやむを得ない」
「いや、だめです、やめてください。というか普通、修道院に行くときは、婚約は破棄されるものかと」
セシル様のあんまりな発言に、先ほどまでの申し訳なさも吹き飛んで、真面目に指摘してしまう。
するとセシル様は、いよいよ陰鬱なため息をこぼされた。
その嘆きに満ちた吐息は、茨でさえ胸を痛めて自ら棘を落としそうなほどだ。
だけどごく一部の身近な人は知っている。これはセシル様が問題発言をする前振りである。
「あぁ……、婚約を破棄だって? なんと残酷なことをいうんだろうね、私の天使は。悲しみのあまり寝込んでしまいそうだよ。君を失っては私はとても生きていけないというのに。君は本当に、私を振り回すのが得意な子だね。いいとも。君に焦がれる男がぶざまに床につく姿を見るといい。これから一か月は王宮へ上がらず、寝台の上でただひたすらに君を想おう」
「ひいっ、やめてください、心からやめてください、わたしが宰相様に殺されます」
「君が修道院へ入ろうと私の愛は変わらない。私たちの婚約も続くだろう。しかし、もちろん、私は君の意思を尊重するよ。君が神を選ぶというのなら、私は悲しみに耐えて、君のために修道院を新しく建てようじゃないか。君を愛する男としては、君が快適に過ごせる場所を用意しなくてはならないからね。それから修道院を訪ねるときには、あらん限りの贈り物を用意するとしよう。私を捨てた私の天使が、もう一度その眼に私を映してくれることを願って、世界中から貴重な宝石や最高級のドレスをかき集めよう」
「やめてくださーい! 行きません! どこにも行きませんから!!」
思わずセシル様の右手を両手でつかんで訴える。
セシル様は、ふふっと笑った。
そして、わたしの手の上に、ご自分の左手を重ねた。
「身体の具合はどうだい、ライラ。気分が悪いだとか、痛みがあるだとかはないかい?」
「ええ、大丈夫です……。あの、セシル様が、わたしにかけられた魔法を解いてくださったんですよね?」
心を奪う恐ろしい魔法を。
そんな魔法があるなんて知らなかった。わたし自身、あのときまで想像したこともなかったのだ。
この世界にあるのは一般的な火・風・水・土の四大魔法と、使える人間はごくわずかしかいない光魔法と闇魔法だけだ。人の心に作用する魔法なんてない。
誰に聞いたって、わたしと同じことをいうだろう。魔法で心を操るなんて不可能だ。お芝居の世界になら登場するけれど、現実には存在しない。
……しない、と、ずっとそう思っていた。
「私が解除したといって、君に恩を着せたいところだけどね。実際には、魅了の効果が切れたのさ」
セシル様が、苦い顔でいう。
「どんな魔法にだって制限はある。時間、範囲、質量。いずれかが限度を超えれば、君にかかった魔法は解けると判断した。無制限ということはまずあり得ないからね。時間にも範囲にも質量にも縛られないというなら、奴はとうに世界のすべての女性を支配しているだろう。学園内に留まって、地道に貴族の令嬢を誑かす必要はない」
その言葉にハッとなった。
夜中に突然やってきたセシル様。
強引に私を連れだしたセシル様。
未だに走り続ける馬車。
そして、小窓の外に見えた大門 ─── 。
「もしかして、わたしを、あのジョナスから遠ざけるために?」
「一番手っ取り早い方法が、距離を取ることだったからね。もし距離を取っても無駄なら、君を拉致監禁して時間の制限を試しつつ、私の手の者を大量に送り込んで奴に質量超過を生じさせようと考えていたんだが」
「ひっ、なにか今怖いことをおっしゃいませんでしたか?」
「あぁ、君のご両親に話は通してあるから、心配はしなくていいよ。君はこのまま、私の別荘に行っていなさい。私があの害虫を駆除するまでは、王都から離れているように」
セシル様に、優しく頬を撫でられる。
わたしは、安堵のあまり泣きそうになりながらも、ぐっと拳を握った。
だって、まだだ。奴の犠牲者はわたしだけじゃない。
「セシル様、クリスティが……!」
「わかっている。距離が有効だとわかったからには、すぐに彼女にも同様の処置を行う。彼女の婚約者にも、私から話をしておこう」
本当に、もう大丈夫なんだ。
身体から力が抜ける。
へなへなとうつむいていくと、セシル様が突然、むにっとわたしの頬を掴んだ。
痛くはない。
痛くはないけれど、これはまずい。
だってこの方がこういう行動に出るときは、
「私は怒っているんだよ、ライラ」
「ひゃい。ひょうへんでふ」
「当然です? いいや。ちっとも君はわかっていないね。僕が怒っているのは、君があの害虫に魅了されたことじゃない」
まずい。一人称が僕になってしまった。
セシル様の理性がぶっつり切れている証拠だ。
「僕はいつも君に言っているよね? 行動する前に僕に相談するようにと。相談と連絡を欠かさないでくれと。君が嫌になるほどしつこくいっているつもりだったんだが、もしかして僕の誤解だったんだろうか? 僕の言葉は君の足を止めるどころか、鶏の羽根以下の重みしかなく、君にとってはわずらわしいだけで価値を感じないものだったと?」
「ひゃったふしょんなひょとはないでふ」
まったくそんなことはないです。
頬をむにむにされながら訴える。
でも、これは、どう考えてもわたしの分が悪い。
親友の様子がおかしいことに気づいた時点で、セシル様に相談すればよかった。そうすれば、セシル様がわたしの百万倍は的確に解決してくださっただろう。
でも、あのときのわたしは、クリスティが変になってしまった原因がわからなかったから。
絶対に変だとは思っていた。
学園中が、クリスティが婚約者のいる身で同級生の男の子と付き合っている、二股をかけているなんて、嬉々として噂していたけど、絶対に違うと思った。悔しかった。
クリスティは、婚約者のレインのことを心から慕っている。
内気な彼女と無口な婚約者は、たしかに、あからさまに恋人という風じゃなかった。でも、クリスティが、レインへの贈り物に熱心に刺繍をほどこす姿だとか、レインが、クリスティを見つけてわずかに微笑む様子だとかを、わたしは間近で見ていた。
だから絶対に、何かおかしいと思った。
だいたい、あの内気で恥ずかしがり屋なクリスティが、校内でおおっぴらにいちゃつくだとか、男子生徒にしなだれかかるだとか、できるわけないでしょう!!
何かある。あのジョナスという男爵子息は絶対にあやしい。
わたしがそう訴えても、先生たちは誰も相手にしてくれなかった。ほかの友達には「クリスティは本当はああいう子だったのよ」なんて慰められた。信じてくれたのは、彼女の婚約者のレインだけだった。
レインは本当に苦しそうだった。
クリスティを信じたい。でも、これはただの俺の願望なのかもしれない。そう俯くレインに、わたしは両手で拳を握った。
わたしが真相を突き止めて、クリスティを助けるから、待っていてレイン!
……そう意気込んだものの、ジョナスはちっとも尻尾を出さなかった。
わたしは、調べれば調べるほどわからなくなっていった。
クリスティに脅されている様子はない。危険な薬物を使われている痕跡もない。だいたい、どちらも、男爵子息であるジョナスが、伯爵令嬢のクリスティ相手にできることだとは思えない。
クリスティはまるで、悪い魔法にかけられてしまったようだった。心を奪い、偽りの恋に狂わせる、そんな魔法だ。お芝居の中にしか存在しないはずの魅了をかけられたら、きっと今のクリスティのようになってしまうんだろう……。
そんな馬鹿なことあるはずがない、と思った。
だけどほかに考えられない、とも思った。
だからわたしは、思い切って、直接ジョナスに揺さぶりをかけることにした。
わたしが調べていることを、あの男も知っているんだろう。わたしを見る眼には、警戒が混じっていた。
きっと、わたしが何もかも知っているんだと脅せば、ジョナスは信じるはず。
そのとき、セシル様に相談した方がいいんじゃないかなとは、ちらっと思ったのだ。
でも、セシル様はお忙しい方だ。陛下の信頼が厚く、宰相からも頼りにされている方だ。『お芝居でしか見たことのない魅了という魔法が存在するみたいなので助けてください』なんて、いくらわたしが婚約者でも、さすがにいえない。わたしのほうが心の病気を心配されてしまうだろう。
そこでわたしは、手紙を残すことにした。
これまでの事情をしたためた手紙を、レインに預けて、彼に頼んだ。
─── もしものときは……、レイン様から見て、わたしが明らかにおかしくなったときは、どうか迷わず、この手紙をセシル様へ届けてください。
レインは最後まで渋っていたけれど、彼が直接ジョナスとやりあえば、ただの『悪い噂』ではすまなくなる。好奇の目に晒され、誹謗中傷を向けられて苦しむことになるのは、ほかでもないクリスティだ。
親友であるわたしが行くのが一番いい。彼もそれはわかっていた。
そしてわたしは、ジョナスと真っ向から対峙し、そして ─── ……まんまと魅了の餌食になったのだった……。
セシル様は、ようやくわたしの頬から手を離すと、ひどく悲しげに目を伏せた。
「私だってね、君がほかの男への愛を叫ぶ姿には、胸を引き裂かれるような思いだったんだよ……」
「本当にごめんなさい……!」
「この傷は君に愛を囁いてもらわないと癒されない」
「ええ、わたしにできることならなんでも……、……はい?」
セシル様は、うっとりするような流し目をわたしにくれて、艶やかに微笑んだ。
「嬉しいね。君のその可愛らしい唇が、これから毎日私への愛を囁いてくれるなんて」
「ひぃ」
「君がどれほど私の心を奪っているか、私は日々伝えているつもりだけど、君はすぐに照れてしまうからね。この狂おしい熱情について、君から私に教えてくれるなら、この上ない喜びだよ」
「……えっ、ええーっと、わたしには、その、そういうのは、あんまり、向いてない、かな? なーんて、えへへ」
「あぁ、痛みで胸が張り裂けそうだ。君があの害虫の名を愛おしげに呼ぶ声が、この耳にはいつまでも残っている。いっそ両の耳を切り落としてしまえば楽になれるだろうか」
「ひぃっ! 怖いことをおっしゃるのはやめてください! ……わたしは、その、セシル様だけですから……!」
「ううん? よく聞こえないな。先ほどのショックが尾を引いているのかもしれない」
いやいや、あきらかに楽しんでますよね!?
わたしは、耳まで赤くしながら、ぼそぼそと小さな声でいった。
「……あなたが、好きです」
「うん」
「あの男の名前を呼んだあとでは、信じてくださいと望むのも図々しい話ですが、わたしがお慕いしているのはあなただけです、セシル様」
「信じるよ。……あぁ、泣かないでくれ、ライラ」
つらかったね。もう大丈夫だ。
セシル様がそう囁きながら、わたしの涙を拭ってくれる。セシル様の温もりだ。わたしはその手に頰を寄せた。怖かった。恐ろしかった。魅了の魔法をかけられている間のことを、全部覚えているわけじゃない。記憶は曖昧で、ぼんやりしている。それでも、自分の心を操られる恐怖だけは、身体に染み込んでいた。
セシル様が、わたしを抱きしめてくれる。力強い腕の中で、わたしは子供のように泣いてしまった。セシル様が、大丈夫だと、繰り返し囁いてくれる。
あぁ…。わたしは、あえかな息をはいた。セシル様の腕の中以上に安心できる場所を、わたしは知らない。
ひとしきり泣いてしまってから、セシル様から離れる。セシル様は妙に物足りなそうな顔をしていたけれど、本当はわたしより、この方のほうが辛かったはずだ。
わたしは目にぐっと力を込めて、涙をこらえて、大切な人をまっすぐに見つめた。
「助けてくださって、本当にありがとうございます」
「君が困っているなら、私はいつだって駆けつけるさ」
「知ってます。でも……、こんなことになってしまって、いえる台詞ではありませんけど、わたしは……、セシル様の足を引っ張る人間に、なりたくなかったんです」
「君をそんな風に思ったことは、一度もない」
セシル様の声が冷たくなる。
怒りを抑えている声だ。
でも、わたしへの怒りではないことはすぐにわかる。
この方は、自分自身に腹を立てていらっしゃるのだ。
「……君が、私の婚約者だというだけで、くだらない連中から侮辱を受けるなら、それは私の咎だ。君は私にいくらでも怒っていい。だが、どうか、君自身は……、わかってほしい。私が前を向けるのは、君がいるからだ。君がいなければ、私の魂はとうに闇に落ちている」
それはちがう。
そういってもらえるのは嬉しいけれど、それはちがう。
わたしは、手を伸ばして、セシル様の頬をむにっとつまんだ。
「セシル様が前を向けるのは、セシル様が努力されてらっしゃるからですよ」
希少な闇魔法の使い手。精霊のいとし子。陛下や宰相からの信頼も厚い公爵。
それがどれほどの妬みや僻み、悪意を生み出してきたことか。この方がどれほど傷つけられてきたか、わたしは少なからず知っている。
そして、この方が、打ちのめされても立ち上がり、再び前へ進む姿を、わたしはそばで見てきたのだ。
セシル様のお肌はさわり心地がいいなあ、なんて思いながら続ける。
「嫌なことや、辛いことがたくさんあっても、セシル様の心が、耐えて、戦って、前進を続けられたから、今のセシル様がいらっしゃるんです。わたしはちゃんと知っています。セシル様がどれほど立派で、聡明で、誇り高くて、努力家で、辛抱強くて、粘り強くて、策略家で、執念深くて、根に持つタイプで、報復は三倍返しで、でも実は面倒くさがりで、隠居願望が強くて……、あれ?」
「あれ? じゃないだろう。途中からちっとも褒めてなかったぞ、君は」
頬からわたしの手を引きはがして、セシル様がじっとりとわたしを見つめる。
わたしは首をかしげた。
「おかしいですね。セシル様がどれほど素晴らしいかを話すつもりだったのに」
「私で遊ぼうとはいい度胸だな、ライラ」
「そんな恐ろしい真似をするはずがございません。それから、その美しいお顔を間近に寄せられますと、わたしの心臓が止まりそうなので、手加減してくださいませ」
「それだけ減らず口が叩けるなら問題ないだろう」
ちがいます、頑張って気をそらそうとしてるんです!
本当は、心臓がおかしくなりそうなんですってば!
そう訴えようとしたけれど、月よりも儚い美貌が、悪戯に微笑んだので、もう諦めた。
「セシル様」
「なんだい?」
「本当にごめんなさい」
「謝らなくていいよ」
「好きです」
「うん」
「あなただけです」
「わかってるよ」
だって君は私の天使だからね。
そう甘ったるく囁かれて、わたしは、今までとはまったくちがう意味で、涙目になった。