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霧雨市怪奇譚

霧雨市怪奇譚 神隠し

作者: 野崎昭彦

相変わらず劇的なことの起こらないシリーズです。

ふと思いついたので長編の方と同じ都市伝説を別の切り口から解釈してみました。


なお、作中に登場したB級映画の元ネタが分かった場合はご一報下さい。

もれなく「やっぱばれたか」と呟きます。

 はんぺんに顔がついたような謎のモンスターがひたすら人間を襲うB級ホラー映画『ヤマノケ対Tさん』は同年の話題をかっさらった他のB級ホラー『モンス・メグ』や『ゾンビ映画』とは異なり、可もなく不可もない、無味無臭の無難な作品として、まるで話題に上ることもなく消え去った。

 いや、他の二本……十六世紀の攻城砲が意志を持って博物館を脱走し、無差別に砲撃を始める『モンス・メグ』、ゾンビ映画のADが本物の魔術師で、ゾンビも本物だったという罰当たりな設定の『ゾンビ映画』のどちらもが悪い意味でぶっ飛んでいて、他の追随を許さなかったのが問題だったのかもしれない。

 ともあれ、そんなB級ホラー映画を、マニアでもないのにわざわざ観に行く層は一定数存在する。

 例えば、地元の映画館から宣伝記事を頼まれたタウン誌の記者とか。

 そういうわけで、その不運なタウン誌の記者である鈴木沙耶香すずきさやかから誘われ、加藤清虎かとうきよとら伊賀前いがさき市の郊外にあるショッピングモール『ハナサク』内の映画館へ来ていた。

 映画を見た後、同じモール内の喫茶店に入ってお茶をしつつ、感想を交換する。はずだったのだが、どうしても二人とも同じような感想しか出てこなかった。


「うーん、これほど良い点の見つからない映画は、今まで見たことがありませんね」

「そうですよね。私もちょっと困ってるんです。どう記事を書いていいものか……」


 沙耶香は考え込みながら紅茶のカップを口元に運んだ。


「そもそも、ヤマノケって一体、なんだったんでしょう?」

「さあ。羽柴はしばさんによれば山神の眷属だろうということですが」

「山神なら、祖母も何か知っているかもしれませんね」


 沙耶香が懐かしむように言った。

 清虎は以前、沙耶香の祖母は山を住処とする妖怪、雪女郎で、赤城山一帯に潜む魑魅魍魎ちみもうりょうたちの顔役のような存在なのだ、と聴いたことがある。


「いえ、人間が作り出した都市伝説の怪物ですから、知らないんじゃないかと思いますよ」


 コーヒーを口に運んでから、清虎は話題を変えた。


「それにしても、鈴木さんから連絡があった時は驚きましたよ。妹からはデートの誘いだとからかわれましたが」

「なるほど、確かにそうも見えますね。……実際、そうだったらどうします?」


 沙耶香はなんでもない口調できいてきた。

 だが、清虎は笑って首を振った。


「どうもしませんよ。俺はもう、あの時のことは気にしないことにしました。さすがに、文句の一つは言ってやろうかと思っていたんですがね」


 二人が出会ったのは、昨年の暮れだった。一月ほど前のことだ。

 その時、清虎は沙耶香の霊力の余波を受けて体調を大幅に崩し、入院する騒ぎになった。その後、沙耶香はしばらく連絡をよこさなかった。


「でも、実際に会ったらそんな気は失せました。そもそも、あの時体調を崩したのも自分の健康管理ができていなかったせいですし」

「私が自分の力に気付いていれば、症状はもっと軽く済んだはずです。それでも、ですか?」

「だとしても、それは言いっこなし、です。終わったことですから」


 清虎は、申し訳なさそうに目を伏せる沙耶香にそう、言葉をかけた。


「……さて、それにしてもどうしましょうか、記事の方」

「そう、ですね……。主演俳優の演技が初々しかった、とか?」

「なるほど、欠点をいい感じに言い換えるわけですか。だったら俺は意味深な場面構成を上げましょう。特に、中盤に意味もなく挿入される巫女舞のイメージ映像とか」


 そんな風に打ち合わせをしていると、ふ、と清虎の上着が振動しはじめた。

 清虎は上着のポケットからスマートフォンを取り出すと、沙耶香に断って席を外した。

 画面を見ると、妹の明良あきらからの着信だった。


「もしもし、どうした?」

『あっ、兄貴! 日向ひなたがいなくなっちゃった!』

「いなくなった? どういうことだ?」

『うん、鷹津戸たかつどの芝居小屋、あるでしょ。あの辺でフラッと消えちゃったって。それで、羽柴さんから捜索に人手がほしいから羽柴屋敷に来て、って』

「わかった。すぐに行く」


 清虎は電話を切ると、難しい顔で席に戻った。

 明良がいなくなったと知らせてきた土岐日向ときひなたは、清虎にとって友人であり、命の恩人でもあった。だから、清虎には捜索に参加しないという選択肢はなかった。


「すみません、鈴木さん。今日はここまでにしておきたいのですが……」

「いえ、お構いなく。何かあったんですよね?」

「ええ。それで、羽柴屋敷へ行かなくてはならなくなりました」

「羽柴屋敷――つまり、そういうことですか。わかりました」


 沙耶香は紅茶を飲みきると伝票を手に立ち上がった。


「あっ、俺が」

「私が呼び出したんですから、私が払います」


 沙耶香は精一杯の笑顔でにこり、と笑った。


***


 沙耶香の運転する軽自動車で羽柴屋敷へやってきた清虎は、玄関の前で妹の明良に出迎えられた。


「兄貴、遅い」

「ああ、すまん。それで、日向は?」

「うん……。やっぱり、いけないみたい」


 明良は首を振った。


「こっちから連絡しても通じないみたいで、そうするとほら、あの辺……ね?」


 明良が口ごもったのは、渡来わたらい川にかかる跳瀧はねたき橋のことだった。

 だいぶ昔から、一種の魔所として警戒されている橋だ。なにしろ身投げが多い。木造の吊り橋だった頃からそうだったが、数十年前、老朽化に伴って架け替えられた際には高い防止柵が設けられたにも関わらず、年に一人は身投げが出る。そういう橋だ。


「気になるな。無事だといいんだが……」


 清虎は橋のある、北の方に目をやった。

 といっても、橋のある鷹津戸は数十キロは離れており、そうしたところで見えるはずはなかった。まして、今は午後の六時近く。すでに日はとっぷりと暮れていて、清虎に見えたのは山の下に広がる住宅街の街灯りだけだった。

 明良からの急報を受けて押っ取り刀で駆けつけてきたのだが、まだ他に人は集まっていないらしく、車寄せには他の自動車も見当たらないし、明良のもの以外の自転車も停まっていない。

 屋敷の中にに入っても、清虎は心中に不安を抱えたままだった。通されたサロンのソファーに腰を下ろすと、自分でも日向に連絡を試みた。だが、明良の言った通り、まったく連絡がつかない。

 電話をかけても通じないし、メールを送信しても失敗する。唯一チャットでのメッセージ送信は可能だが、そもそも向こうがログインしなければ連絡できたとは言わないだろう。


「どう、つながった?」

「いや、だめだ。まったくつながらない。そういえば、一体何がどうしたのか、その辺りのことはきいてないのか?」

「きいてないよ。でも、うーん、なんか芝居小屋で地域振興的なイベントがあって、生徒会活動の一環でそれに参加したみたい」

「それなら、一緒に何人か行ったんじゃないのか?」

「うん。日向がいなくなったって連絡くれたのも同行してた生徒だから。んとね、あたしたちとは中学の同級生」

「その同級生の方は何も見ていないんですか?」

「見てないみたい。気がついたらいなかったって」

「そうか……。まさか、とは思うが妖怪がらみなのかもしれないな」

「うん。孝美たかみも同じ意見みたいで、羽柴さんと一緒に捜索の準備に行ってる」

「まるで、神隠しですね。見つかるといいのですが……」


 沙耶香がそう言った時、サロンの扉が開いて、担任の木下きのした福島ふくしま石田いしだ大谷おおたにを連れて入ってきた。三人とも清虎の同級生だ。


「加藤、あんたも?」


 大谷がたずねてくる。清虎は黙ってうなづくと、「お前もか?」と問い返した。大谷もうなづく。


「んで、藤はどこ行った?」


 サロンの中を見回しながら木下がたずねた。その瞬間、場の空気が変わった。サロンにいる者の視線が秀子の後ろに向けられる。


「あん? なんだよ、急に」

「デコちゃん、後ろ……」


 明良に指摘され、木下が振り返る。


「悪いわね、待たせたかしら?」


 羽柴藤はしばふじが、そこに立っていた。随所をフリルやレースで飾りたてたいつも通りのドレスだが、気のせいか普段よりも装飾は控えめで、地味な印象を受ける。とはいっても、その身にまとう独特の空気は、藤以外には出し得ないものだし、その後ろには弟子の黒田孝美くろだたかみと使用人の前田まえだがいつも通りのポーカーフェイスで立っている。藤に間違いなかった。


秀子ひでこ、それに沙耶香も来てくれたのね。助かるわ。それじゃあ、日向を捜しに行きましょうか」


 何でもないことのように言うと、自分は前田を促してさっさと玄関の方へ言ってしまう。


「あっ、藤姉さま、待ってよ」


 最初に動いたのは孝美だった。

 その後を追うように、他の者もばらばらと動きだし、そしてなんとなく、という感じで三台の自動車に分乗して鷹津戸へ出発したのだった。


 ***


 鷹津戸に到着した一同は、藤の指示に従って跳瀧橋の袂にあるコンビニの駐車場に車を停めた。ここから上流までは川沿いを歩く一キロほどの遊歩道が整備されていて、安全に河川敷に降りることができる。


「さて、と。この辺りなら見つかりそうね」

「羽柴さん、いくらなんでもこの辺りにいれば昼間の内に見つかるのでは?」


 清虎がきくと、藤は長い髪を手で掻き揚げながら小さく笑った。小さな光の粒子がちらちらと舞った。


「神隠しの生還者が見つかる場所は大体二パターンに分かれるの。一つは大人でも簡単には行けないような深山幽谷、もう一つはもう何度も捜したけれど、見つからなかった場所よ」


 そう言うや、藤は髪を触った手で剣印を組み、意識を集中し始めた。

 一同が固唾を飲んで見守っていると、しばらくして藤は上流の方を指さした。


「向こうに、何かがいるわね……。日向に似ているけど、日向じゃない……?」


 藤は少し首を傾げたが、気を取り直すように頭を振り、清虎たちの方に向き直った。


利也としや、みんなに鳴り物を配ってちょうだい。そうしたら河川敷の遊歩道で音を鳴らしながら練り歩きましょう」


 藤に言われて、利也が自動車のトランクからあれこれと取り出してきた。小さな鼓にでんでん太鼓、鉦。そんな、叩いて音を出すものと、それから小さな懐中電灯。一人一人にそれらを配り終えると、前田自身は鉦を手に取った。


「では、捜して参ります、お嬢様」

「ええ。鳴り物があるから大丈夫だと思うけど、猪には気をつけてね」

「かしこまりました」


 前田は深々と礼をすると、先頭に立って河川敷へと降りていく。

 明良たちも前田に続いてぞろぞろと降りていくのだが、清虎はついていかず、藤の顔をまじまじと眺めた。


「あら、どうしたの、清虎?」

「羽柴さん、俺には信じられません。あのしっかり者の日向が……」

「そうね。でも、しっかり者だからこそ、隙を突かれると弱いものよ。さ、行きましょう」


 清虎は藤に促されて遊歩道を降りていく。

 すでに先に行ったメンバーの姿は見えず、鳴り物を鳴らして日向を呼ぶ声と、懐中電灯の灯りだけが居場所を教えている。


「清虎、あなたも虎の子なら暗闇を透かし見ることができるかしら?」


 藤がくすり、と笑った。

 見れば、藤の瞳はかすかな燐光を放っている。右の目には日輪を、左の目には月輪を、それぞれ宿らせるが如く。決して明るくはないが、街灯の下を離れ、薄暗い夜の中に立つその姿は実に妖しく、美しい。


「なんて、ね。さ、日向を捜しましょう。おそらく、尋常でないことになってるはずだから」

「尋常でない、とは?」

「さあ? 何かに憑かれたか、魅入られたかしているのは間違いないわね。それが何かは分からないし、危険かどうかも分からないわ。でも、少なくとも今の日向は真っ当な判断を期待するのが難しい状態、それは確実よ」


 藤は人差し指を唇に当てた。


「そんな……。おーい、日向! 返事をしてくれ!」


 清虎は急いで鼓を鳴らし、声を張り上げた。すでに仲間たちが捜した場所ではあるが、それでも大声を上げれば、ひょっとしたら届くかもしれない、と思ってのことだ。


「日向ーっ!」


 清虎の声は渡来川の上を反響しながら消えていく。

 見通しの利かない中、懸命に目を凝らして対岸を捜した。

 だが、当然ながらそこに人影は見えない。

 と、その時、清虎の見ている先が懐中電灯で照らし出された。


「加藤さん、これで見えますか?」


 沙耶香が懐中電灯を手にして戻ってきたのだった。


「すみません、鈴木さん。ありがとうございます」


 清虎と沙耶香はそのまま本隊から遅れて二人、日向を探し続けた。

 と、その人影は唐突に清虎の視界に飛び込んできた。

 第一高校の制服姿で、メタルフレームの眼鏡をかけた少女が、川の中程に棒立ちになっていた。

 どこか遠い目をして、口は半開きだが、確かにそれは日向の姿をしていた。水深は腰までなのだが、全身がぐっしょりと濡れ、はだけたブレザーの下に見えるブラウスは肌にピッタリとついている。

 しかも、顔は真っ白になっている。相当長い時間、川に浸かっていたようだ。


「日向っ!」


 清虎は躊躇うことなく上着を脱ぎ捨てると、川の中に踏み込んだ。

 一歩進むごとに水深が深くなり、水流に負けそうになるが、それでも構わずに前へ進む。

 ややあって、ようやく日向の元にたどりついた清虎は彼女を半ば抱き抱えるようにして岸へと引き返す。その間、日向は何の反応も見せず、ただされるがままになっていた。


「兄貴っ!」

「清虎、大丈夫か!?」


 岸にたどり着いた二人を明良たちが引き上げた。


「俺は大丈夫だ。だが、日向の様子がおかしい」

「一体どうして? まさか、妖怪に魂を取られたりしたの?」

「わからん。日向、返事をしろっ、日向!」


 清虎は日向に呼びかけながら体を揺さぶった。

 ややあって、遠い目をしていた日向がゆっくりと清虎の顔を見る。そして、ゆっくりと、ぎこちなく、笑顔を作った。


「トッキー、大丈夫? 帰って来られたんだ?」


 孝美が心配そうに声をかけるが、日向は返答せず、清虎を見て笑うだけだ。


「日向、おい……」


 清虎がなおも呼びかけると、日向の口から言葉が漏れた。


「……れた…………はい……」

「ん、なんだ?」


 口元に耳を近づけてようやく聞き取れる程度の音量で、日向は同じ言葉を繰り返していた。


「はい…………れた…………はいれたはいれたはいれた……」


 清虎は思わず顔を背けた。知った顔でなければその場に投げ出していたかもしれない。それほどに、異様な表情と、異様な言葉であった。

 異様な様子に気付いた沙耶香がハッと息を呑む。


「また……?」

「鈴木さん、何か知ってるんですか?」

「ええ。この前、助手が同じような症状で羽柴さんに落としてもらったんです」

「それじゃあこれはやはり……!」


 清虎がそこまで口に出した時、ようやく藤が到着した。


「どうしたの、清虎?」


 遅れてきた藤は清虎の肩越しに日向の様子を窺うと、すぐに険しい声音になった。


「ごめんなさい、清虎。この子をこのまま屋敷まで連れ帰りたいの。冬の川に浸かって寒いでしょうけど、もう少し手伝ってちょうだい。利也、先に戻って用意をしておいて」

「かしこまりました、お嬢様」


 指示を受けた前田の足音が遠ざかっていく。黒い燕尾服姿のため、その姿を目で追うことはできない。


「日向、歩けるか?」


 清虎は日向に顔を向けると、嫌悪感をこらえてきいてみた。すると、日向はぎこちない動作でゆっくりと立ち上がり、そしてすぐにバランスを崩して倒れかかった。それを、大谷が抱き留めるように受け止めた。


「おっと、危ない」

「あはっ……」


 日向はうれしそうな声を出した。その右手が大谷の顎に触れる。


「おいおいおい、何すんだよ。あたしは女だよ?」


 吉乃は突然の扇情的な仕草に狼狽えるが、日向の方は「女と分かれば用はない」とばかりに自分の足で立つと、目の前にいた清虎にしなだれかかった。


「なっ、なんだ?」

「……やっぱりね。さ、早く行きましょう。秀子、関係先への連絡は頼んだわ」

「はいよ。そっちは任せときな。御本家様」


 藤を先頭にして、一同は元来た道を戻っていった。その間、日向はずっと清虎の腕に抱きつくようにしていて、清虎は気まずさのあまりまともに前を見ることもできなかった。

 駐車場に戻ると、前田と石田が先行していて、コンビニでタオルを調達していた。沙耶香も自分の車から防寒シートを出してくる。


「加藤、後はこっちで引き取るから、体冷やさないように拭いときなよ」

「ああ、助かる」


 清虎は日向を美咲に預けようとしたが、日向は頑として腕を放さない。


「嫌よ。お兄さんと一緒にいたいわ」

「日向、一体どうしたというんだ?」

「そうね、とっても面倒なものが取り憑いた、と言えばいいのかしら?」

「藤姉さまが面倒って思う妖怪っていうと、蛇系とか狐系?」


 孝美がたずねると、藤はゆっくりと首を振った。


「いいえ。色々な呼び名があるけれど、最近は『ヤマノケ』なんて呼び方もするらしいわね」


 ***


 日向がベッタリくっついて離れないので、やむなく清虎は藤の車に同乗することになった。代わりに孝美が沙耶香の車に乗り込む。

 流鏑馬やぶさめへ帰る車中でも、日向は扇情的な視線を清虎に向け、ぐいぐいと体を押しつけてきた。ぐっしょりと濡れているせいか、その体は氷のように冷え切っていた。

 しかも、口を開けば普段の日向とは正反対の卑猥な誘惑の言葉が、ねっとりと、湿っぽい声音で出てきて、清虎の耳を侵す。

 だが、清虎は懸命に耐えた。

 耐えなければ、何かが終わってしまう気がしていた。


「利也、分かってるとは思うけど、上のお宮へお願いね」


 助手席に座った藤が運転席の前田に言うのが聞こえた。


「上のお宮ですって。ふふ、良いところかしら?」


 日向が耳元で囁く。

 その度に心臓が高鳴る。

 このままでは、向こうのペースに引き込まれる。

 そう直感して、清虎は知らず体を強ばらせた。

 車は羽柴屋敷の前を通り過ぎ、さらに山を登っていく。

 ややあってたどり着いたのは、歴史の長そうな古い社の前だった。

 一足先に降りた前田が後部座席のドアを開けて降りるよう促す。

 日向の手を引いて降りた清虎は、そのまま社の中に通された。

 その後ろから厳しい顔をした藤が入ってくる。


「利也、あれを」


 藤の指示で、前田が社の外へ出ていく。


「早く落とさないと、これは日向への負担が強いから。肌寒いだろうけど、まだ我慢してちょうだい」


 藤は右手で髪を軽く梳くと、剣印を作った。

 その剣印の先にぽっ、と小さな火が灯る。


「羽柴さん、その火は……?」

「向こうに属するものだけを焼く……そうね、浄化の火とでも呼ぶべき力よ。先代から授かった人ならざる力。さ、日向を押さえて」


 言いながら、その火を日向に近づける。

 藤の目に宿る燐光が一層強くなる。


「な、に……? お兄さん、助けてよ。この人、あたしを殺す気だわ」


 日向は清虎の背中に隠れようとするが、清虎はそれを許さず、両肩を掴むようにして日向をその場に座らせる。

 日向は少女とは思えない力で抵抗するが、それでも清虎の方が強かった。目の前の少女に憑いた何者かを追い祓う、その気概が清虎の力になっていた。


「お願いだから、この女をどうにかしてよ……お兄さん……」


 日向は涙混じりの鳴き声で懇願する。清虎はほんの一瞬だが、懇願に流されそうになった。その一瞬を突いて日向は藤に飛びかかった。

 だが、藤は転がるようにして日向を避けた。

 指先に灯っていた火が消え、辺りを暗闇が包み込む。

 何が起きているのか、清虎には分からない。だが、何の物音もしないところを見ると、両者とも動かずににらみ合っている、といったところだろう。


「羽柴さん?」


 呼びかけるが、返事はない。と、社に誰かが入ってくる気配がした。


「お嬢様、例の物をお持ちしました」


 前田の声だった。


「結構。清虎、次に私が火を放ったら、あの娘の名前を呼んであげなさい。それも大声で、ね」


 藤の声が終わるかどうか、というタイミングで床を蹴る音がした。何かがぶつかり、もみ合う気配がしたその時、社のあちこちが一斉に燃えだした。


「なっ……!?」


 清虎は火事かと身構えたが、見れば火がついているのは社の梁から提げられた吊り灯籠や柱に括り付けられた松明、祭壇上の蝋燭などで、火の勢いはすさまじいが、周囲の物に燃え移ったりはしていない。

 そんな、激しい炎に照らされた社の中央で、藤は両手を広げて艶然えんぜんと微笑んでいた。日向はそんな藤から後ずさりで距離を取っている。


「残念だけれど、逃げ場はないわ」

「あ、うぅ――」


 一方の日向は視線だけで周囲を見回していた。その姿はまるで逃げ道を探っているようにも見える。


「今よ、清虎」

「日向っ! 戻って来い! 日向――っ!!」


 清虎は腹にありったけの力を込めて日向を呼んだ。日向は清虎の方を嬉しそうに見たかと思うと、糸の切れた人形のように、その場に崩れ落ちた。清虎はあわてて駆け寄り、その体を抱き起こす。日向は完全に脱力しており、気を失っているようだが、白かった頬には次第に赤みが差してきている。

 清虎がほっと息をついた時、小さな水音がした。

 そちらに顔を向けると、前田が大きなたらいを抱えて立っていた。


「茄子か胡瓜でも与えて渡来川に返してやりなさい。もちろん、二度と悪さをしないようにお灸を据えてね」

「かしこまりました、お嬢様」


 前田は一礼するとそのまま社から出ていく。


「あ……、おねえ、さま?」


 清虎の腕の中で、小さな声がした。

 日向が目覚めたばかりのようにぼんやりとした目で、しかし自分の意志で藤を見つめていた。


「日向! 日向なのか!?」


 清虎が呼びかけると、日向はハッとしたように清虎の顔を見た。


「お兄さん! あの、私……?」

「もういい。もう大丈夫だ」


 清虎は日向の体を抱きしめた。先ほどまでと同じ、冷え切った体だったが、今は体の奥から命の鼓動を感じた。


「よく、よく帰ってきてくれたな」

「ちょっと、お兄さん! 急にこんな……」


 戸惑う日向。だが、清虎はそれに構わず、より一層強く抱きしめたのだった。


 ***


 結局、日向は検査入院の結果、健康面での問題はないと判断され、翌々日には学校に通い始めた。一方で清虎は年末に続いて再び高熱で寝込むことになった。どうも、体を冷やしたまま、着替えもせずにいたのが悪かったらしい。

 そういうわけで一週間ほどが経ってから、清虎と日向は改めて羽柴屋敷を訪れた。

 藤はサロンの窓際に置かれた安楽椅子の上でなにやら分厚い本をめくっていたが、清虎たちが入ってきたのに気付くと本を閉じた。


「来たわね。そろそろだと思っていたけど」

「あの、お姉様。先日はありがとうございました」

「いいえ、当然のことをしたまでよ。さ、お座りなさい」


 藤は二人にソファーを勧めると、自分も安楽椅子から立ち上がって上座の席に移動した。間髪を入れず、前田が紅茶と人数分のカップを運んできてそれぞれの前にセッティングする。お茶菓子は清虎が手みやげに持参したバタークッキーだ。


「さて、何があったか、話してくれるわね?」


 藤に促されて、日向が口を開いた。


「……はい。といっても、私自身もほとんど記憶がありません。今でも思い出せるのは、河原にいた怪物……頭部がなくて一本足の、よく分からない怪物を見たことくらいです。その後、気が付いたらもう、お社にいました」

「羽柴さん、日向に憑いていたのは一体、なんだったんですか? 都市伝説にある『ヤマノケ』とは多少違うようですが?」


 清虎の問いに答えず、藤はサイドテーブルの上に置いた本の表紙を見せた。誰もが知る隻腕の有名漫画家の全集で、この巻では貸本作家時代に描かれた、河童を主人公にした連作が収録されている。


「河童……?」

「そう、河童よ。大陸渡来の河伯とか水虎とかが日本古来の水神信仰と融合して誕生した、親しみやすい河の妖怪。地域によってその容姿や習性に微妙なバリエーションがあるし、呼び名だって地域差があるわ」

「その河童とヤマノケと、一体何の関係があるんですか?」


 清虎は首を傾げた。どうしても両者が結びつかない。


「三重とか和歌山の方ではゴーライと呼ぶのだけれど、彼らは冬になると甲羅を脱いで山に入るそうよ。その時はカシャンボと呼ぶらしいのだけれど、そのカシャンボは一本足なんですって」

「一本足というと、私が見た怪物と同じですね。でも、だから河童というのは性急では?」

「そうでもないのよ。さらに言うと、九州の方には河童憑きの伝承があるわ。河童は若い女性に好んで取り憑き、憑かれた女性は誰彼構わず言い寄るようになるそうよ」


 清虎は、あの夜を思い出して顔が赤くなった。


「それが、インターネット上で語られるヤマノケの類話と似ていたのよ」

「では、私が、その……言い寄っていた、と?」

「ええ、とても情熱的に」


 日向が救いを求めるように清虎の方を見た。目が合って、なんとなく気まずくなる。清虎はなんとかしないと、と考えを巡らせたが、とっさに思い付くものではない。そんな中、鈴を鳴らすような笑い声が耳に飛び込んできた。


「ふ、ふふ、ふ……。まあ、落とせたんだからいいじゃない」


 藤が口元に手をやって笑っていた。

 清虎はもう一度、日向を見た。

 あの夜のことが再び脳裏によみがえり、みるみる顔が熱くなる。それは日向も同じようで、真っ赤な顔で俯いていた。


「あらあらまあまあ、お熱いこと。火傷しちゃうわ」


 それまで窓際で丸くなっていた黒猫が大きなあくびをした。藤の飼っている、金目銀目の黒猫だ。それが、「見ておれん」とばかりに伸びをすると、サロンのドアに設えられた猫用の出入り口から廊下へ出ていった。


河童(かっぱ)……

 全国的によく知られた水の妖怪。堕落した水神とも、名工が使役した人形とも言われる。

 よく知られた姿は頭に皿と呼ばれるくぼみがあり、背中には甲羅、指に水掻きを持つ水棲生物のような姿だが、江戸時代以前には地方ごとに細かいバリエーションが無数にあったらしい。

 一般に胡瓜、茄子などが好物という俗説があるが、これは干魃を恐れた農民が夏野菜を水神に捧げて無事を祈った信仰の名残なのかもしれない。


 ――十詠社刊『本朝妖怪録』より抜粋。

ヤマノケと河童/山童の特徴を並べていくと合致する部分がある。というところから今回のネタを思いつきました。

まあ、怖さよりも妖しさを感じていただければいいなぁ、と思います。

なんだろう、最近孝美より日向の方が気になってきて仕方ない。


一応、日向には小学生までは孝美と同じ学校で、その後の春休みに明良と同じ中学校の学区内に引っ越したという裏設定があります。

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