長月
百合子が亡くなってから三日後。中津川守は学校の音楽教室にいた。演奏の練習をする訳でも無く、熊本元康、彦根五郎と三人で無為の時間を過ごしていた。
「徹やんも、はるやんも、もう文化祭で演奏って気分じゃないよね」
熊本元康が大福を頬張りながら、口についた粉を舐める。
はるがなぜ一度断ったボーカルを引き受けたのか。その事情を守達は高坂から聞いていた。
「せやなあ。徹っちのお袋さんの為に歌うはずやったのに。本人が亡くなったら歌う意味ないし」
彦根五郎も元康のおやつの中からバームクーヘンを頂いていた。
勿論、徹も母親が亡くなったばかりで、文化祭どころじゃないだろう。
「仕方ないさ。潔く演奏は諦めようぜ」
守は窓の外を見ながら、ため息混じりに呟く。今日の空は珍しく曇が優勢で、太陽を隠していた。気温も下り、残暑らしく過ごしやすい陽気だった。
その時、教室の扉が開いた。はると徹が揃って教室に入って来た。
「皆、練習三日も休んでごめんね」
「同じく。私もサボってごめん」
徹とはるが、矢継ぎ早に謝る。
守が一呼吸置いて、遅れて入って来た二人に向き合う。
「高坂、丘ノ上。今、熊本と彦根とも話してたんだけど、もう文化祭の演奏は······」
「やるよ」
はるが即答する。
「え?」
「私も高坂も、文化祭の演奏やるよ。その為に、ここに来たんだから」
はるの思いがけない言葉に、三人は戸惑った。
「まだ丘ノ上はともかくとして。高坂、お前大丈夫なのか?」
守の問いに、徹は頷く。
「大丈夫だよ。丘ノ上とも話したんだ。母さんの為にも、精一杯演奏しようって」
守、元康、五郎は、さっき迄の沈んだ表情から、みるみるうちに、快活な顔になって行く。
「皆に一つだけお願いがあるの。演奏予定の曲をニ曲増やして欲しいの」
はるはそう言うと、カバンから二枚の楽譜を取り出した。
机の上に置かれた楽譜を、守、元康、五郎は食い入るように凝視する。
「高坂のお袋さんの為に、歌う曲だな?」
守は、はると高坂の意図をすぐ理解した。はると高坂が頷く。
「私がボーカルをやろうと思ったのは、高坂のお母さん、百合子さんの為なの」
元康と五郎も頷いている。
「だから文化祭の演奏は、最後まで百合子さんの為に歌いたいの」
背筋をピンと伸ばし、はるは宣言する。それは徹の好きな、堂々とした、いつものはるらしい立ち姿だった。
「よし!文化祭まで、練習時間は足りないかもだけど、やるだけやろうぜ」
守が、演奏練習の再開を宣言した。
「そうだね、中やん。可能な限りやろう」
「こりゃ休みも返上せんと、間に合わへんな」
元康と五郎が、練習を始める前におやつを口に詰め込んでいく。
徹は火葬場から帰宅した時の事を思い出していた。
徹の自宅前には、守、元康、五郎の三人が立っていた。徹を心配しての事だった。
三人は口数少なく、百合子に手を合わせ帰って行った。
その様子を見ていた徹の父は、息子の友人達を賞賛した。
「丘ノ上さんのお嬢さんもそうだったが、人が亡くなって、すぐに駆けつけると言うのは、なかなか出来る事じゃないよ」
徹はいい友達がいるな。父は息子にそう言った。
徹は、はるを見た。今から空手をするのかと疑うような柔軟体操をしている。
守を見ると、大海原うみのグラビアが掲載されている雑誌を、名残惜しそうにカバンにしまっている。
元康と五郎は、あと一口だけといいながら、おやつのお菓子を食べ続けている。
このメンバーで演奏が出来る。母、百合子の為に。
徹は自分は恵まれていると思った。それは母の死から初めて、自分の事を考える事が出来た瞬間だった。
お盆休みが明けてからは、それまでの酷暑が嘘のように過ごしやすかった。
また八月の残り半月で、台風が合わせて五個も発生するという、記録的な残暑になった。
正式に決まったバンド名、セプタンブルのメンバーは、連日、練習と夏休みの課題に忙殺された。
茶髪とピアスの少年は、はるか徹に課題を写させてもらうつもりだったが、両人とも課題に手をつけてないという有様だった。
夏休みの課題は、計画的に片付けないと駄目だろう。まるで説得力の無い言葉を吐いてしまったセプタンブルのリーダーは、はるから冷たい目で睨まれた。
夏休みが明けて学校が始まっても、休み呆けをしている暇さえ無かった。
演奏当日の段取り、曲順、衣装、文化祭実行委員会との折衝。
五人は、目の回るような日々を過ごし、あっという間に文化祭前日になった。
文化祭を明日に控えた土曜日。学校は休みの為、部活動で登校している生徒以外、校内の人影はまばらだった。
はるの通う丘登園高校は、文化祭前後の、前夜祭、後夜祭が無かった為、生徒達は当日の一日に楽しみの全てを委ねるのだった。
はる達セミタンブルのメンバーは、体育館にいた。担任の各務勤を加え、明日の演奏の為の準備をする為だ。
各務が指示を出しながら、必要な機材を設置し配線を繋いでいく。
「これは、なんて機械?」
見慣れない機材の数々に、はるは質問しか出来ない。
「ミキサーっていう機材だよ。はるやん」
ミキサーは、音を混ぜたり、切り替えたりする機器だと熊本元康が教えてくれた。
首に掛けたタオルで汗を拭う、今日の彼のTシャツの文字は〔夕日は何を教えてくれる?〕だった。
男子達が、ギターやベースのアンプを運んでいく。
「はるっち、これ渡しとくで」
彦根五郎が、イヤホンがついた黒い機材を渡してきた。
「これ、イヤホン?」
「イヤーモニターっちゅうんや。これ付けとけば、演奏中も、自分の声が分かるで」
「へー」
はるは、ただ頷くしたかなかった。
「俺はマイク要らないって」
ピアノ用のマイクスタンドを設置する際、徹が抗議していた。
「形だけだって。別に歌えとは言ってないからさ。マイクのトラブルを考えて、出来るだけ多く用意しときたいんだ」
守が、分かりやすく徹に説明する。確かに、ボーカルのはるが使用するマイクが故障した時、予備のマイクは必ず必要だ。徹は
、渋々了承した。
『本当に歌うのが嫌なんだなあ』
はるは、その様子を見ながら高坂に歌をリクエストした自分は、徹に嫌な思いをさせたかと反省した。
機材の設置が終わると、各務がミキサーを操作し、音響の調整が始まった。
セプタンブルのメンバーは全員、体育館の壇上に立ち、マイク、楽器の音を調節していく。
はるは、リハーサルさながらの徹達の演奏を背に、歌ってはまた止め、音の調節をしていった。
時計が十六時を過ぎた頃、メンバーは明日の為の打ち合わせを始めた。
「皆の衣装なんだけどさあ」
守が申し訳無さそうに、メンバーに話す。演奏当日の衣装は、各自持ち前の服を守の母が補正、飾り付けする手はずだった。
すでに、一週間前に守が皆から服を預かり、今日それを渡す筈だった。
「うちの母ちゃんが、納得できる出来になってないって」
守は両手を合わせて謝罪した。今夜、皆の衣装を仕上げて文化祭当日の明日、届けるとの事だった。
「いいじゃない、中やん。明日、間に合えば問題ないよ」
着ているTシャツが、汗で重たそうな元康が優しく言った。
「そやね。好意でやってくれる、マモーのお袋さんに感謝せな」
指を擦りむいたのか、五郎はバンドエイドを貼りながら、フォローする。
「で、丘ノ上に頼みがあるんだか」
肩と背中のストレッチをしていたはるは、守の言葉を聞いてなかった。
九月も上旬になると、日が傾くのが少しずつ早くなったような気がする。夏の盛りは、十九時くらいまで明るいというのに。
はるの好きな夏が、終わって行こうとしていた。
そんな感傷的な気分の時に、なぜかはるは茶髪とピアノの少年と一緒に下校していた。
「疲れてる所悪いな、丘ノ上」
守が、片手を上げて謝る。
「いいよ。中津川の家、そんな遠くなさそうだし」
衣装を仕立てている守の母が、どうしてもはるの寸法を、確認したいと言ってきたのだ。
うちの母ちゃんも、無駄にこだわりがあってと、不平を漏らしながら、守は内心落ち着かなかった。はると二人きりになるのは、初めてだったからだ。
自分の気持ちに気付いてから、何か意思表示をしなければと思いながらも、バンド内で色濃い沙汰は、危険だと用心していた。
事実、自分達と同じように、文化祭で演奏する予定だったもう一組のグループは、メンバー内の惚れた腫れたで、崩壊してしまったのだ。
今は駄目だ。それが守の結論だった。何かするにしても、文化祭の演奏が終わった後。茶髪とピアスの少年は、そう真面目に考えていた。
もう一つ気になっていたのが、はると徹の関係だった。
そもそも、はるがボーカルを引き受けたのは、徹の母に息子の晴れ舞台を見せる為だった。その過程で、はると徹が親密になるという可能性はないだろうか。
守から見て、今の所はると徹が特別親しいとは感じなかった。
そんな事を、取り留めなく考えている内に、守の自宅についた。
守の自宅は、一階が美容院になっており、二階が自宅になっていた。
「あんたの家って、美容院やってるんだ」
はるが以外そうな顔で守を見る。
「ああ。自営でお袋がな」
美容院の入り口の上の看板には、
〔 Croix du Sud 〕という文字が書かれていた。
「これ、なんて意味?」
年季の入った、木製の看板を見上げながら、はるは守に質問する。
「ああ、クロワ・デュ・シュッド。フランス語で、南十字星って意味だ」
店の中に入ると、座り心地の良さそうなピンクのソファーが置かれていた。背の高い観葉植物と、レジが置かれている、L字カウンターの奥に、椅子とシャンプー台がニ台あった。
店内は、落ち着いた色合いで統一されており、所々に、ぬいぐるみや小物が配置されていた。はるは小さな雑貨屋に来たような気分になった。
「可愛いお店だね」
はるがそう言うと、守が答える前に、自宅の台所と繋がっている扉が開いた。
「守、帰ったの?」
金髪の長い髪を後ろで束ね、縁無しメガネを掛けた、四十代と思われる女性が現れた。
「あら。あなた、もしかして丘ノ上はるさん?」
洗い物の途中だったのか、豹柄のエプロンで手を拭きながら、女性は、はるに問いかけてきた。
「母ちゃん。リクエスト通り丘ノ上連れて来たぞ」
守が、はるに自分の母親を紹介した。
「ごめんなさいね。ご足労頂いて。どうしてもアナタの寸法を確認しときたくて」
「いえ、こちらこそお世話になります」
はるが守に預けた服は、衣装としてはインパクトに欠けると守の母は判断し、自分でオリジナルの衣装を作ると息巻いたのだ。
「服作るの好きなんだ、うちの母ちゃん」
守の母は、はるの周囲を回りながら、はるの身体を無遠慮にチェックする。
「アナタ、スタイルいいわね。娘の場合、父親似が多いけど、お父さんも?」
「いえ、うちの父は、胴長短足です」
はるは、迷わず即答した。
「あら、じゃあお母さん似ね。いい方に似て良かったわね」
守の母は、片目を閉じて笑みを浮かべた。
「早速、測らせてもらうわね」
はるが預けた自前の服でサイズはだいだい分かっているので、後は服の調整のみ、との事だった。
「なにしてんの守。女子が身体のサイズを測るんだから、男子はあっちへ行く」
指を指され、言われなくとも、と守は台所へ向かおうとした。その時、はるの衣装と思われるショートパンツが、目に入った。
「ちょっと待て、母ちゃん。このショートパンツ、足が出過ぎだろ!」
明日、はるがこのショートパンツを履いて体育館の壇上に立つ。観客の男子達が、はるの足をスケベな目で見る事を想像すると、守の嫉妬心に火がついた。
「はあ?何言ってんのアンタ。これくらい普通よ。ねえ?丘ノ上さん」
守の母が、ショートパンツをはるに当てて見せる。
「よく分かんないけど、涼しそうでいいと思います」
「駄目だ、駄目!丘ノ上、嫁入り前の娘が言う事じゃないぞ!」
「アンタは、箱入り娘の父親か!」
母親に怒鳴られ、守は怯んだ。
ブツブツと小声で文句を言いながら、仕方なく台所に向かおうとした息子に、母は思い出したように声を掛ける。
「日菜子からの手紙、ちゃんと返事だしなさいよ!」
へーい。とやる気の無い返事が帰ってくる。
長くもないサイズ調整が終わり、守の母に手作りタルトをご馳走になった後、はるは、中津川家を後にした。
外に出ると、夕焼けが雲を紅く染めていた。確か予報では、明日も快晴らしい。
「一人でいいのに」
はるが隣で歩いている守に言った。
「夜に女子一人で帰らせたら、母ちゃんに殴られる」
両手を頭の後ろで組み、本当なんだからな、と守はブツブツ言っている。
「中津川のお母さんが言ってたけど、あんた妹いるんだね」
寸法を測っている間、お喋りな母君は、色々はるに吹聴したらしい。
「中学生なんだけど、イジメで学校行けなくなってさ。今、長野の爺ちゃんの家にいるんだ」
守の妹、日菜子は祖父の住まいの近くにある、フリースクールに通っているという幸い、少しずつ明るさを取り戻しているらしい。
はるは以前から中津川のクラス内での行動を観察していた。今日、守の自宅を訪れ、その行動理由が明らかになった。
「あんたが、クラスで目立たない子に声をけてるのって、その子がいじめられない為?」
普段、観察癖があるはるにとって、それは確信を持った質問だった。
「別に、そんな格好いいモンじゃないさ。たださ、いじめなんて下らない事、起こらないのに越した事ないだろ」
守は、顔をはるとは逆の方向を向け、その表情を悟られまいとした。
やはりそうだった。守は、妹の日菜子の事があり、クラスでいじめが起こらないように、立ち回っていたのだ。
以前、元康と守が誤魔化していたが、元康と五郎をいじめから助ける為、バンドに誘ったという話も真実だろう。
はるは守を見つめる。軽薄な奴と思っていたが、妹思いの優しい兄という一面もあったのだ。
「中津川。私、アンタの事······」
はるが、神妙な面持ちで、守を見つめる。
「え?」
中津川の鼓動が、元気良く振動する。
『コイツ、改まって俺に何を言うつもりだ?』
「頭軽くて、調子良くて、いいかげんな奴と思ってた」
「ちょっと待て、全部悪口じゃねーか!」
はるが、一歩守に近づく。
「あんたって、結構いい奴だね」
はるは、笑顔で守にそう言った。
守の鼓動が激しい振動から、締め付けられるような痛みに変わった。
守にだけ向けられた、はるの笑顔。その笑顔を見るのは、二度目だった。
だか一度目より、二度目の笑顔のほうが、比べ物にならないくらい可愛く見えた。守は今、告白するべきだと思った。
告白にはタイミングがある。それを逃すと上手くいく物も行かない。今が絶好の好機だ。
守は真剣な顔で、はるを見た。
「丘ノ上!俺······」
はるは、夕焼けを見上げていた。夕日に紅く染められた雲は、その面積を広げ、空一面紅く染めようとしていた。
それは、一枚の絵画のように美しい光景だった。
好きな娘が、夕焼けを見ながら目の前で立っている。それは守にとって、どんな名声を得た絵画より、価値のある絵のように思えた。
「ん?何」
はるが、空から守に視線を移す。
「あ、明日は遅刻すんなよ」
守は伝えたい事とは、無関係な言葉を口にしてしまった。
「セプタンブルの遅刻王に、言われたくないんだけど」
守は練習に度々遅刻をしていた。
「知ってたか?うちのメンバーで、俺の次に遅刻が多いのはお前だぞ」
はるが、そんな筈が無いと必死に抗議する。
守は、なぜか泣きたい気分になった。必死でその気持ちを押さえる。
それは、告白出来なかったからか。はるとのこの時間が愛おしかったからか。茶髪とピアスの少年は、その答えを出す事が出来なかった。
人生の中でほんの短い、本当にごく短い期間。人を純粋に想える貴重な時間の中に、守はその身を置いていた。
夕日が、さらに傾こうとしている中、守とはるは、憎まれ口を言い合いながら、緩やかな登り坂を歩いていった。




