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3/12

文月②

 

 徹とはるの裁判沙汰があった翌日。茶髪とピアスの若者は、不機嫌な顔をしていた。 

 

 中津川守は、忙しかった。文化祭のクラスの準備、日本史、世界史の補習、近づいてきたデートの下調べ。


 好きなタレント大海原うみの出演番組の鑑賞。店から借りっぱなしの、守の年齢では本来借りてはいけないDVDの返却。


 そしてボーカル探しと演奏練習。

 

「全く体がいくつあっても足りやしない。こんな時に、なんで高坂の奴」

 

「中やん、僕らいつまでここに隠れるの?」


「でも隠れるのって、ちょっとワクワクせえへん?」

 

 中津川守、熊本元康、彦根五郎の三人は、音楽教室にいた。先日、はるがいた中段の位置よりもっと高い、最上段の位置の机に腰掛けていた。

 

 ここからだと、教室全体が見渡せた。三人仲良く補習を終えた後、血相を変えた徹に呼び止められ、翌日ここに来るように言われた。

 

「徹やん、ボーカル候補がどうのこうのって言ってたね」

 

「なんや、どんな人かなあ」

 

 元康、五郎と徹の三人は、もう顔合わせを済ませていた。文化祭演奏のミーティングで守が引き会わせた。


 元康と五郎は、徹から自分達と似た空気を感じたのか、徹にすぐ友好的になった。徹も同様だった。

 

 ほどなく教室のドアが開いた。

 

「来たぞ、隠れろ!」

 

 守が小声で二人に指示しながら、体を隠した。気づかれないよう、慎重にドアの方角に目を向ける。

 

 高坂徹の後に、女子が一人教室に入ってきた。守の目が大きく見開く。

 

「丘ノ上······!?」

 

 はるの声が聞こえてきた。

  

「本当に一度だけでいいんだよね?」

 

「もちろん、助かるよ」

 

 徹は昨日、判決を宣告された後、しばらく茫然自失としていた。悪くない?自分の歌声が?そんなはずがなかった。自分の歌声は、万人が失笑するに値するものだ。

 

 では、丘ノ上の言葉の真意は?気遣いか、憐れみか。後者ではないと思えた。では前者か?それも無いような気がした。

 

 そもそも、はるとは今までろくに会話した事が無かった。席が隣同士にも関わらずだ。最近、少し話す機会があったが、はるの性格を推し測るには、あまりにも情報が無さすぎた。

 

 簡単に言うと、どんな奴か分からない。今、徹がはるについて知っている事は、空手経験者でまつ毛が長い。それくらいだった。そして、あの歌声······

 

「じゃあ、ここに書かれた歌詞を歌ってもらえるかな」

  

 徹は大学ノートを一枚はるに渡した。そこには、昨日徹がはるに教えた曲の歌詞が、手書きで記されていた。

 

 はるは今日も音楽の補習を受けていた。補習が終わり教室を出ると、廊下に徹が立っていた。


 はるに近づくと、徹は両手を合わせて頼み込んできた。文化祭の演奏練習に協力してほしいと。自分の演奏に合わせて歌ってほしいと。


 はるはあまり乗り気では無かったが、補習で分からない所は協力すると言われ、心がグラついた。

 

「これを歌えばいいんだね」

  

「うん。じゃあ、ちょっと練習しようか」


 徹はピアノを弾き始めた。はるは、ほぼ地声で歌う。

 

 曲のメロディに、歌詞をどう乗せるかの練習だった。長くもない練習が終わり、徹の表情が少し緊張したものに変わった。ズレた眼鏡を直す。

 

「じゃあ、次本番ね」

 

 はるは、こくりと頷く。再び徹の指が動きだす。はるは歌い始めた。昨日感じた驚きと同等のものを、徹はまた感じていた。

 

『本物だ······!』

 

 曲が中盤に差し掛かった頃、はる達の後方から大きな声がした。

 

「さ、採用!!」

 

 演奏と歌声は、同時に止まった。

 

 中津川守達が、駆け足で上から降りてくる。女子をボーカルにはしないという誓いも、この時はどこかに忘れていた。熊本元康は、その体型からか少し遅れた。彦根五郎もその後に続く。

 

「お、丘ノ上、お前、歌上手いな!」

  

 はるは、事態が飲み込めない。

  

「なんで中津川がここにいるの?」

  

 中津川の後ろにいる二人は、はるの知らない顔だった。ふくよかな体型をしている男子が着ているTシャツに、なにやら文字が書かれている。そこには、〔あきらめないで、夏〕と書かれていた

 

「高坂、これどういう事?」

  

 徹は、また両手を合わせた。今度はお願いではなく謝罪のためだ。

 

「ごめん!丘ノ上。どうしても中津川達に丘ノ上の歌を聴いて欲しくて」

 

 はるは少し首をかしげた。

 

「なんの為?」

 

「そこからは、俺が話すよ。聞いてくれ!丘ノ上!いや、丘ノ上さん!」

 

 守が話し始めた。口調がなにやら芝居かかって胡散臭い。はるはそう感じた。

 

「俺たち、九月の文化祭でバンド演奏するんだ」

 

「知ってるよ」

 

「だがしかし、肝心要のボーカルがまだ決まってないんだ」

 

「それも知ってる」

 

「そこでだ!今、丘ノ上の歌声を聴いて確信した!俺達のボーカルは、丘ノ上しかいないって。一緒に体育館の壇上に立って、素敵な思い出作りをしないか?」

  

「それは知らない」

 

 守の口が、開いたまま止まった。

 

「それはそっちの事情でしょ。私は関係ないよ。じゃあ私帰るから」

 

 教室のドアまで一直線。振り返る事も無く、はるは去って行った。

 

 守の口は、まだ開いている。

 

「あかん。取り付くしまもないなあ」


彦根五郎のつぶやきが、静寂の教室に響いた。

 

 七月一日の日曜日、はるは丘登園総合病院にいた。この日は、今年初の猛暑日を記録した。


 本来なら、鮮やかに色づくはずの紫陽花が茶色くなり、しょんぼりと下を向いていた。活躍の場を与えられず、退場していくその姿は、なぜか人間を連想させた。


 雨と湿気を奪われた紫陽花がしおれるように、健康を奪われた人間も、またしおれていくのだろうか。

 

 まだ十七年しか生きていないはるにとって、その連想すら実感がわかなかった。健康を奪われた人の気持ちを理解するには、はるはあまりにも若く、健康だったのかもしれない。


「まあまあ、はるちゃんいらっしゃい」


 百合子は窓際のベットに腰掛けていて、両手を合わせて歓迎してくれた。

  

 百合子が入院している、部屋は四人部屋だった。前回、部屋まで送っていったので、場所は覚えていた。以前は部屋の入り口にある表札に空きがあったが、今は四つ全てが埋まっていた。

 

 四人部屋と言っても、各ベットにカーテンが付いており、最低限のプライバシーは守れるようになっていた。部屋には、自分と同じようにお見舞いに来ている人が何人かいた。

 

 百合子は、ベットの前にある木製の折りたたみ椅子に座るようはるに促した。ベットの隣には床頭台があり、小さいが冷蔵庫もついている。


 台の上には小型の液晶テレビが置かれており、前回はるがご馳走になった、果物ゼリーがまだ残っていた。

 

 はるは、飾られていたガーベラが目に入った。ピンクと黄色のこの花なんて名前かな?


 花にあまり興味がないはるは、このガーベラに、まして花言葉になんて気にも留めなかった。ガーベラの花言葉は〔希望 前向き〕だった。

 

 自分は人付き合いに興味がないはずだった。先日も中津川達に面倒な事に巻き込まれそうになった。


 いい迷惑だ。だか、なぜ知り合って間もない人のお見舞いに来ているのか、はるは自分でも分かり兼ねていた。


 百合子のまとった優しい魅力に惹かれたのだと、はるは自分を納得させた。

 

「お加減どうですか?」

 

 はるは百合子に進められ椅子に腰掛けた。今日の百合子は、点滴をつけていなかった。


「はるちゃんが来てくれたから、今元気になったわ。暑いのにわざわざありがとう」

 

 午後になっても日差しが強く、窓は空調の為閉められている。本当に今年の夏は変だ。日に日に暑さが増していくような気がする。

 

 はるは夏が好きだった。青い空と大きな雲。密度の濃い空気と、夕暮れの蝉の鳴き声。


 寝室に潜んでいる蚊には困るが、梅雨から夏にかけての時期が、四季の中でも一番のお気に入りだった。

 

 そんなはるでも、連日続く夏日には少々壁癖していた。ここら辺りで一雨欲しかった。この際台風でもいいと心の中で雨乞いをする。

  

「そうなんです。うちの父は、いつも下着姿で家の中をうろついているんです」

 

 暑さの話題から、はるの家族エピソードに話は及んだ。

 

「男の人って皆そうよね。うちの主人と息子も似たようなものよ

 

「三人家族ですか?」

 

「あとパグがいるの。三才のオスなんだけど、犬がいると家の中が賑やかになるのよ」

 

 はるは犬と猫に関しては人並みに好きだった。特なパグに関しては、母の幸恵が大好きでその影響か、はるも散歩しているパグを見かけると、目を細めて見つめてしまう。

 

 夏の日の午後、病室で他愛もない話が続く。以前も感じたが、百合子は本当に柔らかな雰囲気を持った人だった。


 穏やかに笑顔を絶やさず、それでいて、他者に気を使う事を忘れない。素敵な人だな。知り合って間もない百合子に、はるはすっかり魅了されていた。

 

「あの、先日ご馳走になったので、お口に合うか分からないんですが」

 

 はるは、リュックから水筒を出した。コップに注がれた液体は

、黒かった。

 

「まあ、何かしら。これ麦茶?」

 

 百合子がコップを覗き込む。


「黒焼き玄米茶っていいます。焼いた玄米を煮出した飲み物です。血を綺麗にする効果があります」

 

「まあ、なんだか体に良さそうね」

 

「私の両親、食べ物には気を使っていて。この黒焼き玄米茶も、うちの家族が常飲しているんです」

 

 今、自分が健康でいられるのは、両親がちゃんとした食べ物を、食べさせてくれたおかげかな。一瞬そんな思いがはるの頭を過る。

 

「はるちゃんを見てたら、効果は保証されてるって分かるわ。ありがたく頂くわね」

  

 百合子は微笑んで両手でコップを受け取り、玄米茶を口にした。

 

「まあ、苦そうな色をしているのに、そんな事ないのね。なにかしら、これ麦茶に味が似てるわね」 

 

 百合子は以外そうな顔をはるに向けた。

  

「はい。以外と飲みやすいんです」

 

「本当ねえ。とっても美味しわ。ありがとうはるちゃん」

 

 良かった。百合子さんは喜んでくれた。これで百合子の体調が良くなるなんて、甘い考えは持っていないが、微力でも助けになればとはるは思う。


 今日は来て良かったと、満足感に浸った時だった。百合子は咳き込んだ。コップを床頭台に置き、両手で口を抑える。

 

「百合子さん?大丈夫ですか?」

 

 百合子は、片手をはるに見せた「大した事ないわ大丈夫よ」と言いたかったのだろう。

 

 咳は止まらない。刻一刻と激しさは増していった。百合子の腰が曲がり、ベットに倒れ込むように胸を抑えている。


 病室が緊迫した空気に包まれる。ほかの入院患者、その家族達から不安そうな視線を集めた。

 

「百合子さん!百合子さん!」 

 

 はるは狼狽した。どうして?自分が百合子に飲ませたお茶に、毒でも入っていたのだろうか?


 混乱したはるだったが、最低限やらなくはいけない事があった。頭より体が先に動いた。左手の指で、ナースコールのボタンを押す。


「高坂さん、どうされましたか?」

  

 女性の声が、ボタンの下のマイク口から聞こえてきた。

 

「お茶を飲んだ後、激しく咳き込んでます。呼吸も、苦しそうです!」

 

 はるは手短に、口早に答える。

 

 後は百合子に呼びかけながら、背中を擦。無力な自分には、これくらいしか出来なかった。

 

「母さん?母さんどうしたの!?」

 

 後ろから少年の声がした。知ってる声だ。

 

「高坂?」

 

 声の主は、高坂徹だった。母を心配する顔に驚きの表情が加わった。

 

「丘ノ上?なんで······」

  

 守が言い終える前に、部屋に女性の看護師が入ってきた。

 

「高坂さん、声聞こえますか?聞こえていたら、右手を握り返してください」

 

 後から来た男性看護師が、ストレッチャーを運んで来る。百合子が処置室に運ばれていく迄、はるは銅像のように、ただ立ち尽くしていた。

 

 病院の長い廊下に、はるはいた。目の前のドアには、診察室ニと表記されている。その左右にも二つの診察室があり、他の患者や家族が出入りしていく。

  

 ソファーもあったが、座る気にはなれなかった。天井の照明が寿命が近いのか、時折点滅して暗くなる。それは自分の心細さを、照明が代弁しているかのようだった。

 

 診察室のドアが開いた。担当医から説明を受けた高坂徹が中から出てきた。

 

「もう大丈夫だから安心して」

  

 はるが安心出来るよう、徹は穏やかにに言った。

 

「本当に?······良かった······」


 力を使い果たしたように、はるの膝は折れ、ソファーに座り込んだ。

 

「ごめんなさい······私がへんな物を百合子さんに飲ませたから」

 

 顔を俯けながら、はるは小声で謝る。

 

「違うよ。丘ノ上のせいじゃない。ちょっと気管に入っただけ」

  

 はるは黙ったまま俯いている。

 

「母さんここの所、あんまり調子が良くなくて。ちょっと大袈裟になっただけだよ」

 

 医者の話では、はるが持ってきたお茶は、消化に負担のかかる玄米だから、今は控えたほうがいいとの事だった。

 

「母さん言ってたよ。せっかく来てくれたのに、ごめんなさいって伝えてくれって」

 

 はるは、無言で頭を左右に振った。

 

「それにしても驚いたよ。母さんが言ってた若い友達って、丘ノ上だったんだね」

 

 以前、はるがクラスで転倒した時、徹は心配して追いかけて来てくれた。やはり徹は、その後百合子を見舞う為、病院に行ったのだろう。

 

 その話をすると、徹は苦笑した。

 

「見舞いは週に三回まで。それ以上来るなって言われてるんだ」

 

「どうして?」

 

「自分は病院生活で、一人の気分を楽しんでいるからって。今まで家事や子育てで一人になれる事が無かったから。それが理由」

 

 それは百合子の気遣いだ。はるは、自分が分かるくらいだから、当然徹も気付いている筈だと思った。

 

「私が言う事じゃないけどけど、バンドに時間取られて大丈夫?」

 

 半ば強引に徹をバンドに引き入れた、中津川守の顔が浮かんだ。余計な奴が、余計な事をしたものだと、はるは腹立たしくなる。

 

「それが逆でさ。文化祭でバンド演奏やるかもしれないって言ってたら、すごく喜んでたんだ」

 

 ピアノをあまり弾かなくなった息子が、文化祭の舞台で演奏する。母親にとっては、やはり嬉しい事なのだろうか。

 

「ボーカル、見つかりそう?」

 

「それがまだ、こればっかりは仕方ないよ」

 

 徹と話している時のこの感じ。はるは、思い出した。百合子と話している時と似ているのだ。


 穏やかで安心できる。百合子の穏やかさを徹はしっかり受け継いでいたのだ。

   

 照明がまた点滅した後、一瞬明るく光った。天井を見上げながら、はるは、ある事を考え込んでいた。

 

 はると徹が、丘登園総合病院で遭遇した翌日。余計な事が得意な少年、中津川守は放課後、音楽室にいた。バンドのミーティングの為だ。熊本元康と彦根五郎はもう来ていた。

 

 あとは、高坂徹が来るのを待つのみだ。守は、皆に告げるつもりだった。ボーカルは自分がやるという事を。

 

「中やん、大丈夫?深刻な顔してるけど」

 

 熊本元康が声を掛けてくる。今日も彼は妙なTシャツを着ている。シャツには、〔始まったのは 青春か恋か?〕と書かれていた。

 

「マモー、なんや悪い知らせかいな?」

 

 彦根五郎も心配そうにする。夏場で痩せたのか、細い顎がさらな細く見えた。

 

「高坂が来て、皆揃ったら言うよ」

 

 ギター担当の自分がボーカルを兼任する。本来なら、避けたかった事だ。守は、バンドのリーダーとして、全体を見なければならない。


 練習でも本番でも、メンバーに注意を払い、何かあればフォローも必要だ。とてもじゃないが、ボーカルを兼任する余裕は無かった。

 

 ボーカルは、歌う事に全神経を傾けなくてはならない。片手間に出来る役目では無かった。


 しかし、この碁に及んでは、兼任もやむ無しという状況に陥った。もう時間が無かったからだ。本番での困難さを想像して、守は深いため息をついた。

 

 徹が音楽室に入ってきたのは、守が三回目のため息をつこうとした時だった。徹の後に、もう一人教室に入ってきた。丘ノ上はるだ。

 

「中津川、熊本に彦根。ちょっと話があるんだ」

 

 徹が皆に声をかけた。三人が徹とはるの前に集まる。

  

「その、実は丘ノ上が」

 

「高坂、私自分で言うよ」

 

 はるが徹の言葉を遮る。徹は頷いた。

 

「このバンドのボーカル、私で良かったらやらせて下さい」

 

 はるは、言い終えると三人に頭を下げた。時間にして数秒かかったが、三人はこの状況を理解した。

 

「ま、マジで?やってくれるのか、丘ノ上!」

 

 守の顔が、不審から歓喜に変わる。この瞬間、中津川守ランキングでのはるの順位は、十二位から十一位になった。


「はるやん、ありがとう」


「はるっち、おおきに!」

 

 元康と五郎がさりげなく、そして馴れ馴れしくはるの名前を叫ぶ。

  

「ハッキリ言って、歌や音楽の事は全然分からないけど、頑張るから」

 

 徹から見たはるの表情は、迷いが無かった。これと決めたらブレない性格なんだな。昨日から、丘ノ上はるという人間の一端を、徹はいくつも見たような気がした。  

  

 他人に関心が無さそうに見えるけど、好意を持った相手には義理堅い。百合子の為、徹の演奏が実現出来るよう、ボーカルの役目を引き受けたのだ。


 いい娘だな。背筋を伸ばしたはるの背中を見ながら、徹は思った。

  

 はるは一日前と今日の自分の状況が、全く変わったしまった事に、まだ実感が追いついてなかった。


 しかしもう後には引けなかった。文化祭でこのバンドの演奏が実現するよう、自分が出来る事をしようと思った。

 

 この時はるは、何か時間に追われているような感覚に襲われた。理由は自分でも分からない。


 ただそんな気がした。それは初めて百合子の痩せた姿を見てから、はるの中に残り続けた感覚だ。

 

 その不鮮明な気持ちを言語化すると「もうそんなに時間がない」だったが、今は目の前のやるべき事で頭が一杯であり、具体化もしてない、自分の気持ちを追求する余裕は、十七才の少女には無かった。

 


 七月ニ週目の水曜日。丘ノ上はるは、朝から携帯音楽プレイヤーで音楽を聴いていた。

 

「珍しいわね。はるが音楽を、それも朝から聴くなんて」


 母の幸恵が土鍋に味噌を溶かしながら言った。

 

「借り物。音楽の補習で必要なの」

 

 その音楽プレイヤーは、中津川守から借りた物だった。中には文化祭で演奏する曲が入っていた。音楽をあまり聴かないはるも、耳にした事がある有名な曲が多かった。

 

 まず、歌詞と曲を覚える。中津川守からお願いされた最初の課題だった。

 

 はるは三年熟成された味噌汁を口にした。味噌の量が少し多かったが、汗をかく夏には丁度いい。同じく三年漬け込んだ梅干しをかじる。口の中に広がる酸味が、食欲を増進する。


 和食の時、はるは必ず味噌汁、梅干しの順番で食事を始める。ズッキーニと玉ねぎの炒め物も塩気が効いてて美味しかった。

   

 丘ノ上家は夏に限らす年間を通して、しっかり塩気のあるものを食べている。塩気は血を綺麗にしてくれるという考えだった。 


 市販の塩はミネラルが少ない為、昔ながらの製法で作られている塩を取り寄せている。口にする食材や調味料に厳しいのは、父の心太だった。


 良くも悪くも、本などから影響を受けやすい性格の人だ。新婚当初、母の幸恵は正直ウンザリしていたという。

 

「買い物の時、いちいち商品の裏見て添加物見ろっていうのよ?おかしいでしょ?」

 

 昔の愚痴を幸恵から聞いた事があった。ところが、いつのまにか幸恵のほうが食事に関しては厳しくなった。


 スーパーで添加物だらけの商品を買おうものなら、即座に商品棚に戻してしまう。

 

「それもこれも、心太から影響を受けたせいよ」

  

 夫婦は似る、と言うのは本当かもしれなかった。

 

 窓の外からは、木にしがみつきながら鳴く蝉の声がした。この暑さのせいか、蝉の鳴き声も辛そうに聞こえた。


 力なく木の下に落ちる蝉は、寿命なのか、暑さのせいなのか判断がつかなかった。

  

 はるが住む街には、小学校、中学高、高校が複数ある。これらを全て含めたエアコンの普及率は、ニ年前の統計で四十九%だった。はるが通う高校は、幸運にも五十一%には入らなかった。

 

 空調の効いた音楽室で、男子四人、女子一人が集まっている。


う「手元にある用紙を見てくれ。文化祭当日までのスケジュールを書いてみた」

 

 中津川守は他の四人に説明している。メンバー全員、ピアノの前に腰を下ろしていた。

 

「用紙にあるとおり、練習が休みの日数を引くと、四十日弱しかないんだ」

 

 はるはその練習日数が長いのか、短いのかすら分からなかった。

 

「最初に言っとくけど、俺は完璧な演奏をしようなんて思ってないから。出来る範囲で最善を尽くそう」

 

 はるは先程から手際よく話を進める、中津川守を訝しげな目で見ていた。軽くていい加減そうな奴だったと思ってたのに。案外、この演奏に対して真剣なのかもしれない。

 

「熊本、彦根、高坂。自主練の進捗状況は?」

 

「うん。毎日やってるのよ。ドラム一式は、父ちゃんがこらから、軽トラで持ってきてくれる」

 

 後から聞いたが、熊本元康の家は、自営業で酒屋さんを営んでいるという。ドラムも元康が家の仕事を手伝い、その対価として買ってもらったという。


 それにしてもこの元康は、いつも文字が書かれたTシャツを着ている。先日、この音楽室で初めて見かけた時もそうだった。


 母の影響か観察癖があるはるは、それを見逃していなかった。今日の元康のTシャツには〔あなたを知れば知るほど〕と書かれていた。

 

「俺も毎日やっとるで。最近、漫才ネタも作らす真面目にな」

 

 彦根五郎が、得意気に答える。関西からこちらに来たのだろうけど、地元の言葉を使い続けるのは、こだわりがあるのだろうか?


 生まれも育ちも神奈川のはるにとって、そこら辺はよく分からなかった。

 

「俺も可能な限り音楽室で練習してるよ」

 

 はるは急に合点が行った。自分が高坂のピアノを初めて聞いた時、徹は文化祭演奏の練習していたのだ。


 その一週間後にまさか自分も一緒に練習するとは。はるは想像すら出来なかった。

 

「高坂はお袋さんの見舞いがあるから、全体練習に参加できない時があるけど、皆よろしくな」

 

 はるの中で、百合子の顔が浮かんだ。もう体調は落ち着いただろうか。

 

「丘ノ上、曲の聴き具合どうだ?」

 

 守は最後にはるに聞いてきた。

 

「まだ憶えるまでは時間がかかりそう」

 

「十分だ。焦らずやってくれ。あと丘ノ上は、バンド演奏なんて初めてだからさ。俺達がしっかりフォローするから心配すんなよ」


「う、うん」

 

 こいつは、こんなに仕切り屋キャラだったのか? 守に対して今までかなり辛辣な評価だったはるは、少し戸惑っていた。

 

「あと、皆も知っての通り、吹奏楽部が休部中だから、この音楽室はかなり自由に使える。んで俺達と同じく、文化祭で演奏予定だったほかのグループが、出演を取り下げたらしい」

 

 守の仕入れた情報によると、そのバンド内メンバー同士で色恋沙汰がこじれて、練習どころじゃなくなったらしい。

 

「と、言う訳で、文化祭演奏は、俺たちワンマンになりそうだ。あ、音楽室が自由に使えるからって、後片付け、掃除、戸締まりは、しっかりやるからな。あと使える時間は、カガッチの帰る時までな」

 

 カガッチとは、担任であり、音楽室管理責任者の各務勤の事だ

 

 この茶髪とピアスの軽そうな男は、学級委員か?はるは、中津川守が分からなくなってきた。

 

 熊本元康のスマホが鳴る。どうやら元康の父の軽トラが到着したらしい。その時、はるは高坂徹の表情に違和感を感じた。


 何か変だ。スマホの着信音が鳴った時、徹は何かに怯えたように見えた。しかし徹は、すぐにいつもの表情に戻っていた。気のせいだろうか?

 

 全員でドラム一式を運ぶ為、音楽室を出る。廊下を歩きながらはるは思った。自分が他人と苦手な共同作業をする。それも自らが望んだ形で。

 

『不思議だな』

 

 形容し難い感覚が、はるの胸の辺りをざわつかせていた。

 

 



 


 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 




 

  

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 








 



 

 

 

 



 


 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 




 

  

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 








 



 

 

 

 

 

 




 

 

 

 

 

 

 

 


 


 

 




 

  

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 








 



 

 

 

 

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