花食い
「ネツァ様ぁ、よかったらあたしの部屋に行きませんかぁ?」
甘ったるい声に呼ばれ、ネツァーラグは振り返った。
肩まで下ろした亜麻色の髪に桜色の目。瞳の色に合わせた赤みの強い化粧。露出した胸元にはパンデモニウムの刻印が刻まれ、豊かな胸を強調するような服装。
"幸甚"、フェーヤ・フェーユ。パンデモニウムがカーディナル級、十章衆。
それらを視界に認めながら、ネツァーラグは肩を竦めた。
「様付けは不要だろうに、"幸甚"」
カーディナル級とオーダー級の間には上下などない。パンデモニウム内の上下関係からオーダー級が独立しているために、カーディナル級とオーダー級、レッター級とオーダー級は上でもないし下でもない。
「いちお、センパイですしぃ、様って呼ぶのもひつよーかなってぇ」
甘ったるい声で語尾を伸ばし、まさに媚びるといった言葉が似合う語調で言うフェーヤにネツァーラグは内心で鬱陶しそうに溜息を吐いた。
この女のそれは、パンデモニウムという集団への加入時期の前後を気にして、などという律儀なものではないだろう。単に媚びたいだけだ。
その気になればカーディナル級、それどころかパンデモニウム第1位"デューク"も第2位"アークウィッチ"も手にかけることができるオーダー級の地位に。
その筆頭たるネツァーラグを色仕掛けで籠絡し、その権力と地位で自分の邪魔者を追い落とす。そうする第一歩としてネツァーラグをベッドに誘うための媚びた態度だ。
そんなものとっくに見抜いているのでネツァーラグは彼女の誘いに乗ったことはなかった。今回も乗る気はない。
「悪いけど仕事が溜まっていてね。……浮き足だった馬鹿どもの引き締めに追われているのさ」
その馬鹿には彼女も含まれているのだがそれは言わないでおく。適当に断りを入れて会話を打ち切ろうとする。
ネツァーラグはこの女が嫌いだった。強者や権力者に媚びて地位を得ようとする態度は、力を持たない人間なりに上に這い上がろうとする手段として認めるとして。
それよりも、この頭も貞操も軽薄そうな女の色仕掛けで自分が籠絡できると思われていることが嫌いだった。
可愛らしさやあどけなさを追求した結果なのかどうなのかネツァーラグにはわからないが、あの赤を強調した化粧など、目元を殴られ腫れたように見える。本当にそうなるように、そうしてやろうかと思ったことさえある。化粧の手間が省けてちょうどいいだろう。
露出が多い服装も、色気を通り越してみっともない。下品だ。胸の頂点でかろうじて引っかけているような服など品がない。
どこを見ても劣情よりも嫌悪感が勝つ。ネツァーラグはこの女が嫌いだった。
「ええ? なんでぇ?」
それくらい他のオーダー級にやらせればいいのに。グランド・オーダーたるネツァーラグがやることではない。
そう言ったフェーヤはネツァーラグの手を取った。するりと腕を絡めてその豊かな胸を押し付ける。
「ねーぇ?」
紅を乗せた唇が猫撫で声で囁く。その辺の男ならば劣情を煽られるのだろうがネツァーラグにとってはただひたすら鬱陶しいだけだった。
「それともぉ、あのコが忘れられない?」
黒くて艶やかな長い髪の。昔日、ネツァーラグの恋人であった彼女。ねぇ、と猫撫で声が言葉を紡ぐ。
「……うるさいよ」
その言葉はネツァーラグの地雷を踏んだ。怒りに顔を歪めてネツァーラグは普段より数段低い声でフェーヤを振り払った。
貴様ごときがその名を口に出すな。吐き捨てて足早に踵を返して立ち去る。
「あん、ホンキで怒んなくたってぇ」
それを見送り、フェーヤは懲りた様子もなく肩を竦めた。
直後、すこんと何者かに頭を叩かれる。痛いと叫んでそちらを向くと、そこには同僚がいた。同じく十章衆、それも筆頭のマズルカがいた。
「彼の地雷を知ってるだろうに。あの人を引き合いに出すのはよくないよ」
それほど忘れられない女性なのだろう。それを嫌悪する相手に引き合いに出されては不愉快だろう。
パンデモニウムの設立、十章衆の結成以前からネツァーラグの隣にいて、そして死んだ彼女のことは当時面識があった者のみしか記憶に残っていない。十章衆とて、ネツァーラグに恋人がいたことくらいしか知らない。名前も容姿も知らない。
パンデモニウムがただのならず者集団であった頃の一員であったのだが、不思議なことに、彼女はそれほどの古参でいながら、その当時からいた人間、セシルやドラマクもその存在を口にしない。まるで最初からいなかったかのように。
そう書くとまるで記憶を操作する武具で何かをしたかのように思われるが、本当にそうしたわけではないだろう。パンデモニウムの頂点に匹敵するセシルがそんな精神干渉を受けるはずがない。精神に干渉する武具は術者と対象の魔力差で成功率が変わる。セシルほどの魔力ならば生半可な精神干渉は効かない。
だから彼女の存在が語られないのは、両者とも無視しているのだ。感情が乏しいセシルは死んだ人間に対し心底興味がなく、研究者のドラマクは実験に関係ないのなら認識の外だ。
ネツァーラグだけが彼女の存在を記憶しているのだ。だからこそ、ネツァーラグは彼女の存在に固執する。誰も言及しない彼女について。
「ということだ。踏んでやるな」
「はぁい」
ところで、と。説教を受けたにも関わらずフェーヤは堪えた様子もなく話題を変える。
「ねーぇ、このあとあたしの部屋に行かない?」
「お断り。寝首を掻かれたくはないからね」
「やだぁ。ちょっとナニで気持ちよぉーくさせるだけなのにぃ」




