幸甚に尽きる
時は少し遡る。
戦争前という雰囲気にふさわしく、パンデモニウム内は浮き足立っていた。
おそらく、"コーラカル"の軍隊は南の氷原を目指して船でやってくるだろう。というのがパンデモニウムに属する者たちの共通した認識であった。あそこ以外、大勢がやってこられる場所がない。
"ラド"での奇襲は考えていない。"ラド"なら一度行った場所なら何処へだっていける。だが転移に巻き込めるのは10人程度。"ラド"は大軍を送り込むには絶望的に向いてない。小数精鋭を要所に送るとしても、年中吹雪が舞うこのシャロー大陸に誰が来たことがあるというのだ。パンデモニウムが拠点を構えるまで、ここは生物が存在しない極寒の大陸だった。
だから"ラド"での到着も奇襲もまずない。大軍を送り込むために船で乗り付けてこようとするはずだ。
まずは海戦。しかしそこにはキロ島襲撃艦隊を退けた鯨の神が付き添うはず。ナルド海の海竜もそこに加わる。3匹の神を護衛に"コーラカル"は氷原にたどり着く。
そこからは"コーラカル"とパンデモニウムの白兵戦。殺すし、殺される。"コーラカル"が前線を押し上げ拠点までたどり着くか、パンデモニウムが"コーラカル"を返り討ちにするか。もし返り討ちにした場合、近場のラピス諸島を手始めに世界をパンデモニウムが覆う。
それがパンデモニウム全体に蔓延する見通しで、来る白兵戦に備えて誰もが恐々とし、誰もが嬉々としていた。
それらを眺めながら、十章衆サンドリア・ザントアウアは呟いた。
「あたくし、いいことを思いついたの」
にっこりと。心からの善意の笑みで彼女はそう言った。
サンドリアは何か思いついたとき、その確実性や成功率や効果的さに比例して笑みが深くなる。つまり彼女がこんないい笑顔をしたということは、それほど妙案であるということだ。
「あらぁ、ナニ考えついたんですかぁ?」
その話に乗ったのは"幸甚"フェーヤ・フェーユだった。サンドリアがこんないい笑顔をしたのだ、聞く価値はある。
戦いを控え、槍を磨く"狂信"ジャーベル・グリアノーテも顔を上げた。
「あのね、今、戦争前って皆言ってるじゃない?」
パンデモニウムだけでなく世界も。皆が戦いを前にしてざわついている。戦いを怖れない者、怯える者、喜ぶ者、悲しむ者。様々な人間が交錯し、ひどく不安定な状態にある。
「あのね、あたくし平和主義者でしょ、だから戦わないにこしたことはないと思うの」
「……それは主の思惑への裏切りか?」
ロシュフォルは世界を手に入れろと言った。世界を支配するために逆らう人間を皆殺しにする。それが誓った忠義だ。
忠義に反するのかとジャーベルは鋭い視線をサンドリアに向けた。主たるロシュフォルの命令に反するならば同胞とて斬る。狂信者はサンドリアを見据えた。返答によってはこの槍がまずこの女を刺し貫く。
「ベイト! 待って! あのね、余計な血は流したくないっていうこと!」
早とちりをしないでほしい。ロシュフォルの思想に反して非戦を主張したいわけではない。咄嗟に飛び出してしまった砂語を慌てて言い換えながらサンドリアは降参するように両手を挙げた。
銀の槍のような視線はまだサンドリアを貫いている。同胞の情けで言い訳は聞こう、答えによっては槍の犠牲者だ、と言いたげな顔をしている。
これだから過激派は困る。内心愚痴りながらサンドリアは弁明を続けた。
"コーラカル"が全滅するまで殺すのは賛成だ。だが、"コーラカル"に属する人間たちに自分の思想を考え直す機会を最後に与えてやってもいいと思うのだ。思い直した結果、服従を誓うなら受け入れるし、抵抗を続けるなら殺す。
「あん、結論から言ってよぉ。それでぇ?」
焦れてフェーヤが急かす。思い直させる機会を与える方法が、きっとサンドリアが思いついた"いいこと"なのだろう。
「あのね、それで、あたくし考えましたの。奴らに考え直させるにちょうどいい方法ってなにかって」
それはつまり。
「あのね、ビルスキールニルとかいう島を完膚なきまでに壊せばいいと思いますの」
前回は人だけだった。そうではなく、建物も、島も。宙に浮くあの島を海に落とす。
5年前、我々の出現を示したあの事件を再び起こす。そうすれば"コーラカル"も考え直すはず。
"コーラカル"の筆頭は生き残りの皇女だ。あの娘が"コーラカル"の芯だ。あれの心の寄る辺は故郷の存在である。
その故郷が砕かれ、海の藻屑となったらどうなるだろうか。きっと皇女は絶望するし、心が折れた皇女を皮切りに組織は瓦解する。
そこにパンデモニウムが降服勧告を告げる。服従を誓うならそれを受け入れると。これで揺れない人間はいない。皇女は服従を誓うなら首を吊る方がましと言ってそうするかもしれないが。皇女以外の人間はどうだ。
「あのね、ね、いい案でしょう?」
ビルスキールニルに現存する生き残りは皇女を除いた3人。それらを殺して死体を吊るし、島を砕く。
あぁ、なんていい案だろうか。サンドリアはうっそりと笑った。
「それならあたしに行かせてよぉ?」
ビルスキールニルには借りがある。悪い思い出だ。5年前のあの日、迎撃されて海に突き落とされた。宙に浮く島から突き落とされ殺されかけた。"幸甚に尽きる"事態がなければ死んでいただろう。
あの時を思い出し、フェーヤは怒りに燃える。それをせしめた男はビルスキールニルにいて、生き残りの1人としてのうのうと生きている。殺して海に突き落としてやらねば気が済まない。
「面白いことを考えてるね」
「やん、マズルカ様ぁ、いたんですかぁ」
割り込んできた声にフェーヤは素早く立ち上がり、身体をくねらせて媚を売る。すかさず腕を絡ませようとすり寄っていた。
有力な地位の人間とみればすぐこうだ。甘ったるく絡んでくるフェーヤの腕をさりげなく避けながら、十章衆筆頭、マズルカは会話の席に混ざった。
「ビルスキールニル再襲撃か、いいと思うよ。何人か行っておいで。アークウィッチには僕が言っておくよ」
行ってらっしゃい、とマズルカは微笑んだ。まるでお使いに行く子供を見送るかのような穏和な笑みだった。
「やったぁ! じゃあどうしようかなぁ」
誰に声をかけるか。フェーヤは思案を始めた。
あまりぞろぞろ連れていくのもひとりあたりの手柄が減るし、かといって数が少なすぎて島を砕けませんでしたと応援を呼ぶのも恥ずかしい。確実に仕事を遂行できそうなのは。
「あーぁ、ビルスキールニルに旗印のふたりもいればいいのになぁ」
そうしたら島のついでに殺してしまえる。より強く深く世界に絶望を与えることができるのに。フェーヤは何気なくそう呟いた。




