氷神と猟矢
この神殿は神の住居ではない。世界にあらゆる信仰のかたちで存在する神が一時的に具現化する場所だ。
訪れた者が思い描く容姿と性格をして姿を現す。神という曖昧な概念が解釈と想像を介して神という確固とした存在になる神聖な場所である。
その神殿の扉をアッシュヴィトが開ける。中にはすでにアッシュヴィトの解釈と想像を元にして形を取った神が座している。氷神フレスヴェルグ。怜悧な氷の女神だ。
氷でできた髪飾りを揺らし、かの女神は来訪者を見据えた。青い目が主へ射抜くような視線を向ける。それに片手を挙げて応じながら、アッシュヴィトは足元の敷物を指した。
「サツヤ、とりあえず座っちゃって」
神殿の中は出入り口以外の扉はなく、また窓もない。天井を支えるための柱が並んでいる以外、内装らしいものもない。神が座るために一段高くしつらえた壇があり、神と対面する人間が座るために床に敷物が敷いてある程度。壁や柱に装飾も何もなく、また敷物も貴色である銀灰色の無地。
一見、簡素で粗末にも見える単調な内装だ。だがその単調さを塗り潰すほどに目の前の神の存在は鮮烈であった。
「えぇと、お邪魔します」
ぺたりと敷物の上に座った猟矢は頭上を仰ぎ、壇上の女神を見た。氷神フレスヴェルグの長い睫毛に縁取られた青い目をまっすぐ見返す。
アッシュヴィトの解釈により形をなした神は、氷というものの概念をそのまま形にしたような姿をしていた。冷気を思わせる青白い肌を包むドレスの裾のレースには雪の結晶の刺繍があしらわれている。白から濃紺へグラデーションしながら肩から足下へと続く模様は下にいくほど密度が高くなり、夜に吹雪く深雪を連想させる。
成程。氷の女神と言われてだいたい想像するだろう姿だ。
「んじゃ、アトはごゆっくりー」
なんとなく自分は退場しておいた方がよさそうだ。直感がそう告げている。アッシュヴィトは猟矢を残して踵を返した。
神殿へと続く道は白き祈りの空の街道と同じく両脇に結晶が乱立している。神殿前にあるのは歴代王族の結晶だ。アッシュヴィトの両親もまたここで結晶となって朽ちた。
猟矢と氷神の対話が終わるまで、それらの見舞いでもしておこう。時間がかかるようならば先にラクドウたちの元へ戻って改めて挨拶をしておくか。
そんなことを告げてアッシュヴィトは神殿の扉を閉めた。あとには猟矢と氷神のみが残された。
神が降り立つ神殿であるが、室内には氷神以外の気配はない。空気を読んで顔を出さないでいるようだ。
「フレスヴェルグ……さん?」
さんと呼んでいいのだろうか。呼び捨てというのも失礼だし、神だからといって様付けは慣れない。呼び方にやや困っていると、普段通りの言葉遣いで結構、とフレスヴェルグが首を振った。神に対し無礼だのなんだのといった堅苦しい礼儀作法は抜きでいい。どうせ誰もそんなことは気にしないのだから。
「俺、あなたに聞きたいことがあって」
「根幹の子よ」
真実を司る女神は猟矢の問いなど見抜いているようで、猟矢が問うより先に口を開いた。
「用件は承知しています。この世界が終わるかということですね?」
この世界は猟矢の創造によるもの。だとするならば、もし猟矢が現代に戻り、創作に手をつけたならこの世界はどうなるかということだ。忘れ去っていた創作たちを掘り起こし、途中放棄した物語を再び紡いで完結させたら。そうしたらこの世界はいったいどうなるのだろう。
書いた続きはこの世界に反映されるのだろうか。書いた結末に従って歴史は紡がれるのだろうか。書いたキャラクターに基づいた英雄が生まれ悪人は死ぬのだろうか。創作物たちに完結のピリオドを打った瞬間、この世界も終止符が打たれ消滅してしまうのか。
それが聞きたくて猟矢はここに来たのだ。そしてその答えは真実を司る女神が持つ。
「否、と答えましょう。ある一点の瞬間から我ら世界は生まれました」
いつだか、それはある一点の瞬間だ。その瞬間、この世界は形を得た。神代から現在まで歴史は存在しているが、一点より以前のそれまでの歴史は"そうあったもの"と設定されて人々の記憶に刻まれた。そうしていきなり唐突に世界は生まれ出た。
「世界5分前説ってやつ?」
思考実験のひとつだ。この世界はたった5分前に作られたもの。それまでの記憶や歴史は"そうあったもの"として設定されたもので実際に時間が流れたわけではない。設定として思考に刻まれたものを記憶だと言っているにすぎない。そんな論だ。
フレスヴェルグの言うことはまさにそれだった。さすがに思考実験通り5分前ではないだろうが、何年か、何十年か。実際はそれだけしか歴史を持たず、それまでは"そうあったもの"として設定されたもの。
「えぇ。そうです。そして、生まれ出たそこから2つの世界が交わることはありません」
設定されてから以後は自然に任せ、流れるように連綿と茫洋と続いてきた。世界ができた以降に生み出された猟矢の創作には影響されることはなくだ。
創作を基盤としているが、創作に影響されはしない。2つの世界は独立している。
だからもし、猟矢が現代に戻り創作の続きを書いたとしてもこの世界に何の影響もない。逆もしかりだ。作品にピリオドを打ち完結させたとしても、だからといってこの世界がぷつりと立ち消えるわけではない。
「だから存分に衍字を削除なさって構いませんよ」
文中に挿入された字余りの誤字と猟矢が例えたことを真似してフレスヴェルグが指したそれはパンデモニウムのことだ。
この世界が歪んだ原因。パンデモニウムという誤字がいる限りこの世界という物語は永遠に邪魔される。余計な文字のせいで物語が正常に紡げない。だからその衍字を取り除きこの世界を正常に戻す。それは猟矢の決意でもある。
「あなたが元の世界に戻ろうとも、この世界は変わらず在り続けます。影響されることも、ましてや壊れることもありません」
だから安心してください。そう言ってフレスヴェルグは微笑んだ。寒さ厳しい冬の日の小春日和の日差しのような微笑みだった。




