貧乏サラリーマンとあの娘が働く小さな定食屋
雨の降る寒い11月のはじめ、一人の青年は雨に濡れながら全速力で走っていた。風は強いしとにかく指の先が冷たいが、走らなければもっと寒くなると自分を奮い立たせて一つの定食屋へと向かう。人気のない道を真っ直ぐ走ると、そこには小さな定食屋『美海』がある。青年は会社から止めていなかったその足を初めて止める。日本式の戸を開けるとデーブルが八卓あり、その周りにはそれぞれ四つの椅子が置かれている。入り口で髪や服についた水滴を軽く拭き取っていると小柄な短い黒髪の黒いエプロンをした女性が彼のもとにやってきた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですよね?」
「はい」
「ではこちらへどうぞ、いやーそれにしてもすごい雨ですよね?」
青年は頭を縦に振り彼女に同意する。彼女は美海といい髪は首元まであり、目は少しタレ目、そして微笑む姿は満開の桜のように美しくもあり可愛らしくもある。青年は暇な時や寂しいとき、貧乏でひもじい思いをしているとき、仕事をしているとき、友人と喋っているときでさえ彼女のことを考えている。いま青年は『美海』に恋をしている。
今日はすごい雨だ。彼は来てくれるだろうかと彼女は誰もいない温かい店内を見ながら思う。母はいまキッチンで新メニューを開発しているが、もうこの定食屋も長くはないだろうと彼女は悟っているが、母はどうなのだろうか? こんな人気のない場所に定食屋を立てたときからもうこうなると分かっていたはずだが.......しかし、この客のいない定食屋で客を待つのも悪くないと彼女は思っていると、ガラガラガラと戸を開ける音がする。彼が来てくれたのかと彼女は目をつむって思う。そして、カウンターから出ると彼女は優しく
「いらっしゃいませ。」
と言う。その言い方はまるで母親が子供に『おかえりなさい』と言ってるようにも聞こえる。
彼は『優さん』といい、とても静かな人で口数が少ない。それでいてあまり笑わないから最初はちょっと変な人だと思っていたが、一ヶ月ほど前からほぼ毎日九時頃、閉店の前になると彼はやってくるのでもう慣れた(?) 今日の彼はいつもと違って少し頬が赤いし、少し息もあがっているようだが走ってここまで来たのだろうか? そんなことを考えながら彼女は彼に話を振り席へと案内する。彼を席に案内し終わると、
「ご注文はいつものでいいですか?」
と聞くと、
「はい、お願いします。」
と礼儀正しく彼が答える。同じ会話を彼と何度もしたなと彼女はキッチンに向かいながら思う。
別に優さんに恋しているわけではない。確かに少し気になってはいるがこれを恋とは認めない。いや、認めれない。なぜならば、恋というのは好きな人のことをずっと考えているものだと、彼女が思っているからだ。実際、朝起きれば『今日はどれくらいお客さんが入るかな』と考えているし、昼間お客さんがそれなりに店にいるときは『忙しいな』と思っているし、夕方お客さんがいなくなれば『今日も疲れたな』と思う。そして、やっと八時くらいになると、『今日も彼は来るのかな?』と考え始める。よって、彼のことをずっと考えているわけではないのでこれは恋ではない。ただ彼のことが気になるだけだ。それだけだと彼女は自分で納得すると母親にメニューを伝える。すると、母親は、
「いつもの方でしょ? この味噌汁余っちゃったから、サービスで出してあげな。」
舌を出しウインクをしながら自分の頭をげんこつしている母親は自分の年齢を間違えてしまうほどにボケてしまったのだろうか? ボケというのは進行がここまで早いとは知らなかったと、どうでもいいことを考え『優さん』に出す料理を作る。
『今日の彼女はポニーテールで可愛かったな』
と考える彼の手の中には二枚の遊園地のチケットがある。たまたまくじ引きで当たった二人分のこのチケットを今日こそ彼女に渡そうと彼は心のなかで決意する。一週間前にこのチケットを手に入れすぐに彼女を誘おうと決めたがまだ彼女には言い出せていない。
「今日こそは絶対に言おう!」
そう力強く呟くと、
「何をですか?」
すぐ目の前に注文した料理を持ってきた彼女が立っていた。
「わぁ!!」
彼がそう小さく叫ぶと、
「大丈夫ですか?」
と彼女が心配そうに聞いてくる。
「え、えぇ大丈夫です。」
少しテンパりながらそう彼が言うと、彼女は注文したご飯と生姜焼き、そして、大根の漬物を彼の前に置く。そして、カウンターに戻っていく彼女を見つめながら、手に握りしめているチケットのことがバレなかっただろうかと心配になるが、腹が減っている彼はいつもどおりの夕飯を眺める。しかし、彼はそこに頼んでいない味噌汁が置かれていることに気が付くと、
「あのーすみません。味噌汁は頼んでないと思うんですけど。」
と申し訳なさそうに彼女に告げると彼女は
「あぁ、すみません。それ母からのサービスです。どうぞ召し上がってください。それともお味噌汁は苦手ですか?」
と聞いてくる彼女に彼は慌てて、
「あっ、大丈夫です。お味噌汁は大好物ですから!!」
そう彼女に言うと、彼女は手を口に当てながら嬉しそうに笑っている。『本当に笑顔が素敵だな』と心のなかで思いながらもっとその顔を眺めたいと思うが、それを諦めテーブルに戻っていくと手を合わせ、
「お母様ありがとうございます。いただきます。」
と小さな声でいった。
『優さんは本当に美味しそうに食べますね。こっちも作りがいがあります。』そう彼女は心のなかで呟きながら、彼の食べる姿をニヤニヤしながら眺めていた。昔から人が食べ物を美味しそうに食べる姿が好きだった彼女はこの店ができたときも美味しそうに食べるお客さんを見るのが楽しみでしょうがなかった。そして、いま席に座って美味しそうにご飯を食べている『優さん』を見ることがこのうえなく彼女にとっての幸せであった。
『はぁ~お腹いっぱいだわ。長居しちゃ悪いしもう帰るか』と心のなかで呟くと彼はカウンターに向かう。お金を払うと彼女がカウンターを出て出口まで一緒に歩いてきてくれた。沈黙が続くがこの沈黙は心地が良い。出口までは数歩だが、そこまで行きたくないと強く思う。そして、出口の戸を開けようとすると、
「ちょっと待ってください。」
彼女が彼に待ったをかける。
「外は雨が強いので、もしよければこの傘を使ってください。」
そう渡されたのはビニール製の無色の傘だったが、それを受け取ると、
「ありがとうございます。」
お辞儀をしながら言うと、彼はチケットのことを思い出す。そして、決心し彼女に聞く。
「このお店って、確か日曜日は閉まってるんですよね?」
「そうですよ。」
「じゃあ、日曜日は何されてるんですか?」
そう聞くと彼女は目を細める、『やっぱり変かな』そう彼が焦りだすと、
「特に何もしてません。暇ですよ。」
彼女がこっちを見ないで言ってくる。すると彼は興奮気味に、
「じゃあ、もしよければ今週の日曜一緒に遊園地に行ってくれませんか?」
「遊園地?」
「はい、実は二人分のチケットがくじ引きで当たったんですけど、一緒に行ってくれる人がいなくて......もちろん無理にとは言いません。でも、もしも今週の日曜暇であるのなら...」
本当は彼女と遊園地に行きたくて誰にも聞いていないのは内緒であるが、この際そんなのはどうでもいいと彼は思う。彼女は手を口に当て考えながら、
「遊園地、ですか。」
そう彼女はさらに考え込むように頭を下げる。『ダメか????』彼がそんなことを考えていると、彼女は頭を上げ微笑む。その笑顔もまた可愛らしく愛おしくヒマワリのようであり、いまが11月だということを彼はその瞬間だけ忘れていた。
『やっぱり僕は彼女のことが好きだ。』
そう彼は自分の気持を再認識したのだった。