空へ
『そうだよ! 僕はキルト!』
宙でとんぼ返りをしながら男の子は誇らしそうに胸を張った。どうやら、男の子はキルトというらしい。皆が、ということは種族の名前みたいなものだろうか。
『あなたはシルフィデではないの?』
『やめてよね! そういう人間の名前で呼ぶのは!』
小さな手がマリポーザの額をぺしゃっと叩いた。キルトは頬を膨らませてむくれる。
『とっても失礼だよ!』
そんなに痛くはなかったが、マリポーザは驚いて思わず自分の額を押さえていた。そして、ははあ、と合点がいく。メヌも「ノモ」と呼ばれるのを嫌がっていた。つまり人間の言葉では大地の精霊は「ノモ」なのだが、精霊語では「メヌ」なのだ。精霊たちはどうやら人間の言葉で呼ばれることを嫌うようだ。
『ごめんなさい。キルトは何人いるの?』
精霊の年はわからないが、キルトの見た目も動作も幼い子どものそれのため、ついついマリポーザは子どもに対する口調になってしまう。
『うーん、知らない。たくさん』
キルトはぽよぽよした薄い眉を八の字にして困ったように言う。子どもだからわからないのかしら、とマリポーザはメヌを見た。
『メヌは何人いるの?』
メヌも肩をすくめる。精霊達は自分の仲間に無頓着なようだ。
しかしこれではっきりした。今までマリポーザはずっと、この大岩のような老人の名は「メヌ」だと思っていた。大地の精霊ノモという種族の中の、メヌという個体だと思っていたのだが、そうではない。大地の精霊そのものをメヌと指し、個体の名前はないようだ。
『何人かなんて関係ないよ、僕はキルト。君は人間!』
キルトが小さな手でマリポーザの手を掴み、空へと誘う。両足が浮いてマリポーザが慌てると、メヌがマリポーザをつかんで引き止めた。
『キルト、マリポーザをアンジームのところへ連れて行ってくれないか?』
『マリポーザ? 何それ?』
『この人間のことだ』
『人間ってマリポーザとも言うの?』
『そんなところだ。マリポーザをアンジームのところへ連れて行ってくれ』
注意散漫なキルトと話していると、すぐに話が脇にそれていきそうだ。メヌはそれが面倒なのか、言いたいことだけを繰り返す。
『ええー、やだよ! なんで僕がそんなことしなくちゃいけないのさ。気が向くままに空を飛ぶから良いんじゃないか』
マリポーザを空に誘えなくてただでさえ不満気だったのに、キルトはますます不機嫌になった。こんな小さな身体で、どうしてそんなに大きな声を出せるの、と思うぐらい全身を使って腹の底から叫ぶ。
『いーやーだーねー!』
するとメヌは自分の髭を撫でながら残念そうに言う。
『キルトほど速い精霊はいないのになあ。わしにはとても空を飛ぶなんてできないのに、残念だなあ』
わざとらしすぎてマリポーザは思わず苦笑してしまったのに、キルトは違った。ぱっと瞳を輝かせて頬をピンク色に上気させる。
『しょうがないなぁ。だって、メヌは飛べないもんねぇえ』
嬉しそうにそっくり返って、得意げに鼻をぴくぴくさせる。
『そういうことだったら、行くよ!』
キルトはマリポーザの手を掴んで空へと飛び上がった。
「え!? きゃあああああああ!!」
アンジームって何? どうしてそこに私が行くの、という質問もできずにマリポーザは悲鳴を上げた。キルトと手を繋ぎながらどんどんと身体が上昇していく。下を見るとメヌは手を振っていた。大岩のようだったメヌが、豆粒のように小さくなっていく。
「ちょっと、待ってぇぇぇぇぇえ!」
精霊語で話す余裕もなく、マリポーザは心の底から叫んでいた。