冬の始まりと事の始まり
彼女はまだ世界との対話を始めていなかった。
空を見上げ、絶望の中で世界が変わる音を聞いていた。
炎がはぜ、焼き尽くす音を。
目の前で世界が焼け落ちていく。
炎が舞う。怒り狂い、全てを焼き尽くさんと踊る炎が。
大気が震える。
マリポーザは口の中が乾くのを感じた。
熱気で皮膚がちりちりするほど暑い。
なのに、身体中の血という血が冷えてしまったかのように身体が冷たい。
赤。紅い。
世界が、変わる。
雪に覆われた白い森の中、まるで海の中に浮かんだ島のようにぽっかりと開けた丘の上に小さな村があった。村の名前はニエベ。木でできた家々が丘を囲むように数十軒ほど点在している。村には家屋のほかに畑や、家畜を放牧できる草原があったが、今は全てが深い雪に覆われ、静まりかえっていた。
その村の中、一本の細い道を一人の少女が走っている。緑色のマントをフードまでしっかりとかぶり、膝下まであるスカートをひるがえして急ぐ。雪に足をとられながらも、丘の上にある家へと急ぐ少女は、興奮で目を輝かせていた。
「おばあちゃぁん! ニュースニュース、大ニュース!」
肩ぐらいまでの栗毛を弾ませながら、少女が転がるように駈けて家の中に入っていく。甘酸っぱいリンゴの香りが満ちていた部屋に、新鮮な寒気が舞い込む。
「おやおや」
眩しい光を見るように、老婆は目をすがめた。
「そんなに急いでどうしたんだい、マリポーザ?」
台所で保存食のジャムを作っていたマグダレーナは、リンゴを切る手を休めて孫娘に冷たい水を渡した。息を整えながらグラスを空にし、頬をピンク色に上気させたマリポーザは目を輝かせながら興奮した口調で言う。
「今年は雪が降るのが早すぎるから、動物たちが村に来て食料を荒らさないか心配だってお父さんが言ってたでしょ? だから、精霊使い様に雪を止ませてもらえないか頼んでみるんだって!」
マグダレーナは眉をひそめる。
「そんな小さなことでいちいち、皇帝様の手を煩わせるんじゃないよ。それに最近ぽっと出てきた精霊使いだなんて、信用できないじゃないか……」
「おばあちゃん、ごめん! 村長が午後から手紙を飛ばすって言ってたから、見逃したくないの。おばあちゃんも見たかったら、村長の家に今すぐ来てね!」
マグダレーナが言い終わる前に、マリポーザはマントをひるがえして、ドアに向かって走っていく。
「やれやれ」エプロンで手を拭きながらマグダレーナはため息をついた。
「まったく今年で十五になるのに、ちっとも落ち着きがない。どうしたらもう少し娘らしくなるのかねぇ……」
ここ最近ずっとニエベ村では雪嵐が続いていたが、今日は珍しくよく晴れた。雪の反射で景色は真っ白に輝いている。丘の頂上から村の広場へと下る白い道を、緑色のマントをひるがえしながらマリポーザは村長の家へと急いでいた。村長の家は、丘の中腹にある広場の正面にあった。
分厚い雪は重く、足を大きくあげないとうまく走れない。しかも、表面はうっすらと溶けて氷になっているので、ツルツルとしていて、少しでも気を抜くと滑って転びそうだ。
それでも、マリポーザは自分の口元が緩んでいるのがわかった。今にも声を出して笑いそうになる。
(手紙が飛ぶところをとうとう見ることができるんだ!)
その時ふと耳元を吹く風の音に混じって、男の子の楽しげな笑い声がした。
「私、あなたが本当に手紙を飛ばしてくれるのか、この時をすごく楽しみに待っていたのよ」
マリポーザは風に向かって語りかける。何も答えはなかったが、マリポーザは風の中に、小さな半透明の男の子がくるくると回転をしながら、木々を揺らす風に乗って村長の家の方角に消えていったのを見たような気がした。