宿業 【5】
同時にファルマンの姿が搔き消えた。背後で火花と紫電の弾ける音が鳴る。
もしも前方に身を投げ出すのが一瞬でも遅れていたなら、フィフニの全身は挽き肉となって砕かれていたことだろう。ファルマンの振り下ろした拳が床に叩きつけられ、何層もの床をぶち抜き、余波で室内に存在する全ての物体が壁に叩きつけられた。
当然、フィフニも背中から壁に叩きつけられていた。くずおれ、床に膝を着いた背後の壁には、血の赤が巨大な滝を描いている。
「……まだ引き出しがあるのか……」
それでも手はつきてきているはずだ。なぜこの局面まで厂処黒を使ってこなかったのか? 温存という面もあっただろうが、最大の理由はそこではない。
(通常、鬼子は眼か髪の毛が赤い。琶家の歴史に三度だけ登場した〝鬼人〟と呼ばれる最強の鬼子は肌までもが赤一色だったという。だけどファルマンは右目だけ。鬼子としての係数が体色として表出するのだとしたら、ファルマンは鬼子としての適性が低くて厂処黒の性能を十全に発揮できないってことか)
ファルマンは最後の非常手段に手をつけざるをえないまでに追いこまれているのだ。
それでも素直に強敵だ。決して因縁のある相手への贔屓目ではない。十年前よりも遥かに強くなっている。フィフニの戦闘経験の中で三本の指に入る狒々鎧には一歩及ばないとしても、その領域の限りなく近くにいることは確かだ。狒々鎧の〝七千人殺し〟級に対して、〝四千人殺し〟から〝五千人殺し〟級と言ったところだろうか?
そこまで考察してフィフニは違和感を覚えた。あれほど脅威に感じていた狒々鎧に近しい存在を前にして、自分は臆していないどころか妙な余裕さえあることに。
「……そうか。この十年で強くなったのはお前だけじゃないってことか」
愛も、友情も、そして強敵との死闘すら。一度空っぽになった心は、体は、貪欲なまでに全てを求めて己の血肉としていたのだ。
「なにを当たり前のことを」
ファルマンは呆れたように嘆息を吐き出した。
「この十年で私はこんなにも強くなった。その私と互角以上に戦えている貴様の強さと修練は本物だ」
ファルマンの言葉は戦士として最大級の賛辞だった。己の強さに対する自負と矜持が、同格以上の相手に対する敬意を生んでいた。
宿敵からの賛辞を受けてフィフニの口元に笑みが浮かぶ。どこか面映ゆそうでいて、誇らしげですらあった。
「ああ、そうだな。ボクがボクを過小評価するのは、ボクを認めてくれたお前に失礼だ」
フィフニは壁に背を預けながら、のっそりと立ち上がっていく。ファルマンはいつでも攻撃を仕かけることができた。だが、元よりそんな決着は望んでいない。目の前の男は小細工など使わず、真正面から全身全霊で倒すと決めていた。
「さて。ボクの十年か、お前の十年か。そろそろ決着をつけよう」
もはや二人に言葉は不要だ。一歩、また一歩と歩を進め、突如として距離が消失。フィフニの腹部にファルマンの拳が叩きこまれ、ファルマンの胸部に長巻が横一文字の裂傷を刻みつける。フィフニは血反吐を吐いて後方にふっ飛ばされ、傷の浅かったファルマンが即座に追撃を仕かけた。
ファルマンの姿が霞のように搔き消える。厂処黒による恐ろしいほどの高速移動だ。長巻がフィフニの右側で立てられ、直後にファルマンの拳と激突。フィフニの獲物を捉えた捕食者の視線と、ファルマンの獲物を仕留め損ねた捕食者の視線が交錯する。
(だが、見失うほどじゃない)
ファルマンは再び高速移動を開始。フィフニの両目が右に左に上に下にと目まぐるしく動いてファルマンの姿を追跡していく。初見は面食らって虚を衝かれたが、冷静に対処すればどうにもならなくはない動きだ。
フィフニの返す刀が放たれ、ファルマンは手近にあった棚を投げて瞬間的な防壁にした。棚が両断される一瞬の間に半歩下がって長巻の射程から脱出し、突撃槍のような蹴りを繰り出す。蹴りの衝撃波が進路上の全てを貫いていく。転がって逃げたフィフニの背後で壁に大穴が穿たれ、外部へと抜け出て、さらに隣のビルに巨大な風穴をあけて倒壊の轟音が響いた。
転がりながらフィフニは地を這うような水平斬りを放つ。ファルマンは跳躍して回避し、直後に長巻の軌道が急速上昇。脚を狙って機動力を削ぎにきたと見せかけて、本命は身動きの取れない逃げた先の空中だ。ファルマンの両脚が瞬時に閉じて長巻の刃を挟んだ。そのまま万力のように締め上げて刃がそれ以上進むのを防ぐ。しかしフィフニは構わずに長巻を振り上げてファルマンを頭から天井に叩きつけた。交差した防御の腕ごとファルマンの上半身が天井に突き刺さって埋没する。
ここを好機と見たフィフニが踏み出そうとした直後、天井が一斉に崩落した。フィフニは降りかかる瓦礫から逃げ、そこに天空から流星の強襲。ファルマンが蹴りの体勢で飛びかかってきたのだ。
フィフニは跳躍してファルマンを回避しつつ、さらに空中で体を回転させ、自身が巨大な円盤となって長巻を振るう。長巻はファルマンの左脇腹から肉に侵入し、その一瞬で摑まれて停止。ファルマンの超反応にフィフニはぎょっとして固まる。ファルマンは無理矢理に体を捻り、フィフニを床に叩きつけた。自らも体勢を崩して床に激突し、二人揃って床上を転がっていく。
ファルマンが飛び起き、瞬時に反撃を行おうとして、動きが止まる。ファルマンの眼球が信じられぬとばかりに自らの脚へと下降していく。
ファルマンの真上にフィフニが出現した。長巻が振り下ろされ、しかし二枚の翼が重ねられて防御する。一枚、二枚と翼を切断し、衝撃。ファルマンの頭突きがフィフニの腹部に突きこまれ、ふっ飛ばされ、放物線を描いたフィフニが部屋の端に落下する。ファルマンの顔面は流血で赤く染まっていた。右半面を走る古傷の上に、長巻によって新たな傷が上書きされている。
ファルマンが一歩一歩と進んでくる。そのたびに鎧からは火花と紫電が舞い散り、軋んだ音が聞こえてくる。ファルマンの動きは泥濘を進んでいるように鈍くなっていた。
(なんだ? 鎧の不調か?)
フィフニが疑問に首を傾げるその前で、ファルマンは右拳を握り締めた。右腕の筋肉が隆起し、拳から肩へと鎧に亀裂が走り、砕けて、腕から剥がれ落ちていく。
「……違う!」
ファルマンの体から鎧が剥がれ落ちていく。それに従ってファルマンの動きには精彩が取り戻されていった。いや。鎧を着ていたときよりも速く、力強くなっていく。
「まさか、鎧の破損や不調なんかじゃなくて、鎧のほうがファルマンの動きについていけていなかった、のか?」
ファルマンのこめかみに血管が浮かぶ。怒りが頂点に達していた。
「鎧ごときがっ!」
ファルマンの全身が隆起した。苛立ちを一気に放出する。
「私の足を引っ張るんじゃない!」
鎧が内側から粉々に砕け散り、弾き飛ばされた鎧の破片が散弾となって室内を蜂の巣に変える。フィフニは長巻を傘のように回転させて被弾を防いでいた。
ファルマンは自らの服を破り捨て、大きく後方跳躍。部屋の端に着地する。
「行くぞアルダああああああっ!」
右拳を肩に、左拳を腰に寄せる。昨日見せた必殺の構えだ。
「おおおああああああああああああっ!」
獅子吼を放ってファルマンの突進が始まった。
長巻を正眼に構えながらフィフニは思考を巡らせる。大雑把な攻撃だった。避けるのは簡単だ。そして一発入れればファルマンに勝てる。
そこでフィフニは(はて?)と首を傾げた。導き出した結論がどうにも腑に落ちない。
「……違うな。それは勝つってことじゃない。勝つっていうのは、相手の真ん中にある一番大事な芯をへし折って叩き潰すってことだ。ボクはあいつに勝ちたいんだ」
フィフニの手がくるりと回転して長巻を床に突き刺した。両手を前に伸ばして、にいっと口の端を吊り上げる。
「こいよ。止めてやる」




