宿業 【2】
電灯の落ちた室内は暗く、寒かった。地上千三三三m、ゴルタギアでも屈指の高さを誇る最高級ホテルは、巨大すぎる墓標のように沈黙していた。ほんの数時間前まで宿泊客と従業員の発する朝の精気に満ちていたとは到底思えはしない。
廃墟となった高級ホテルの最上層で破壊音。三階層丸ごとを用いた最上級客室の壁をぶち抜いて二つの影が飛びこんできた。
フィフニが小太刀で解体し、ファルマンが肩から体当たりして、次々と壁を破りながら横移動。広い客間に出たところで二人の足が止まり、急速方向転換。皮椅子や食器棚などの高級家具を蹴立てて一足飛びに接近する。
フィフニの小太刀とファルマンの短剣が嵐となって繰り出され、両者の中間で火花が散り、体で鮮血が弾ける。先に後退したのはフィフニだ。「くっ」と悔し気な呻き声を零して横に開いた扉へと飛びこんだ。鎧から火花と紫電を舞い散らせるファルマンもフィフニを追おうと扉に駆け出して、急停止。
「通路が一つなら、そこに罠が待ち構えていることなど誰にでも分かる。ならば罠を警戒して足を止めるこの場でハメにくる!」
口にすると同時、ファルマンは両の拳を上下に向けて放っていた。拳圧が天井と床を貫いて、階下からフィフニの「ふぎゃん!」という悲鳴が聞こえてくる。
ファルマンは足を踏みこんで床を破壊。建材が土砂降りとなって階下に降り注ぎ、ファルマンがフィフニの眼前に着地した。必殺の大剣が振り下ろされ、応じてフィフニが白刃取りの構えを見せて、
床が激しく揺れたのはそのときだ。二人は立っていられず転倒し、床上を一回転して壁に叩きつけられる。その直後、二人の間の壁を貫いて巨大な光球が飛び出してきた。
フィフニとファルマンはどちらからともなく喉を鳴らす。巻き添えになっていれば確実に命はなかっただろう。光球が最接近した鼻先は感覚を喪失している。
「一体全体どこのどいつの仕業だよっ⁉」
フィフニは怒号を放って穴から身を乗り出した。目を凝らすと遥か眼下で争う二つの点が見えた。地上六百mほどの空中回廊の屋根の上でレックとレッチェルが戦っている。
レッチェルは右手の巨大な手甲を翼に変え、まるで氷上のような優雅さで空中を滑走していた。四方八方からの銃撃がレックの全身に突き刺さり、逆にレックはレッチェルに翻弄されてやたらめったらに銃撃し、それがホテルの壁に流れ弾ったのだ。
「てーめー! よくもやりがったなー!」
怒り心頭にぷんすこしたフィフニは四肢を出鱈目に絡ませて、文字のようにも見える奇怪な怒りの姿勢を取った。
叫び声でレックもフィフニたちの存在に気がついた。レックのこめかみに苛立ちの血管が浮かび上がる。
「知ったことか!」
怒りの言葉とともにレックは剣を投擲した。投げられた剣は空中で孔雀の羽のように剣身を開いて鉄扇となり、さらに開いて円盤となった。黄金の円盤はホテルを十度も二十度も往復して全ての柱を完全に切断。重低音を上げながらホテルが傾斜を始める。
フィフニとファルマンは一瞬だけ視線を交わして意思疎通。瞬間的な休戦協定を結んで、倒れるホテルから空中に身を投げて脱出した。直後にファルマンが長槍を横薙ぎ。一瞬の休戦協定はすでに時効を迎えていたのだ。
長槍はフィフニの胸元を横一文字に浅く切り裂いた。連続で刺突が放たれ、フィフニは連続蹴りで応戦。穂先の側面を蹴りつけて紙一重で無力化していく。
攻防の最中にフィフニの手が袖の中へと引っこめられ、そして大きく振り抜かれた。ファルマンの目の前に飛びこんできたのは、「はぁ~?」という凄まじくムカつく煽り顔をしたタヌキの置き時計だ。その腹時計の針が正午を差し、文字盤の下に位置する二つのふぐりが飛び出して、ファルマンが首を振って回避する。
その一瞬の隙を突いてフィフニは矢を射った。眼下に向けて。
ファルマンがその意味を理解するより早く、体に灼熱と衝撃が叩きこまれる。見れば眼下にいるレックが天空に向けて引き金を引いており、放たれた光球が長槍を折り砕いてファルマンの胴に命中していた。
同じようにレッチェルもフィフニの放った矢によって翼を破壊され、錐揉みしながら落下していく。
「どるああああああっ!」
怒号を放ったファルマンが全身の発条を総動員して光球を跳ね返した。鎧の胸部から腹部にかけてが砕け落ち、赤く爛れた皮膚をあらわにする。
二人は瞬時に互いの相手を交換して予想だにしえない奇襲を行ったのだ。
しかしどうやって合図した? 呼吸を合わせた? ファルマンは即座に気がついた。直前にフィフニが取った奇妙な行動を。
「あの行動は、単なる奇天烈ではなかったということか……っ!」
油断ならない相手だ。フィフニの一挙一動には充分注意していたはずだった。しかし、まだまだ認識が甘かった。ファルマンは忸怩とした思いで拳を握りしめ、籠手から紫電が溢れ出る。
「あるだああああああっ!」
空中に跳んだのは同時だが、銃撃を食らった反動でファルマンのほうが若干上空に打ち上げられていた。ファルマンの怒号を受けてフィフニが振り返り、そして不可解さに眉をひそめる。ファルマンの五指が鉤爪となってフィフニに伸ばされ、指を閉じ、肘を引く。フィフニが動作の意味を理解するよりも早く衝撃が背中に激突した。
なにもない空中でなににぶつかったというのだ? 激痛で明滅し、落下によって乱回転する視界が捉えたのは空中回廊だ。空中回廊の両端は引き千切られていた。
フィフニはファルマンの奇妙な動作を思い出していた。一つだけ思い当たりがある。
「あいつ、回廊を摑み上げやがったな!」
ファルマンは押し出すのではなく引き寄せる負の衝撃波によって、遥か下方に位置する回廊を毟り取ってフィフニにぶち当てたのだ。
体勢を崩したフィフニは頭を下にして真っ逆様に落下していく。それを追ってファルマンも背中から火を噴いて加速。必殺の大剣が繰り出され、しかし突如として軌道を急速変更。横合いから飛んできた橙色の円錐が大剣に真っ二つにされてファルマンの左右を通り抜けていく。
橙色の円錐、すなわちニンジンだ。
「ブヒヒン、ヒヒンヒン」
とても人の言葉とは思えぬ声がその場に響いた。
「ヒヒン、ヒンヒン」
ファルマンが声の出どころを探して首を巡らせる。いた。
ビルの屋上で腕を組み、仁王立ちして、こちらを一直線に見つめる漆黒の巨体。首には赤いマフラーが巻かれ、颯爽と風になびく。
「ヒヒ~ン!」
馬、である。昨日のゼッペル襲撃のさなか、フィフニが黒い塊から生み出して、そのまま何処かへと行方知れずになっていた馬である。
「《厂処黒》の馬! 今まで並列発動させていたのか!」
意味のないことはしない男だ。こちらを侮って手を抜いていたわけではあるまい。ではなぜ、今の今まで使わなかった?
馬。単純に考えるなら移動手段。その途端、ファルマンの脳裏にはアニスとミレルが馬に乗ってゴルタギアを脱出する様が思い描かれた。
「妻子を安全圏に逃がすためだけに全霊を割いていたということか」
「うわ~」
今もって落下中のフィフニから情けない悲鳴が聞こえてきた。黒馬は『はっ』となってフィフニに視線を向ける。
「イマイクゼ、ゴシュジン」
黒馬は体の前で蹄を合わせると、水泳選手のような見事な流線型となって空中に飛びこんだ。黒馬は瞬時にフィフニの下まで移動し、逞しい背中でフィフニを受け止める。蹄から炎が噴き出して、黒馬が空中飛行を始めた。
「って、お前喋れたんかい⁉」
しかしてフィフニが返した反応は驚き顔だった。黒馬は口の中に蹄を突っこんで、自らの所業に吃驚顔を浮かべる。
「ホントウダ! イツノマニカ、シャベレルヨウニナッテタ」
「うわー! 喋る馬だ! 怖えー!」
そしてファルマンは吃驚した拍子に姿勢を崩して、背中から空中回廊に激突した。
「……あ」
自由落下するファルマンは背中の痛みに悶絶して空中でのたうち回り続ける。
「いや、ごめん。なんか今のは、本当にマジごめん」
フィフニのこめかみを罪悪感と体裁の悪い汗が流れた。




