世界を滅ぼす贖罪を
どうして彼女が死ななければならないのだ?
全ての力を抜け落としていく彼女の体は、私の腕に抱かれながら冷たくなっていく。背中の傷から溢れる血は、手で押さえても止まらない。
私の視線は彼女から移動する。体を震わせる男の手には血のついた短剣が握られていた。男はしきりに「俺は悪くないんだ。俺は悪くないんだ。あいつが勝手に刺さりにきたんだ」と、まるで呪文のように卑怯な言葉を連ねていく。
この場にはもう一人、女がいた。よくある男女のこじれだ。違ったのは男が凶器を持ち出してきて、そして彼女が刺されてしまったことだ。
……私は気付いてしまった。男がかつて、彼女と公園で遊んでいた子供の一人だということに。
なんだこれは? 私は悪い夢でも見ているのか? どうして彼女に縁のある人物が彼女に危害を加えて、そして卑劣な自己弁護に走られるのだ? 人間とはこんなにも醜い存在だったのか?
私の心の奥底から、ふつふつと名状しがたい暗黒の感情が湧き上がってくる。意識せずに藍色の光を放つ私の手を、冷たくなった手が握ってきた。
私は弾かれたように顔を下げる。彼女が私を見ていた。
「お願い。彼を、許してあげて」
その言葉を最後に、彼女の瞳から光が失われた。
「…………君らしいな。君はそんなにも、人間を愛していたんだな」
私の顔が歪んでいく。頬を熱い涙が伝い落ちて、けれども愛する人の清らかさに口元は精一杯の笑みを浮かべていた。
彼女の亡骸を抱きかかえた私は歩を進める。私の視線が男に向けられ、男は「ひっ」と身を竦ませる。
「私は赦すべきではないのだろう。だが、それが彼女の最後の願いだ。私は貴様を赦す」
私の言葉を理解して、男の顔に安堵の笑みが広がっていく。その顔のまま、男の首が体から落ちていった。
「だから私は世界の全てを破壊し、全ての人間を殺す」
女の口からは衣を裂くような悲鳴が上げられた。女の胸にも藍色の楔が突き刺さり、心臓を貫いて絶命させる。
「君にとって自分の命より他者の命が大事だったように、私にとって君の命は他の誰よりも重く、大切なものだった」
私は歩いていく。騒ぎを聞きつけたのか、私の前には自警団や保安官、そして野次馬が集まっていた。私の全身から放たれた藍色の楔が彼ら彼女らの命を一瞬で奪っていく。
「では、私の感情はどこにぶつければいいのだ?」
誰も私の問いに答えてはくれない。もしも彼女や、あの時代の誰か一人でも隣にいてくれたのなら、きっと私は別の答えを出せていたのだろう。だが、私がいてほしい者たちは、誰一人としていないのだ。
「無償の赦しは悪だ。償われない罪は決して赦してはならない。なのに彼一人だけを赦すというのなら、彼を含めた全ての人間に償いを分配させなければ平等ではない。
なによりも大切な君を失ってしまった私は、誰かに償いを求めずにはいられないんだ。ただの人間の身では、全ての人間を等しく愛することも赦すこともできないんだよ」
私の体から放たれた楔が街に降り注ぎ、建物を、地面を、そして人々を穿って滅茶苦茶に破壊していく。爆音も、悲鳴も、私にとっては遠い別世界の音声だ。自らの言葉と、死した彼女の重さだけが、今の私の世界に存在する全てだった。
「だから私は人間を滅ぼす。憎悪でも、悪意でも、復讐でも、人間を恐れる《葬世者》でも、愛する女を失った男でもなく、無個の天秤となって人間を滅ぼす」
見上げる私の前には天を貫く巨大な塔が聳えている。今の私には、この塔が巨大な墓標のようにも見えていた。




