風雷雨(ふうらいう)至りて、されど未だ嵐こず 【1】
死んだ魚のような目だった。俯き加減の視線は地面しか捉えていない。口からは溜め息が漏れ続け、気が重すぎて背中は老人のように丸くなっていた。
「はあ……死ぬっす」
そう零して、踏み台に足をかける。目の前に垂れ下がる縄の丈夫さを確かめてから、先端の輪っかに首を通す。踏み台を蹴り倒すと、体が宙に浮いた。
しかし悲しいかな、絶望魚はどんなに死のうと思っても、体が流線型をしているので縄がするりと抜けてしまうのです。
地面にべちゃりと落下した絶望魚は口をパクパク。立ち上がって部屋の隅まで移動すると、胸鰭で尾鰭をかかえて体育座りしました。
「海は生命の母と言うけれど、海から出たことのないあっしら海水魚は所詮卵巣引き籠もりっす。未来なんてないっす。将来を悲観して死にたいっす」
絶望魚の呟きは、深くて暗い海の底に沈んでいった。
「ってーのが、この『絶望魚くん』なんよ」
体育座りした絶望魚くんぬいぐるみを脇にかかえて歩きつつ、フィフニ・アルダーは口を開いた。
おちゃらけが服を着て動き回っているような男だ。口元には常にえへらえへらとした締まりのない笑みを貼りつけている。東方の島国、琶家の民族衣装である着物は青一色。布地にはこれも青い山河やスズメが描かれ、後ろ襟には家紋の『盾と大文字久留守』が刺繡されていた。歩を進めるたびに、頭に乗せた牛飼帽がひょこひょこと揺れ動く。
「……あれ?」
フィフニがなにかに気付いたように隣を見上げて、脇のぬいぐるみを見て、もう一度隣を見上げた。
「なんか、レッ君に似ておるよね」
「んなわけあるか」
顔を苦々しげに歪めて、レック・ソヴァイスキーは吐き捨てた。
大陸でも大柄な百九十㎝超という長身は厚い筋肉に覆われ、まるで歩く城塞といった風情だ。金縁眼鏡に頂かれた両目は深い海色、針金のような銀髪が風に流れる。肌着の上に羽織ったのは鋼色のレザージャケット一枚。左の腰には長身の彼が佩いてなお、先端が地面に届きそうなほど長大な鞘が装われていた。背中側には太い腰を横断するほどの巨大な銃帯が巻かれ、戦士の出で立ちを強調している。
「そんな死んだ魚の目で、」
レックは絶望魚に指を突き出した。青い両目は疲労が蓄積されて深海色に濁っている。
「重苦しい溜め息を漏らして、」
レックの口からは心労による溜め息が漏れた。
「背中を丸めたやつが、」
レックは気苦労の多さから猫背気味に背中を丸めていた。
「俺に似ているわけが……」
そこまで言って、レックは静かに口を閉じた。何食わぬ顔で視線を前方に引き戻す。
「体が悪くなったからってそっぽ向くなよ」
「というか、あれだ。なんでそんなもん持ってんだよ?」
「ミレルちゃんへのお土産を気色悪いとか評すなよ」
「……思わず本音が出る程度には、わけの分からん物だって自覚はあるんだな」
そこで話は終わりとばかりにレックは口を噤んだ。
大通りに溢れる人波も、頭一つ高いレックを自然と避けて通っていく。しかし二人の前方を歩く人物は、視線を手元に広げた絵本に固定しているというのに、不思議と通行人にぶつかる気配はない。
「ルー君からもなにか言ってやれよ」
呼ばれたルーザーは絵本から視線を上げて後ろを向いた。
少年と言っても差し支えないほど小柄な人物だ。黒髪黒瞳、裾なしの黒シャツに黒のジーンズ、そして脛まで覆う黒ブーツという黒づくめ。髪の毛は棘のように四方八方に飛び跳ね、背中まである三つ編みが尻尾のように揺れていた。
レックにちょっかい出すフィフニと、不機嫌げに無視を決めこむレック。ルーザーは指を丸めた手を顔の横に寄せて、もう片手で猫じゃらしの穂を左右に振った。
「にゃー?」
「「猫の喧嘩じゃねえよ」」
二人からの突っこみに、ルーザーは無言で視線を前に戻す。
長閑な正午だった。太陽が天頂をすぎ、誰もが一息入れようとする時刻だ。勤め人が忙しなく駆け回り、繁華街は昼食目当てで賑わっている。大通りは人と車と駱駝によって溢れ返っていた。
フィフニの履いた下駄が調子っぱずれな音を響かせ、裸足のレックは無音。ルーザーが歩を進めるたび、アスファルトから軋んだ呻き声が上げられる。
世界のどこででも見られる平凡で平穏な日常の中を、三人の余所者が歩いていた。
フィフニの手が動いて着物の袖から時計を取り出した。タヌキの腹時計が文字盤になっている意匠の置き時計だ。「はあ~?」という、凄まじくムカつく煽り顔をしている。
フィフニの視線が時刻を確認し、レックが眼鏡の位置を直し、ルーザーが本を閉じる。
「時間どおりだ」
三人の視界に、黒狼の群れのように連なる車列が見えてきた。