静寂の朝 【1】
珈琲の苦みが脳に沁みて眠気を黙らせていく。とはいえ照明を落とした部屋で掛布にくるまり、画面に映る単調な映像を見続けていれば眠気を払拭できなくても無理はない。
レックは眼鏡を額に押し上げて顔を揉みほぐした。協力者の手引きで隠れ家に飛びこんでから、三時間休んで、ルーザーと見張りを交代し、それからまた三時間が経過した。部屋に窓がないので分からないが、外ではとっくに夜が明けているころだろう。
「低血圧に寝起きの見張りをさせるたあ、あいつは嫌がらせに余念がないな」
愚痴を零しつつも、目の前に置かれた画面から注意は逸らさない。
レックが見つめるのは監視装置からの映像だ。玄関前や裏口はもちろん、隠れ家の遠景や目ぼしい監視場所までもが映し出されていた。九分割されて交互に切り替わっていく映像を、レックの澱んだ視線が追いかけていく。
唐突に扉が開き、室内に鮮烈な光が飛びこんできた。逆光の中に人影が見える。
見るからに気風のよさを窺わせる女だ。自己管理の行き届いた健康的な肢体に、精力的な表情は辣腕家を連想させる。昨日の夜から今日と見続けてきた顔だ。最初は合流場所の食堂で給仕として。そして次は眼帯男との交戦時に娘を連れて。
「見張りごくろーさん」
女は労いの言葉とともに今朝の朝刊を放り投げた。朝刊はレックの頭にぶつかり、跳ね返って手の中に落ちる。受け取ったレックは苦笑い。
「相変わらずぞんざいな扱いだなあ。普通、旦那の知り合いには愛想を使うもんだろ?」
「だってお前はフィフニ君じゃないからな」
アニス・アルダーはぷいっとそっぽを向いてレックへの無愛想を主張した。
「ところで、朝食作ったけど食べる?」
「ありがたく」
それでも無関心でないあたり、本質は世話焼きなのだろう。食堂へ移動するレックの脳裏にはフィフニの顔が浮かんでいた。
(なんだかんだで似た者夫婦ってことか)
歩きながら、レックは広げた朝刊に視線を落とした。暗闇の中の僅かな光でも眼鏡によって文字が補正され、記事を読んでいく。
一面は目を通さずとも分かっている。昨日の昼間、自分たちがゼッペルを襲撃した一件がでかでかと書かれていた。
問題は三面記事、そこに書かれていなければならないはずの事件がない。昨夜未明に起きた眼帯男による殺人事件が霞のように消え去っていた。
どうやら敵は報道に気を配る程度には面倒臭いやつのようだ。
(あるいは握り潰せる立場の人間か、そいつらに繫がりがあるか)
どちらにしろ厄介な相手には違いない。レックは椅子に辿り着くと新聞を適当な棚の上へと放り投げる。食卓には湯気を上げる料理が並べられ、空きっ腹を刺激してきた。
レックは根菜の煮物を口に運んだ。醤油の塩気と香りが野菜の甘みを絶妙に引き立てている。火通りも申し分なく、人参や筍は柔らかく、芋には歯応えが残されていた。
「レック君には大陸風の味付けが口に合うんだろうけど、すっかりフィフニ君の味付けに慣らされてしまってな」
「いや、充分に美味いと思う。これが家庭の味ってやつなんだろうな」
レックは次々と料理に手を伸ばしては黙々と口に運んでいった。サラダの皿や高野豆腐の味噌汁を食べつくしていく。
「レック君の家には家庭の味とかなかったの?」
「家庭の味というか、母親が料理をしている姿を見たことがない」
レックの呟きはしみじみとしていた。失われた過去に想いを馳せているのだろう。
「それじゃあ、お父さんが?」
「いや、草を食っていた」
「…………ん?」
「道端に生えている草を食っていた。だから今でも野菜は大好物だ」
レックは満面の笑みだった。まるで子供時代の大切な思い出を語っているように。
「くっ」
アニスは思わずレックの眩しすぎる笑顔から目を逸らしてしまう。
テンペランでは親が家事をせず、乳母や家政婦に丸投げというのは珍しくないのだが、そこは文化の違いというやつで指摘しても詮なきことだろう。
逆にレックはアニスに目を向けた。夫の戦地にまで付き添い、それだけではなく隠れ家や物資の調達などで陰ながら支援してくれている健気な妻だとは思う。
昨夜も領収書の裏面に合流地点が指示されていなければ、眼帯男との戦いが長引いて計画に重大な支障をきたしていただろう。
(正直言って支援してくれるのはありがたいが、幸せな家族の父親が命を危険に晒し、母親と娘まで付き合わせていいはずがない)
戦争国家に生まれた自分とは違い、アニスはごく普通の一般家庭で育ったと聞いている。フィフニの選択は精神に相当の負担を強いているはずだ。アニスがなにを思っているのかは分からないが、この状態に落ち着くまでには壮絶な話し合いや葛藤があったのは考えるまでもないことだ。
(アニスさんにも思うところはあるようだけど、それでも本人たちが悩んで出した答えなら俺たちは尊重するべきだ)
これは薄氷のような問題だ。部外者である自分たちが無遠慮に踏み入るべきではない。




