炎の日 【1】
「見事、なり……っ!」
吐血とともに零された言葉が、老将の今際の一言となった。老将の全身から生気が抜け落ちていき、歴戦をともにくぐり抜けてきた白髪がはらりと額に垂れかかる。
老将が身にまとうのは紅玉の狒々鎧。胸元に突き立つ小太刀からは鎧よりも赤い血が伝い落ちている。
「勝った……のか?」
信じられぬとばかりの呟きは下方から聞こえてきた。小太刀を摑んでいたのは十代も半ばの少年だ。木張りの床に手を着いて上下逆様となった少年が、足の指で摑んだ小太刀を狒々鎧の胸に突き立てていた。
狒々鎧の繰り出した拳が空を切り、少年の奇策が狒々鎧の心臓を捉えた決着の瞬間を、轟々と燃え盛る炎が照らし出している。
狒々鎧が完全に沈黙してなお、少年は臨戦態勢の緊張感を保ったままだ。狒々鎧の死を確信できない恐怖がごくりと喉を鳴らさせる。
少年は小太刀を捻って狒々鎧の心臓を完全破壊。刃を引き抜き、胸からの出血が生命活動を停止したそれだと確認してから、ようやく体勢を元に戻した。
両の脚で床に立った直後、少年の膝が砕けて腰から崩れ落ちていく。
「これが噂に聞く、《アーク教団》の《十二弟》か」
思い出しただけでも全身が寒気に包まれていく。なんとか勝利をおさめたものの、それが糸の上を歩くような危うい均衡の上にあったことを少年は理解していた。一瞬の攻防のどこかで僅か一手が違っただけで、この場に立っていた者は逆になっていただろう。狒々鎧はそれほどの手合い、毛筋の先ほどの油断が死を招く強敵だった。
天井から轟音。少年が呼吸を整えている間にも怒号に悲鳴、そして剣戟の音が鳴り響いていた。見回せば少年たちの決着の地である能舞台も炎に包まれている。
この日、琶家城は燃えていた。琶家大君銀湖浄言千世平の命とともに。
《アーク教団》による襲撃が始まってから日が落ちて久しい。にもかかわらず、燃え盛る炎によって夜空は真っ赤に染まっていた。城郭が焼け落ちて崩落する断末魔がそこかしこから聞こえてくる。
琶家城に夜襲を仕かけてきたのは百人規模の部隊だ。その全員が〝百人殺し〟級の鎧を身にまとい、《十二弟》に至っては〝千人殺し〟級。合わせると〝万人殺し〟をも凌駕する大部隊を投入してきたことになる。
少年も狒々鎧と遭遇するまでの数時間を夜襲部隊の迎撃に費やしてきた。少年の全身は返り血で真っ赤に染まってさながら赤鬼のようだ。狒々鎧に突き立てた鬼の角たる小太刀も刃毀れが著しい。
少年が出会ってきた夜襲部隊の中でも狒々鎧は別格の相手だった。《十二弟》の一人という点からも、部隊の指揮官か最大戦力なのは明白だ。
少年は立ち上がり、目の前で絶命した狒々鎧の全身を改めて観察する。
狒々鎧は剛腕で全てを粉砕する正統派の武人らしく、少年目がけて拳を突き出した姿のままで事切れている。しかし本来あるべきはずの右腕は二の腕から消失し、左足の爪先は指がなくなって踏ん張りが効かなくなっていた。左目は潰れ、両耳は鼓膜と三半規管を破壊されて血を流している。背中には肩から腰まで達する縦一文字の刀傷。脇腹は抉られて内臓がはみ出し、肩の下がり具合からすると片肺も潰されているはずだ。鎧は鎧の体を成しておらず、破損した部位のほうが多いくらいだ。少年の小太刀も胸の破損部から心臓を貫いていた。
そして狒々鎧の全身に突き立てられた夥しい数の刃。空気細工のように透明で優美な大太刀は、琶家でも二十本の指に入る剣豪の愛刀である〝千人殺し〟級《切子華霞》。対称形な二振りの脇差は《飛燕双翼》、幻影によって実物よりも大きく見える刀は《雲隠十六夜》で、ささくれた刀傷は鋸の刃を持つ《漣連十郎》。背中の縦一文字は薙刀の《雷龍明》、右腕の炭化した断面は《九郎丸近近》による仕業だ。脇腹の打撃痕は《六道悪左衛門》、首には鎖鎌の《染百足》の破片が巻きつき、腹部の銃創は《繭菱》。
〝百人殺し〟級が十八体に、〝千人殺し〟級が三体。
「合わせて二十一体、〝四千八百人殺し〟。つまり琶家城に詰めていた葬星器持ちの武芸者のほぼ全員が、狒々鎧によって討ち取られているのか……」
敵の首級という本来ならば大金星を挙げたにもかかわらず、少年の顔色は優れなかった。悔しさに歯を食い縛り、震える頬を涙が伝っていく。
「こいつの……こいつらのせいで……!」
大君は大らかで気さくな人柄で、太平の世を治める名君だった。
姫は可憐で、ほんの少しだけ悪戯好きで、誰からも好かれていた。
家臣仲間とは将来を語り合ったり、下らない競い合いをしたり、ときには殴り合いの喧嘩をしたりして楽しく日々を送ってきた。
そして親友と呼べる存在も出来た。
その全ては奪われた。大君の命は城とともに炎に包まれ、姫は少年の目の前で殺害された。勇敢に立ち向かった家臣のほとんどは討ち死にを果たし、狒々鎧に突き立てられた刀は親友の形見となった。
「うがああああああああああああっ!」
少年の怒号が炎に包まれた夜空を震わせる。




