月下 【5】
レックの視線が建物の隙間によって形作られた小さな路地に向けられた。レックに続いてルーザーも鼻を働かせ、ようやく鉄錆の臭さを認識する。
路地の奥から漂ってくるのは血臭よりも濃密な殺気だ。曲がり角一つ離れたそこに魔物が潜んでいると言われても納得してしまえる。
(……誰に向けた殺気だ?)
自分たちへの追手なのか、あるいは第三者へ向けたものなのか。前者だった場合、逃げている最中に背後を取られることになる。
レックは静かな動きで腰の剣に手をかけると、ひたひたと慎重な足取りで路地へと進んでいく。いくつかの角を曲がったところで、再び停止。
四方を建物に囲まれた峡谷の底は一面の血の海。壁に寄りかかるのは、胸元を貫かれた中年男の死体。
「ひっ! し、死体⁉」
思わず悲鳴を吐きそうになるレッチェルの口に、レックの手が伸びて封をする。見ればレック自身も口の前に指を立てて静かにと示唆していた。
路地のどこにも殺人者の姿はない。すでにこの場を去ってしまったのだろうか?
レックの視線はなにかに導かれるように上へと向かっていく。そこに翠の輝きが浮いていた。人間の眼光と、腰に携えた得物の輝きだ。
殺人者は両手足を広げて壁にへばりついていた。レックと殺人者の視線が交錯。殺人者は腰から長剣を引き抜くと同時に天空から流星の振り下ろし。レックは剣で受け止め、殺人者のどてっ腹に蹴りを見舞わせた。
常人なら腹部をごっそりと破壊されているだろうレックの蹴りを、しかし殺人者は耐えた。危なげなく着地して踏みとどまり、両脚で大地に立つ。
殺人者は体を捻り、着地の瞬間を狙って背後から奇襲してきたルーザーの拳を回避。さらに交叉で剣の柄頭をルーザーの顔面に叩きこんだ。
ふっ飛ばされたルーザーの体は背中から石壁に激突し、突き破って屋内に侵入。直後に土煙とともに路地へと飛び返してきた。いつにも増して真剣味を帯びた顔つきで、銀色の鼻血を指先で拭う。
「見てしまったか」
口の端を伝う血の筋を手の甲で乱雑に拭いつつ、殺人者は億劫そうに呟いた。
殺人者は右半面を巨大な眼帯で隠した男だ。左の隻眼と同じ色をした翠色の長剣を油断なく構えている。
(こいつっ!)
レックの目が険しく細められた。見れば黄金の剣が刃毀れを起こしている。
しかし刃毀れを起こしているのは翠の長剣も同じだ。眼帯男の隻眼もレックと同じように細められる。
「……私は仕事の邪魔をされることが三番めに嫌いだ」
口を開いた眼帯男は滔々と語り始めた。
「だが、二番めに嫌いなことは蜂蜜牛乳を嗜む至高の時間を奪われること。貴様らはそれすら犯してくれた」
「いや、なに言ってんだお前?」
「よって貴様らは、豚に食われて死んでしまうがいい!」
レックの疑問になど聞く耳を持たず、激怒と憎悪に顔を歪めた眼帯男が空手を腰に伸ばした。腰の懸架帯からさらにもう一振りの長剣を取り出し、両手の剣を広げ、レックへと突進。両腕の長剣が宙を駆ける猛禽の翼のようにも思えた。
黄金の剣と翠の長剣が再び激突。同時にもう一方の長剣でルーザーの手刀を防御する。激しい鍔迫り合いによって溶鉱炉のように火花が舞い落ちていった。
「逃げろ!」
緊迫した攻防のさなかにレックは叫んだ。
「え、あ……」
自分に向けたのだろうと気付いたレッチェルは、少しの間迷ったものの、踵を返してその場を駆け出していった。
「待ってて! すぐに自警団を連れてくるから!」
「犠牲者様団体御一行にならなきゃいいけどな」
切羽詰まった皮肉を口にして、レックは左手で銃を引き抜き眼帯男目がけて発砲。放たれた光の弾丸を、しかし眼帯男は木の葉のような体捌きで回避。
眼帯男は回避行動に巻きこんでルーザーの体勢を崩させると、すかさず横薙ぎの一閃。ルーザーの腹部が横一文字に搔っ捌かれた。
眼帯男はルーザーの体を蹴って後方飛翔。二人から距離を取り、改めて双剣を構える。
レックとルーザーの頬を、冷たい汗が伝い落ちた。




