月下 【4】
「俺のメシはまだか?」
「ほれ」
隣から声をかけられたのはそのときだ。食卓の隣に立った給仕の女が、レックの注文である仙人掌のステーキの皿を差し出している。
「ほれ」
レックには給仕女の態度が理解不能だった。煮えきらないレックに業を煮やしたのか、給仕女は不機嫌げに一つ舌打ち。
「食わんのか?」
「いや、せめて置けよ。皿を、食卓まで」
「なんでアタシがそこまで面倒みなきゃいけない?」
「お前給仕だろ?」
「好きでやってるわけじゃない。ほら、受け取れ」
給仕女はぞんざいに言い放つと、ステーキの乗った皿をレックに向けて放り投げた。レックは慌てて手を伸ばして皿を受け止める。
レックは釈然としない面持ちで給仕女を凝視した。給仕女の薬指には指輪が光っている。よくもこんな性格で結婚できたものだ。
「なんだよ? じろじろ見てんじゃねえよ」
レックをよそに給仕女は煙草に火をつけた。確認しておくが仕事中だ。
給仕女は周囲を見回す。やがて、少し離れた卓にいる小太りな男を目に留めた。
「おい、そこの男。ちょっとこっちこい」
「うん? ボクですか?」
「お前、こいつに唾吐け」
「ふええっ⁉ なんでボクが⁉」
「はあ? こいつが私の吐いた唾を舐め取ったら気色悪いだろ」
「……いや、さすがに人妻は守備範囲に入っていないんだが……」
レックはげんなりとなって反論するが、誰からも聞いてもらえなかった。仕方ないので仙人掌のステーキを口に運んでおく。心労で味がしない。
「だから、なんでボクが唾を吐かないといけないの?」
「お前が一番変態そうだったから。喜んで唾を吐きそうだし、舐め取られても喜びそう」
「ちょ、ちょちょちょ、ボクは客だよ? お客様は王様だよ?」
「黙れ変態王」
「それを混ぜちゃ駄目ええええええっ!」
「使えねえなあ」
給仕女は小太り男の尻を蹴りつけてどこかへと追いやった。じっと傍観するレックの口からは「ひでえ」の一言すら出てこない。
「ん。これ、領収書」「お、おう」
嵐のような給仕女が去り、レックは肩の荷が降りたように深く息を吐き出した。
「なんというか、凄まじい人だったわね」
レッチェルも余韻を引きずったまま、給仕女の後ろ姿を視線で追っていた。
「あんな調子でよく雇ってもらえたわね」
「あの勢いだったら、不採用になったのに強引に働いている、と言われても不思議じゃないけどな」
レックの冗句に、レッチェルは「確かに」と神妙な顔で相槌を打った。レック自身も半々の確率で冗句では終わらない気がして、苦い顔で視線を天井に逃がす。
レックは天井を見つめる視線を細めて、次の瞬間には脚を跳ね上げていた。
食卓を固定していた螺子が千切れ飛び、食卓が天井付近まで蹴り上げられる。レック自身はレッチェルを抱き寄せて床に押し倒していた。
轟音が落下してきたのはその直後だ。
天井が突き破られ、店内に侵入したなにかが客席を破壊しながら床上を滑っていく。店内は客の悲鳴と食器の割れる音、そして粉塵によって満たされていた。
混乱の中で灰色のジャケットが立ち上がった。レックは店内の惨状を見回し、それから自身の体で匿ったレッチェルへと手を伸ばす。
「あ、ありがと……」
レッチェルは惚けたようにレックの手を握り返した。力強く引き寄せられ、立ち上がらせられる。心なしか、先ほどよりも頬が上気しているように見えた。
「俺が女連れるのはそんなに悪いのか? 俺の女運はどうなってんだよ」
レックは愚痴りつつ、ジャケットの背中に積もる破片や埃を振り払う。
粉塵が落ち着いていき、最初に目に入ったのは銀色だ。なにかが床を抉って進んだ溝に銀色の液体が小川となって流れていた。
溝の終着点には黒服の男が倒れていた。ルーザーだ。
ルーザーは全身傷だらけで、滝のように銀色の血液を流していた。肉が裂けて骨が露出し、潰れた左目は銀色の血溜まりとなっている。
「え? 人? し、死んでるの? 生きてるの? てゆうか、どんな状況なのこれ?」
目を白黒させるレッチェルとは対照的に、レックの態度は冷めていた。表情には不可解さと不機嫌さが等分されている。
「どうしてお前は、いつもいつも唐突なんだよ」
ルーザーの右目がぎょろりと動き、上半身が飛び起きた。膝を腕で支えつつ、産まれたての仔山羊の動きで立ち上がる。
「……油断した」
ルーザーは忸怩と不機嫌さを等分した顔だ。レックのほうへと歩きつつ、手近な席から料理の皿を奪い、口に流しこんで、皿ごと噛み砕き、呑みこんでいく。
一歩進むごとに、全身に開いた裂傷から、複雑骨折に内臓破裂が蒸気を上げて修復されていく。レックの前に辿り着くころには完全回復していた。
「なにをしでかした?」
「ゼッペルを破壊しようとして、至近距離からの大量複製で強引に弾き飛ばされた」
悔しげなルーザーの視線は遥か遠方のビルに向けられていた。ありえないことに、ビルの最上階からは真横にビルが生えている。
二人が見ている中、水平に生えたビルは砂細工のように崩れて消えた。
「ちょっと待て。ってことはだ、方向と速度で落下位置を予測されたんじゃないか?」
レックがそう指摘すると、ルーザーは目を細め、口を歪めて、あからさまに嫌そうな顔をした。腹いせとばかりにレックの脛を蹴りつける。
「だからなんでだよ。俺が悪いのかよ」
レックは眼鏡を押さえつつ、頭が痛いとばかりに顔を俯けた。
「とにかく、面倒臭くなる前に逃げたほうがいいな」
レックが言ったときにはもう、ルーザーは食堂の裏口から飛び出していた。
レックはレッチェルに視線を向けた。レッチェルはいまだ状況が呑みこめないようで、おろおろと左右に視線を向けるばかりだ。
彼女をここに残しておくのはよくない。自分と一緒にいた彼女が疑われるのは目に見えている。
「行くぞ」
「え、ええ……」
レックはレッチェルの手を強引に引っ張ると、いまだ混乱する店内を走り抜けた。壁を蹴り壊して屋外に飛び出し、夜空の下を駆けていく。
レッチェルの息遣いは弾んでいた。それは決して、夜空の下を全力疾走しているからだけが理由ではない。
「なんか、キミと一緒だと楽しい」
レッチェルの口からは自然な感情が出されていた。前を走るレックの背中をいつまでも追いかけていたい気分だ。
「待て!」
レックが突如として急制動をかけた。二人は不審げな表情でレックを見る。
レックは鼻っ面に皺を浮かべ、険しい視線で周囲を見回していた。それだけで異常事態だと分かる。
「ど、どうしたの?」
「……血の匂いだ」




