月下 【2】
夜の中を足音が進んでいた。足音が硬いのは、足場がコンクリートだからという理由だけではないだろう。さりとて雑居ビルの屋上では誰かが聞き耳をそばだてているわけでもない。
星の光も呑みこまれる暗闇の中を歩くのは、フードつきのマントで全身を隠した人物だ。その出で立ちは夜が冷えるから、とするには少々大仰にすぎる。明らかに人目を警戒していた。
人物は落着きなく周囲を見回していたが、その視線がある一点で不意に止まった。まるで最初から気付くのを見越していたとばかりに、不自然なまでのさり気なさで紙杯が転がされていたのだ。
紙杯の底には黒い糸。糸はどういう原理なのか虚空へと伸びていき、夜の闇の中へと消えていた。
(糸電話か?)
そこで人物は眉根を寄せて困惑。
(…………いい年した大人がやっているんだぞ?)
人物は警戒しながら紙杯に近付き、注意深く拾い上げて、躊躇いがちに耳へとあてる。
『顔を見せろ』
聞こえてきた声は糸電話を介したことで不明瞭に掠れていた。
人物は指示に従ってフードの縁に手をかけ、素顔を外気に晒す。現れた顔はゼッペル配下の青年、レオシュ・ヴァン・ヴァルノレーゼだ。
『……昼間に見た顔だな』
今度ははっきりと分かる。昼間にゼッペルを襲撃した三人の一人、琶家人の男の声だ。
(つまり、どこからかこちらを監視しているわけか……)
そうと感付いても、レオシュは監視地点を探そうとはしなかった。交渉には信頼が第一だ。迂闊な行動で計画を破綻させたくない。
『ゼッペルの手下が情報提供なんて、一体どういう風の吹き回しだい?』
「昼間の一件で目が覚めたのさ」
レオシュはほとほと愛想がつきたとばかりに吐き捨てた。
「ゼッペルにとって、俺たちは替えの利く少々便利な道具でしかなかった。このゴルタギアを発展させたのも、道具工場を整備したにすぎなかったんだよ……っ!」
レオシュの声には怒りと憎悪がこめられていた。しかしそれだけではない。
「あいつは危険だ。生かしておけば必ずゴルタギアに災いをもたらす。いや、そもそもあいつがゴルタギアに現れたこと自体、なにかの計画の準備だった節がある」
信じていた存在に裏切られた絶望が、そしてゼッペルを生かしていては必ずゴルタギアを破滅させるという予感が、レオシュに反旗を決断させたのだ。
『それで、ゼッペルに唯一迫った僕たちに助け舟を求めてきたというわけか』
「笑いたければ笑うがいい。悔しい話だが、私にはゼッペルを打倒するだけの知力も武力も権力もない。私はこのゴルタギアで生まれ育った。街を愛しているとまでは言わないが、故郷に危機が訪れると分かっていて、ただ手をこまねいているつもりはない」
『笑わないさ』
天空から降りてきたフィフニの声は、レオシュへの共感に満ちていた。
『それに、どうせ僕らはゼッペルを討つつもりだったんだ。協力者がいるにこしたことはない。むしろ助かったくらいだよ』
「そうか。そう言ってもらえるとありがたい」
レオシュは懐から石鹸ほどの大きさがある塊を取り出した。《夢見る欠片》を真似して作り出された記録媒体だが、まだまだ技術不足で小型化も大容量も実現していない。
「ここに私が入手できうる範囲での、ゼッペルに関する全ての情報が記載されている。このゴルタギアに現れてからの主な経歴、政策や事業、懇意の人物、拠点の一覧などだ」
『その糸電話に固定しろ。こちらで回収する』
「ああ、分かった」
レオシュは記録媒体を紙杯に入れ、近くに置かれていた蓋をはめて金具で固定する。すると糸電話はするすると上昇を始め、やがて夜の空に吸いこまれて見えなくなった。
「…………頼んだぞ」
レオシュはつつがなく情報の受け渡しが終わったのを確認すると、改めてフードで顔を隠し、足早に屋上を去っていく。
一方、糸電話が消えていった先の夜空には長方形が浮かんでいた。黒い布と、黒く塗った竹で組まれた巨大な凧だった。凧からは黒い綱が地上に伸び、風に流されぬよう空中に固定している。
「さて、どうしたもんか」
黒い凧にはフィフニがぶら下がっていた。正確には凧の底面に足を着け、上下逆様に立っている。愛用の牛飼帽が落ちぬよう片手で頭を押さえながら、足を複雑に動かし、波乗りの要領で凧を操っている。
困り顔をしたフィフニの視線が上、夜の底に沈んで黒一色となった地上を見上げた。
「郷土愛に溢れたいい青年だとは思う。ああいう人間には、できれば生き残ってもらいたいものだけど……」
フィフニの目はビルの谷間を歩くレオシュの後ろ姿を見据えていた。遠く離れた地上の、しかも闇の中を見ているにもかかわらず、フィフニは望遠鏡も暗視鏡も使っていない。ただ、両目で凝視しているだけだ。
レオシュの背後にはさらに人影。数人の追跡者がレオシュを尾行している。レオシュの叛意はすでにゼッペルの知るところだったのだ。
「……手助けはしない。この窮地を自分の力で乗りこえることもできないようなら、どうせこの先の戦いで命を落とすだけだ」
フィフニの視線はレオシュの後ろ姿からゴルタギアの街に移った。人工の灯りに照らされた、星空のようにも宝石箱のようにも思える荘厳な夜景だ。
あの光の一つ一つに人々の生活がある。光の中の一つに家族の笑顔を見た気がした。
だが、煌々と夜空を塗り替える強烈な光は、同時に〝炎の日〟をも連想させた。フィフニの故郷と大切な人々を焼き払った、あの忌まわしい日を。
「故郷は焼き払われるものじゃないけど……」
その言葉は誰に言ったものだったのか。自分か、レックか、レオシュか、あるいは誰でもないどこかの誰かか。
「ボクに言わせれば、お前たちは焼き払われても文句は言えないな」
嫌悪感を口にしたフィフニの目の前では紙杯が揺れていた。地上から巻き上げた糸電話がようやく到着したのだ。
「さて、ボクの仕事はこんくらいでいいだろう。あとは気長に狼煙を待つとしますか」




