月下 【1】
夜空の中心には氷細工のような月が居座っていた。手を伸ばせば届いてしまいそうなほど近く、地上には凍えるような月光が降り注いでいる。
白い息が出そうなほど幻想的な夜の下で、レックは今にも泣き出しそうになっていた。
「なぜだ? どうしてこうなった?」
額を手で押さえながら、途方に暮れて呟く。
街路の左右からは棒がぽつんと突き出ていた。棒の表面には回路図のような幾何学模様が描かれ、その模様が淡い燐光を発して夜を照らしている。古代においてその棒がなにに使われていたのか定かではないが、今となっては夜間街灯以外の用途などない。
昼夜の寒暖差が激しい荒野では、夜に出歩く者など滅多にいない。すっかり人影もなくなった街灯の下、孤独な青年は今にも闇に呑みこまれてしまいそうだった。
「どこだここは?」
右を見ても道、左を見ても道、前も後ろも道。早い話、レックは迷子になっていた。
「ごめんなさい! ほんっとうにごめんなさい!」
レックの隣では、レッチェル・ロウ・サギナウルと名乗った女が平謝りに平謝りを重ねていた。頭を下げるたびに、結った桜色の髪が犬の尻尾のように上下する。
レックは一つ息を吐いた。謝る女を横目にしつつ口を開く。
「正直、道に迷ったのはお前が病院だ自警団だと騒いで追っかけ回したせいだが……」
そこでレックはレッチェルに視線を固定した。道理として、女が頭を下げると前屈みになる。前屈みになると、首元に服の隙間が生まれる。服の隙間からは、うっすらと汗ばんだ胸の谷間が目に入る。
「迷っちまったもんはしょうがない。面倒には慣れてるから気にするな」
レックは子供のように無邪気な笑顔だった。
レックは負傷の具合を確かめてみる。全身の傷はまだ痛むが血は止まっている。逃走劇の最中に鑑賞池に飛びこんで血染めは洗い流しておいたが、そういえば血染めの件はどうなったのだろう。変に蒸し返して追及されたくないので黙っておこう。
レックは話題を切り替えるように、ジャケットの内側から地図を取り出した。
「それよりも今はここがどこなのか特定するほうが有意義……なんだその顔は?」
「えっ?」
レックに怪訝な顔をされて、レッチェルは初めて自分がおかしな顔をしていることに気付いたようだ。慌てて顔に手を這わせて表情を確認してみる。どうも腑抜けた笑みを浮かべていたらしい。
「あの、キミもそんな風に笑うんだなあ、って。意外で」
こんな好青年に対してなにが意外だというのか? レックは怪訝な顔のまま地図に視線を向けて、さらに怪訝な顔で首を傾げた。
レックは地図を街灯に掲げて透かしてみたり、首を傾けて違う角度から眺めてみたり、地図を回して上下を入れ替えてみたり、裏返してみたり、地面に置いて股の下から覗きこんでみたり、体を逸らして逆様から見下ろしてみたりするが、謎は深まるばかりだ。
「そっ、そうだ! こういう場合はなにか目印になるものを探せばいいんだ!」
光明は見出したレックは周囲を確認。すぐに特大の目印が見つかった。
レックが見つけた目印は、ゴルタギアのどこにいても目に入ってくる巨塔だ。そもそもがゴルタギア自体、あの塔を目印にして発展した街だ。だから当然、地理的にも塔が街の中心にあることになる。
レックは早速、地図上から塔を探し出そうとして、
「…………どういうことだ?」
すぐに顔色が絶望に染まる。探しても探しても、地図には塔のように出っ張った部分が書かれていないのだ。それどころか地図の全体像は円形をしている。
円形…………まさかこれは、世界地図だとでもいうのか⁉
全くわけが分からない。涙が出そうだ。というかすでに視界が滲んでいる。
「うん?」
とそのとき、レックは地図の端に引っついた紙切れを発見した。紙切れは二つに折り畳まれていて、その表面にはナメクジが這ったような文字で『迷ったらこれを読め』と書かれている。筆を使って書かれたフィフニの文字だった。
「……あの野郎」
レックは目頭が熱くなるのを感じた。鼻を啜り、袖口で顔を乱暴に拭って、折り畳まれた紙切れを開く。次の瞬間、視界一面に広がったのは『迷ってやんの! バーカバーカ!』の一文だった。
「一瞬でも期待した俺が悪いのかああああああっ!」
レックは猛烈にブチ切れて紙切れを破り捨てた。絵面はいいのだが、所詮相手はすぐに破れる紙切れなので、怒りのやり場が半端なく不完全燃焼だ。
敵には追われ、道には迷い、仲間にはからかわれる。こんな生活もう嫌だ。レックの膝と心は折れる寸前だった。
「そうよ! こういうときは目印を探せばいいのよ!」
そのとき、レッチェルが光明に顔を輝かせて声を上げた。勝利の剣のように天高く掲げているのは惑星模型だ。
「このゴルタギアは高い塔が特徴の街よ。だから当然、地図上にも塔があるはず。つまりここよ!」
勢いよく言って、レッチェルは惑星模型の地軸を模した支柱を指差した。レックは呆れて失笑を零す。
「おいおい、なに言ってるんだ?」
レックはレッチェルの手元を覗きこむように顔を近付けた。レッチェルは同性の中ではそこそこ長身なのだろうが、レックはさらに背が高い。レックが膝を屈めてレッチェルの身長に合わせると、自然と二人の顔が近付いていく。
レッチェルの頬が桜色に上気していることにも気付かず、レックは伸ばした指先を球体の下から上へと持っていく。
「ゴルタギアは北半球にあるんだから、下じゃなくて上の棒だろ?」
「ああ、そっか」
レッチェルは理解したというふうに顔を輝かせて、しかしすぐに眉根を寄せる。
「あれ? じゃあ、下にあるこの棒はなに?」
レックは目を見開いて固まった。言われてみればその通りだ。
「……まさかこの塔、地下にも伸びているのか?」
「え? じゃあ、この地図の上半分は地上世界で、下半分は地下世界、ってこと?」
レックは衝撃を受けて息を詰まらせた。
(この女はなにを言っているんだ。天才か?)
それにしても、考えすぎたら腹が減ってきた。周囲を見回すと、おあつらえ向きに食堂からの明かりが手招きしてくる。
「なあレッチェル」
レックの指が前方に向けられた。腹が減れば飯を食いたくなる。目の前に女がいれば飯を誘いたくなる。女には後ろめたい事情があるので断りづらい。
「一緒にどうだ?」
これは至極自然な流れであった。




