瞳に浮かぶ戦火の記憶 【2】
救世主の振り下ろした手刀が橙色の粘液を切断。しかし数条、数十条の大蛇となった粘液の前では掠り傷ほどの意味もない。すぐに粘液の群れが殺到し、救世主が避けたあとの大地を破砕していく。
『そこを退いてくれ』
『言ったはずだ。貴様がそれを言うのは間違いだと』
橙色の男の放った蹴りが突撃槍のように救世主の腹部に叩きこまれた。救世主は口から苦鳴と唾液を飛び散らせ、橙色の男の脚を拘束。関節を破壊するべく捻りを加えるが、それよりも早く橙色の男自体が回転。回し蹴りが救世主の側頭部に襲いかかり、打撃の威力で救世主を無理矢理引き剝がした。
こめかみから銀色の血液を流しつつ後退する救世主を、橙色の粘液が追いかけていく。
大樹についた蕾が花を咲かせ、花が枯れて房が膨らみ、実った果実が熟して落下。錆色の人物の手が果実を摑み、実が割れて中から剣が現れる。錆色の人物が剣を一閃。剣圧が大地に亀裂を刻み、付近の人間が巻きこまれて肉塊となって飛散する。
次に落ちた果実は槍。錆色の人物が投げると、人海が真っ二つに割れて次々に血の花が咲き乱れていく。
大樹の実が割れるたびに刀剣や投げ斧、鎖鎌や鉄棍が出現し、錆色の人物が縦横無尽に刃を振るって人々を肉片へと変えていった。
『あの巨樹は葬星器の工場だ! 本体に武装はないぞ!』
兵士は声高に叫びを上げて、同じ口から血塊を吐き出した。
『……へ?』
疑問の呟きを発して兵士は絶命した。驚愕に見開かれた両目が最後に見たのは、自らの胸を貫いて飛び出した刃だ。
『いくら葬星器を作り出せようが、使い手がいなければ無用の長物でしかない。では、使い手をどうやって工面するのだろうな?』
頬を指先で支えつつ、錆色の人物は嘲りの微笑みを浮かべた。
絶命した兵士の体が傾斜して背後から襲撃者が姿を現す。その顔を目にして誰もが驚愕に息を呑んだ。
あろうことか、襲撃者の正体は自分たちと同じ黒い軍勢の一員だったのだ。
戦場のそこかしこで異変が起きていた。絶命したはずの人々が一人、また一人と立ち上がり始めたのだ。息を吹き返したのではない。彼らの四肢は引き千切れ、胴体には大穴が開いて内臓が零れたままだ。
巨樹の実が弾けて、飛び散った剣や手甲や銃の葬星器が死者たちの傍らへと落下する。死者たちは巨樹の葬星器に手を伸ばし、次の瞬間には味方目がけて走り出していた。
立ち上がった死者たちの首筋を貫く物体があった。大樹の小枝が死者たちの脳幹に突き刺さり、遠隔操作のための受信機となっているのだ。
人々は一瞬で恐慌に突き落とされた。ほんの今さっきまで隣に並んでいたはずの仲間が成すすべもなく命を奪われ、そして死した今は味方に襲いかかってくるのだ。
死者の顔が無表情であったならどれほど幸いだっただろうか。あるいは化物じみた不気味な存在にでも変貌していれば、仲間の死体と戦うことも割りきれていたかもしれない。しかし実際には、顔中に恐怖と苦痛と絶望を広げた死の瞬間の表情そのものだった。
『やめろ、くるな…………くるなあっ!』
『くそっ! どうして死者をこれ以上傷つけなければ……くそっ!』
『私だよ? ねえ、私が分からな……きゃあああっ!』
『できない! 俺にはできない!』
怒号を上げる青年の胸が貫かれ、死者の首を刎ねた男の胴が輪切りとなり、ただ涙を流して立ちつくす女へと刃が突き出される。悲鳴と怒号と狼狽は、瞬く間に黒い波濤となって戦場を呑みこんでいった。
葬星器を実らせ、死者を酷使する災いの世界樹が、戦場を地獄絵図に変えていく。
救世主は後退しつつ腕を振るい、掌から放たれた無数の黒い光弾が流星となって飛翔する。その前に立ち塞がるのは橙色。大量の粘液が橙色の波濤となって黒い光弾を阻み、受け止めて、呑みこんでいく。
さらに橙色の波濤が蠕動し、お返しとばかりに橙色の水滴が飛び出した。粘液でしかないはずの水滴は空中で急速硬化、高硬度の弾丸となって救世主の全身を穿つ。
口から苦鳴と鮮血を漏らす救世主へと、さらに橙色の粘液が追撃。救世主が繰り出す拳と光球を、粘液がしなやかな繊手となって受け流し、鉄壁の盾となって防御する。救世主の左脚に絡みついた粘液が複雑に変化して関節を極め、膝を破壊。粘液の先端が螺旋錐に変化して高速回転、救世主の左肩を貫く。
橙色の粘液の特性は変幻自在さにある。形状と、液体から固体までの形態、そして硬度を自由自在に操ることができるのだ。
『貴様こそこちら側に戻ってこい。我々の中の誰一人として、貴様と争いたいと思っている者はいないのだ』
橙の粘液が突如として弾け飛んだ。粘液に呑みこまれたはずの黒い光弾が急速膨張し、粘液を内部から食い破ったのだ。
『それこそ聞けない話だ』
飛沫となった粘液の向こう側で救世主が拳を握っていた。救世主の声はひび割れて、歪んでいた。
『なんなんだこれはっ! どうすればいいんだよっ⁉』
すでに黒い軍勢は総崩れだ。
赤と錆が戦力の大多数を削り取り、茜と藍が残党を掃討していく。人間の形を保てている死者はまだ幸いで、ほとんどは人体の一部や肉片となって散乱していた。
人々には戦意も冷静さも残っていない。統率も戦術もないまま、闇雲に突っこんでいっては蹴散らされる蜘蛛の子と成り果てている。悲鳴と怒号と絶叫が連鎖的に発生しては呑みこまれ、そして途切れていく。
救世主の口からぎりりと歯を鳴らす男が聞こえた。
『大切な仲間を奪い続けるお前たちの手を、再び握れると思っているのかあああっ!』
救世主が拳を突き出して橙色の男へと特攻。全身に黒い光をまとい、巨大な大槍となって突っこんでいく。
空中に橙と銀が舞った。橙色の粘液が刃となって放たれ、救世主の右腕を肩口で切断したのだ。力を失った救世主の体が一直線に落下していく。
『では仕方がない。兄弟たちの手を汚させぬため、俺が汚れ役を引き受けるとしよう』
悲壮な決意を表明した口からは血が零れた。橙色の男が視線を下ろすと、切断されたはずの救世主の右腕が自らの胸を貫いている。
救世主の右腕はさらに胸の奥深くへと突き進み、背中を貫通して飛び出した。拳には橙色の男の心臓が握られている。
力を失って落下する橙色の男の体を、滑りこんできた藤色の男が受け止めて回収する。
救世主の体が地面へと激突し、凄まじい轟音と砂埃が巻き起こった。地面は大きく陥没し、擂り鉢となった底で救世主が血の海に沈んでいる。
救世主の喉が動いて血塊が吐き出された。上半身が持ち上がり、全身から血を流しつつ、救世主は擂り鉢の斜面を登っていく。
救世主を巨大な影が呑みこんだ。救世主が天空を見上げ、巨竜の肩に乗った山吹色の男が地表を見下ろす。
「よくもヒャルヒルをやりやがったな」
凄絶な覚悟に満ちた視線と、激怒と憎悪の視線が激突。両者の中間で超新星爆発のような火花が弾けた。
『破壊する。何十年、何百年かかっても、全ての《葬星禁器》を破壊する』
『やってみろ。俺たちは何百年でも何千年でも作り続けてやる』
巨竜が口から雷を吐き出し、救世主も、黒い軍勢も、葬世者も、葬星禁器も、世界の全てが白く塗り潰される。
そこで映像は終わりとなり、周囲は暗い室内へと戻った。




