空色の夜に、天を背負う
空虚な黒一色の中心に、銀色の輪がぽっかりと浮かんでいた。
テンペランとソール王国との国境線に広がるオルスリスタル平原は戦いの最前線となっていた。戦争に突入した二国の先遣部隊が鎬を削る命の鉄火場だ。
にもかかわらず、あたりは奇妙なまでの静寂に包まれていた。闇夜だけが理由ではない。周囲からは生きとし生けるもの全ての息遣いが感じられないのだ。
月が異様に大きく見える夜空の下、少年は仰向けに倒れていた。
少年は傷つき、疲れ果てていた。全身に力が入らず、目を開けていることすらままならない。腹に開いた銃創からは命の滴とともに気力までもが流れ落ちて、乾いた大地に吸いこまれていく。
少年の視線が上に移動した。目に入ったのは月光の下で禍々しく浮かび上がる《天》の一文字。そして緋色で書かれたその文字を背中に刻んだ男の後ろ姿だ。
男の輪郭は異様だった。両手が巨大すぎるのだ。指の一本一本が腕ほどの太さと長さで、指先は足首にまで到達している。男の両腕に装着された巨大な手の葬星器は、人間に生えた翼のようにも思えた。
星の光すらない暗黒の闇夜にあって、男の頭上だけが真夏の鮮烈な青空のように色付いて見えていた。
天の男が巨大な指先を操って眼鏡の位置を直す、その仕草で少年の生存に気付いた。
「私が憎いか、少年よ」
少年と男の周囲には死が満ちていた。少年の仲間たちが物言わぬ亡骸となって月夜の下に晒されている。その数は数十人とも、数百人とも思えた。
テンペランの先遣部隊数百人が、たった一人の男の手によって全滅していた。
やめてくれと、少年は喉を張り裂かんばかりに叫んでしまいたかった。もうなにも考えたくないのに、意識を呼び戻さないでくれ。なにもかも失った少年は、せめて仲間とともに静かに死んでいきたかった。
しかし、男を見上げる少年の瞳には、内心の絶望に反して強い感情が宿っていた。
少年の瞳の光を見て取って、男の口元に笑みが浮かぶ。
「私への憎しみが生きる原動力となるのなら、明日への希望になるというのなら、存分に私を憎めよ少年。私は生きとし生けるもの、全てが愛しいのだ」
ふざけているとしか思えない言葉だ。誰も彼をも見境なく殺しておいて、なにを言っているのだろうか? しかし男の態度は戯言を口にしているそれではない。男の柔らかな笑みからは生命への慈愛が、力強い眼差しからは生命が逆境を跳ね返す不屈さへの期待が溢れている。
「どの口で、それを言った……」
少年が立ち上がる。満身創痍のどこに残っていたのか、体の奥底で煮え滾る力が少年を突き動かしていた。
「どの口で、それを言ったあああっ!」
怒号を迸らせた少年が男目がけて突っこんだ。
少年が銃を持ち上げ、引き金を引いて光の弾丸が飛翔。男は首を傾げて弾丸をやり過ごし、その先に剣が突き出されてきた。男は頭を下げて剣を回避し、さらに少年の膝が顔面に飛びかかってきたのを、上体を反らして逃げていく。
戻ってきた男は片手を天空に掲げていた。人差し指が一直線に振り下ろされ、少年の肩から胸、腹から腰へと駆け抜けていく。
噴水のように鮮血が飛び散った。少年の体が後方に傾斜し、再び仰向けに倒れてしまう。両手の得物を握る力すらなく、伸ばした手は虚空を摑むだけだった。
男の頬が綻んだ。異音が響いて、男の指の一本から火花が散る。少年から手痛い反撃を受けた男の顔には笑み。喜んでいるようでもあり、そして残念そうでもあった。
「指一本と引き換えか。まだまだ安い命だな」
男の手が動いて、顔にかけている物とは別の眼鏡を取り出した。男はなにを思ったか、その眼鏡を少年に向けて放り投げる。
「私の手がかりだ。その気があるのなら世界の果てまでも追ってくるがいい」
その言葉を最後に男の背が翻った。男の背に書かれた《天》の文字が徐々に遠ざかっていく。
男の姿が完全に見えなくなっても、少年の嗚咽が止まることはなかった。
この日、テンペランという名の国は、この地上から姿を消した。




