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ゆく年くる年

作者: 藤堂かのこ

 しゃべるウサギを追いかけて、滑って転んで気絶して、目が覚めたら朱い橋の上にいた。

 ぼんぼりみたいな光と白い雪が川の上で揺れている。橋の先には正面の大鳥居へ、まっすぐのびる大通り。両側には木造のレトロな建物が並んでいて、軒先に赤い提灯や「あま酒」「しるこ」と書かれたのぼりが揺れていた。扉はどこも外に向かって開かれていて、大通りには明るい光がこぼれている。

 笑顔で行き交うのは、厚手の着物や外套を着た、後ろ足で立って歩くウサギか、ウサ耳のついた大人たち。

「ここは……どこ?」

 不思議の国を期待してウサギを追いかけてきたのに、何でこんな温泉街に迷い込んでしまったんだろう。

 

 ことの起こりは、ほんの数時間前。私はお兄ちゃんと今年最後にして最大級の兄妹ゲンカをした。というのも、『紅白歌合戦が終わったら大人たちに内緒で除夜の鐘をつきに行くぞ大作戦☆』がバレたから。

「友達との電話盗み聞きするなんて最っ低なんだけど! 何でそういうことするの?!」

「お前が手伝いもしないであからさまにコソコソやってるからだろうが! 夜遊びは六年生には早い! 初詣ならうちの神社で十分!」

 お正月の準備でバタバタする大みそかの夕方。雪が降る中、本殿のど真ん前でケンカを始めた私たち兄妹を、お手伝いのご近所さんたちが微笑ましげに眺めていく。

 温かい視線を浴びながら、石畳の上で地団駄を踏んだ。

「だーかーらあ、初詣に行きたいんじゃなくて、除夜の鐘がつきたいんだってば!」

「九時には眠くなるやつが何を言うか! だいたい紅白が終わってから並んでも、除夜の鐘には間に合いません! もっと早い時間から並んでる人いるんだから」

「えっ、そうなの?」

「もっと早くから並ぶか? その場合、柚姫が好きなアイドルの歌は聞けないなあ」

「録画してあるし」

「今レコーダー壊れてるし」

「うそお! 何で修理してないの!」

「どうしようもないだろ、年末なんだから。だいたい、壊れたのはお前がアイドル録りすぎたせいだろ。お兄ちゃんは知らん」

「自分だって、少女時代録画してたくせに!」

「お、お兄ちゃんはいいの! それより、夜遊びの計画立ててないで神社の手伝いしろ。忙しいんだから」

「……っ! そうやって自分のことばっか! お兄ちゃんのバカ! 薄毛! 大っきらい!」

 そう叫んで、お兄ちゃんの石頭に雪玉を投げつけたのがクライマックス。

 結局、お兄ちゃんの許しはもらえず(というか、反対されると思ったから内緒にしてたんだけど)計画はおじゃんになってしまった。

「……楽しみにしてたのに」

 友達に泣く泣く断りの電話をして、庭に面した居間でむくれていた時、椿の植え込みの前で、何かが動いているのを見つけた。

 白く降り積もった雪の中、ぴょこぴょこ弾む雪色の物体が大小二つ。ぽってりした体に、南天みたいな赤い瞳。小刻みに動く、長い耳。

 ウサギ!

 神社の裏手は小さい森だから、イタチやリスが通ることはあるけど、ウサギを見たのは初めてだった。そっと窓に近付いて眺めていると、二匹は後ろ足で立ち上がって、長い耳をぴくぴく動かす。しばらく神社の方をじっと見てから、お互いに顔を近付けた。

「今年も準備は大丈夫そうですね、若」

「ええ。これなら問題なく年を越せそうです」

 子供みたいな幼い声と、おっとりした優しい雰囲気の声。それが、二匹のいる方向から聞こえてくる。 

 ううん、これは。

 ウサギがしゃべってる。

 ぽかんと眺めていると、突然振り向いたウサギ二匹とばっちり目が合った。弾かれたように二匹が走りだした時には私はもう、コートをつかんで庭に出ていた。

 不思議の国のアリスみたい!

 わくわくしながらウサギを追いかけて、雪が積もった椿の並木の中を駆けていく。ピンク色から朱色、紅へ、顔の横を流れていく椿の色が次第に濃く鮮やかになっていく。

 植え込み、こんなに長かったっけ? 

 そう思った瞬間、雪でサンダルが滑った。

 そのまま転んで植え込みに体ごと突っ込んで、そして今、気が付いたらこの状況。

「何か、全然アリス感ない」

「悪かったね」

「あ、さっきのウサギ!」

 男の子の声に振り返ると、欄干の下に二匹のウサギがいた。駆け寄って小さい方のウサギを抱き上げると、迷惑そうに目を眇める。

「気安く触らないでほしいんだけど」

 ……可愛くない。

「何でついてきちゃったのさ。さっさと帰りなよ。ここは人間の来る場所じゃない」

 可愛くない!

 ブン投げそうになったけど、その前に小ウサギは私の手の中から飛び降りてしまった。

「まあまあ、兎々。良いじゃないですか、少しくらい」

 そう言って、おっとり笑う大きい方のウサギさん。お。この子は性格も可愛いみたい。

「あなたのお名前は? 私は木原柚姫 (きはらゆずき)

 しゃがみこんで手を差し出すと、ウサギさんは小さい手を私の手の平にちょこんと乗せた。つぶらな瞳を細めて、ふんわり笑う。

桂兎(けいと)と申します。こちらは、下僕の兎々(とと)

 桂兎と、兎々。「と」が多いな。

「ここは十二月の町です。私たち卯年の神が、一年間の労を癒すために集まってくるんです」

「ウドシ、ってウサギ年のこと? みんな、ウサギの神様なの?」

「はい。位はそんな高くないですが、一応」

 振り返って、もう一度町の様子を見渡した。レトロな街並み、軒先で揺れる赤い提灯。二本足で歩く着物姿のウサギたち。期待してた世界とは違ってたけど、神様の世界と言われれば、それはそれで珍しい。

「年が明けたらどうするの?」

 桂兎を抱き上げて目線の高さを合わせると、兎々が「あー! おま、無礼だぞ!」と大きな声を出した。無視して桂兎の顔を覗き込むと、楽しげに目を細くする。

「次の町で宴会です」

「楽しそう! それ、私もついてって良い?」

「えええー!」

 桂兎が答える前に、またしても兎々が迷惑そうな声を上げた。身軽に欄干に飛び乗って、私に目の高さを近付けてくる。

「人間がぼくたちと一緒に行動するなんて聞いたことないぞ! 自分の世界で正月迎えなよ! てゆーか、下ろせよ、若のこと!」

「イヤ」

 むっつりと呟いて、桂兎を胸に抱きこんだ。

「どーせ帰ったってお兄ちゃんに家の手伝いさせられるだけだもん」

 十二歳年上のお兄ちゃんは、一昨年から私の親代わりになった。昔は優しかったのに、最近はあれしろこれしろそれするなと、ものすごくお小言が多い。

「絶対兄ちゃんの方が正しいぞ、それ」

「昨日までちゃんと手伝ってたからいーの! とにかく、レコーダーが直るまで帰らない!」

「れ、れこーだ?」

 難しい顔で首を傾げる兎々から視線を外して、もう一度桂兎を目線の高さに抱き上げた。

「ねえ、桂兎。せっかくだし、ここ案内してくれない? 他にも色々見てみたい」

「ええ。良いですよ」

「若ぁ!」

「私たちも年明けまではのんびりするだけじゃないですか。兎々、お願いできますか?」

 桂兎に優しく言われて、兎々は渋々といった様子で頷いた。

 せっかく若と一緒だったのに、とぶちぶち言いつつ欄干から降りると、もふもふの白い毛に覆われた肉球でびしっと私を指差す。

「言っとくけど、お前の為じゃなくて若に頼まれたからだからな! 満足したら帰れよ!」

「へいへい」

 兎々がくるりと宙返りすると、ベージュの五分丈パンツをサスペンダーで吊った、白シャツ姿の男の子になった。四才児くらいの背格好で、頭にハンチング帽を乗せている。

「可愛いー! ねね、桂兎も人間になれる?」

「え? あ、ええ、一応は。今は力が足りないので、ウサギの姿ですが」

「可愛い?」

「おっまえなあ、さっきから本当無礼だからな! 本来なら、若はお前が気安く抱っこできるような方じゃないんだぞ!」

「しゃべらなければ可愛いのにぃ……」

「まあまあ、そろそろ行きましょう」

 苦笑いする桂兎に促されて、兎々について橋を降りる。私たちに気付いたウサギたちは、会釈しながら笑顔で道を譲ってくれた。

「案内すると言っても、ここはそんなに広くないんですよ」

 兎々の小さい背中を追いかけて、夕暮れの大通りを歩く。ウサギたちが道を譲ってくれたこともあって、桂兎の言う通り、すぐ大鳥居の下に着いてしまった。

 雪をかぶった大鳥居の先は切り立った崖。岩肌を削るように幅の広い階段が頂上へ続いていて、ところどころにお社も見えた。

「大っきい……」

崖の先端は、雲の中に入り込んでしまって見えない。両端も森と雲に覆われていて終わりもわからなかった。崖というより、壁だ。

「何で、こんなところに鳥居があるの?」

「ここが次の年とつながっているんです」

「え。でも、崖だよ? 登るの?」

「年が明けたら、入口ができるんですよ」

 へえ、と呟いて崖を見上げる。年明けの瞬間を見てみたいと思ったけど、口に出すとまた兎々がうるさそうだからやめておいた。


 二匹と一緒に十二月の町を一回りして、大鳥居へ戻ってくる。一辺を崖に、残り三辺を森に囲まれた十二月の町は本当に小さくて、全部見て回るのに二時間もかからなかった、

 休憩しましょう、という桂兎の提案に賛成して、近くのおしるこ屋さんに入る。中は庭園に面した小さなお座敷で、部屋の真ん中に、白い石油ストーブが置いてあった。

 赤い三角巾と前掛けをつけたウサギが運んできてくれたおしるこを食べてぬくぬくしていると、雪で冷えた体が温まって、心地良い眠気が押し寄せてくる。

 もう、こっちに来てからどのくらい経ったんだろう。お兄ちゃん、心配してるかな。

「柚姫様?」

「あ、ごめん」

「眠いなら帰れば?」

 そう言う兎々の声は、子供をなだめる大人みたいで、今までよりちょっと優しげだ。

「お兄様もそろそろ心配されるのでは?」

「……しないよ。お正月の準備で大忙しで、私がいないことにすら気付いてないから」

 厨房のテレビからは、紅白歌合戦の音が漏れ聞こえていた。石油ストーブの向こうに見える庭園の雪景色が、音に合わせてゆらゆら揺れて見える。

「そもそも、何でケンカしたわけ?」

 答えようとしたけど、意思に反してまぶたがどんどん重くなってきた。膝を抱えて頭をのせると、抱きとめるように眠気が体を包む。

「……お守り、あげたかっただけ」

「柚姫様?」

 私を呼ぶ桂兎の声が、遠い。


 一昨年、お父さんが病気で死んで、お兄ちゃんが宮司さんの仕事を継ぐことになった。神社の収入だけでは食べていけないから、今までのお仕事も続けたままで。

 土日もお正月も夏休みもナシで働き続けたお兄ちゃんは、この二年で筆みたいにシュッとしてしまった。モテて困るなあ、とか言ってたけど、たった二年でふくふくした丸さをこそぎ落としてしまったあの痩せ方は異常だ。

 そんな時、隣町のお寺で除夜の鐘をついた人だけがもらえるお守りがあることを、近所のお姉ちゃんが教えてくれた。持っていれば、どんな悪いことでも遠ざけてくれる、すごいお守りだって。

 それをお兄ちゃんにあげたかった。お父さんやお母さんみたく病気にならないで、元気に過ごしてほしかったから。

 なのに。

「お兄ちゃんのわからず屋」

 頬に柔らかい感触がふれて、薄く目を開けた。焦点を結び始めた目の中には、小首を傾げて私を見つめる、桂兎の姿。

「すみません。起こしてしまいましたか?」

「……ここ、は?」

「お店の方が好意で貸してくださいました」

 そっか。私、あのまま寝ちゃったんだ。起き上がって見渡すと、神棚とテレビがあるだけの小さな部屋だった。お腹の上にかかった布団の隅っこでは、ウサギ姿に戻った兎々がぷーぷーと平和な寝息をたてている。

「そろそろ年が明けます。お帰りになった方がいいでしょう」

「……」

「心配させたい訳ではないのでしょう?」

 優しい声に口を開きかけたその時、下から突き上げるような揺れがあった。

「な、何何地震?!」

 そう叫ぶ間に大きな揺れになって、神棚の食器がガタガタと音をたて始める。

 慌てて桂兎と兎々を抱き上げた。頭の上に神棚から食器やお供え物が落ちてきたけど、呑気に痛がってる場合じゃない。

「若様! 兎々! こちらへ!」

 店員の声に従って、お店の外に飛び出した。その瞬間、大通りを包む闇の深さに、胸が嫌な音で鼓動した。

 さっきまで通りにあふれていたにぎやかさや、温かい光が何もない。ねっとりと、まとわりつくような深い闇が足元をなでる。

 ゆるゆると空を仰ぐと、見上げるほどに大きな影が町をのぞいていた。短く上がった悲鳴を口元を押さえて飲み込む。桂兎と兎々も緊張していることが、腕から伝わってきた。

 影は狐に似ていた。良く見ると体の表面がざわざわとうごめいていて、小さな影が集まって獣の形をとっているのだとわかる。

「化け猫」

 腕の中で、兎々が低く呟いた。

 ……化け猫?

 影はしばらく何かを探すように首を巡らせて、そのうち諦めた様子で森の向こうに消えていった。

 まだ微かに振動の残る地面にへなへな座り込むと、兎々が腕から抜け出して肩に乗ってくる。頬に触れるもふもふの毛が温かくて、ちょっとだけ安心した。

「帰るなら今だよ」

「帰らないもん! てゆーか、何あれ!」

「十二支に入れなかった動物たちの思念です。我々は便宜上化け猫と呼んでいますが」

 桂兎は眉間にしわを寄せる。

「あれは、厄です。人に憑くとその人に災いをもたらしますし、現世に化け猫がはびこれば、天変地異を引き起こします」

「嘘。あれ、私たちの世界にもいるの?」

「ええ。姿は見えませんが」

 余程強張った顔をしていたのか、桂兎は、私を安心させるように優しく腕を叩いた。

「大丈夫ですよ。現世にあれが入り込んでも、その年の干支が浄化しますから」

「若は強いんだぞ」

「今は、この中にいれば大丈夫です。彼らには町の中が見えない」

「若が守ってくれてるからなんだぞ」

「……わかったよ」

「お怪我は?」

 私の腕の中にいた桂兎が、心配そうに見上げてくる。背伸びして私の頬にふれるのが、ちゅーされるみたいでくすぐったかった。

「平気。桂兎は? 怪我ない?」

「大丈夫です。申し訳ありません。本来なら、私がお守りするところを」

 そう言って、しょんぼりと耳を下げる。気にしなくていいのに。頭をなでると、桂兎はされるがままになっていた。

「若様!」

 鋭い呼び声に、びくりと肩を上げる。振り向くと、眼鏡をかけたウサギが、つんのめりそうな勢いで走ってきた。

「何かあったのですか?」

 桂兎が私の腕から降りて進み出る。眼鏡のウサギは肩で息をしながら、私が最初に来た川の方を指差した。

「町が、崩れ始めています」

「まさか」

 桂兎のつぶやきを受けて、兎々がお尻の下から懐中時計を取り出した。星空が描かれた盤面が示す時間は、新年の十分前。

「何で……。まだ年も明けてないのに」

 緊迫した空気が漂う中、私だけが事態を呑み込めない。

「何? 何か、悪いこと?」

「柚姫様、今日兄上様は、神事の準備をされているのですよね?」

「え? うん。……多分」

 神社では毎年、大晦日の夜にかがり火を焚いて、三が日までずっと火を灯し続けている。今年も焚き上げの準備をしていたはずだ。

「何でお兄ちゃんが関係あるの?」

「兄上様が神事を行ってくれないと、年神様が目覚めないんです」

「……年神、さま?」

 聞き慣れない単語に、眉を寄せた。

「柚姫様の家が祀っている神様です。新年を連れてくる神であり、私たち干支が一年間人間を守れるように、力を与えてくれる神でもあります」

「つまり、神事が始まらないと、次の年に行けないで、ぼくら全員町と一緒にお陀仏ってわけ。下手したら化け猫のエサ」

 おだぶつ。化け猫のエサ。

「っええ! じゃあ、今一大事じゃない!」

「さっきからそういう空気じゃん」

 全然知らなかった。神事にそんな理由があったなんて。お兄ちゃんも、お父さんやおじいちゃんだって、きっと知らなかった。

 ううん、今はそんなことより。

「……ごめん。私のせい、だね」

 きっと、お兄ちゃんは私を探してくれてる。だから、神事が始まらないんだ。

「どうしたら、帰れる?」

 桂兎は神妙な顔つきで後ろを振り返る。

「柚姫様が最初に来た橋が一番の近道です。ですが、今は危険なので、どこか他の入り口を……」

 その時、桂兎の声を遮るように、橋の向こう側にある森が崩れ始めた。木々の先が沈むように見えなくなって、辺りに雪と煙が漂う。

「そんな時間ないよね」

「柚姫様?」

 怪訝な顔をする桂兎に笑ってみせてから、兎々を肩から下ろす。そのまま、呼びとめる二匹の声を振り切って、崩れ始める橋の方へ向けて走りだした。

 自分の家の神社が、何を祀っているのかも知らなかった。お兄ちゃんの仕事が、どんな意味を持っているのかも。

 それでも、ずっと続いていた神様との約束。

 それを、私のせいで壊せない。

 崩れる前の橋が見えてきて、歩調を緩めたその瞬間、濡れたサンダルが滑って体が前に傾いた。勢いが殺せないまま進み続けたその先、足元には、氷と雪の浮いた川面。

「げ。ちょ、やば。きゃああああ……あ?」

 口の中に雪が入ってきた。首を傾げつつ目を開けば、すぐ近くには椿の植え込みの影。

 ――……戻って来れたんだ。

「柚姫!」

 体を起こすと、お兄ちゃんが青い顔で走ってくるところだった。少ししか離れていなかったのに、今は、たまらなく懐かしい。

「お兄ちゃ……」

「こんのバカ柚姫!」

 思わず閉じた目をそろそろ開けると、ぼろぼろ泣いているお兄ちゃんの顔があった。ぽかんとする私を、乱暴に抱きしめる。

「お前、本当どこ行ってたんだ? 死ぬほど心配したんだからな!」

「ごめん、なさい」

 どれくらい私を探していたんだろう。耳にふれる頬が、凍らせたように冷たい。

 鼻の奥がツンとして、泣きそうになったその瞬間、私を抱きしめる腕が止まって、べりっと引きはがされた。

「はっ、こうしちゃおれん神事の準備! 田中さーん、田中さーん! 柚姫見つかったら、準備の続き! かがり火焚いて、かがり火!」

 ざくざく雪を踏んで、本殿の方へ走っていく。何よもー。せっかく感動したのに。

「あ! 私も手伝わなきゃ……」

 神社の方へ足を踏み出したその時、ざわ、と背中が粟立つような悪寒がした。雪の上に落ちる影が濃い。ぎこちない仕草で空を見上げると、雪雲が途切れて月が見えていた。しんしんと寒い夜空に除夜の鐘が響く。

 そこに、黒い獣の影がのぞいていた。 

「なん、で……?」

 間に合わなかったの?

 化け猫はゆっくりと辺りに視線を巡らせると、私には目もくれずに本殿の方へと進んでいく。あっちにはお兄ちゃんがいるのに。

「行っちゃだめ!」

 気付いたら、化け猫に雪玉を投げつけていた。じれったいほどゆったりと動きを止めた化け猫は、空洞だけの目を私に向ける。その、呑み込まれそうなほど深い闇色。奥歯が音を立てて鳴り始める。

「たっ、食べるなら私にしなさいよ!」

 桂兎や兎々や、町のウサギさんたちはどうしたんだろう。私がグズグズしてたから、町が崩れて化け猫がこっちに来てしまったんだろうか。だったら、私のせいだ。

 あんな我がまま言わなきゃ良かった。そうしたら、桂兎も兎々も、お兄ちゃんも、危ない目に遭わなくて済んだはずなのに。

 化け猫の前脚が上がる。踏みつぶされるのを覚悟して、きつく目を閉じた次の瞬間、体がふわりと浮く感覚がした。

 想像していた痛みは、いつまで待ってもやってこない。恐る恐る腕を外すと、星の瞬く夜空が間近に見えた。足元には雪を被った母屋の屋根。

 獣の咆哮に引かれて瞳が捉えたのは、真っ白な鎖に捕らわれた化け猫の姿だった。

「兎々!」

 凛とした声が間近に響いて、ウサギ姿の兎々が鎖を上っていくのが見えた。兎々が化け猫の口から中に入ると、服の裏表を返すように、影がくるりと反転する。化け猫は綺麗に消え去っていて、庭の真ん中にお腹がふくれた兎々がひっくり返っていた。

「た、食べちゃったの?」

「浄化したんですよ」

 ……消化。

「ご無事ですか? 柚姫様」

 おっとりした声に顔を上げると、綺麗な顔立ちの男の人が私を見て微笑んでいた。

 真っ白な長い髪を、緑色の組み紐でひとつにまとめて、白い椿のかんざしを挿している。白くて長いまつ毛に、赤い瞳。

「桂、兎?」

「はい」

 単衣の着物を着た体は細く見えるのに、私を抱き上げる腕は力強くて、身長もお兄ちゃんより大きかった。

「無茶をされる方ですね」

 困ったように、優しく笑う。

 私、桂兎も人の姿になったら、可愛い子供の姿なんだと思ってた。だから気軽に抱き上げたり、あんな、ぎゅうぎゅう抱きしめたりしてたのに。まさか、こんなちゃんとした大人の男の人だなんて。

「か、か、かかか」

「柚姫様?」

 綺麗な顔が私の顔を覗き込んできて、ますます恥ずかしくなってくる。

「可愛くない! 何でそんなごっついの!」

「ごめんなさい!」


「とにかく、ご無事で良かった」

 庭に下ろしてもらうと、兎々が重そうに走り寄ってきた。

「何で今まで人にならなかったの?」

「力が足りなかったんです。町を守るための力も、とっておかないといけなかったので」

「あ、そうだ! 他のみんなは?」

 訊くと、桂兎は口元に人差し指を立てる。

 ハテナを浮かべて桂兎の視線の方に目をやると、神社の向こうに十二月の町で見た崖がそびえたっていた。

 お兄ちゃんも初詣で並ぶ人たちにも、突然崖が出現したことに驚く様子はない。

 誰にも見えてないんだ。

 すると、鳥居の向こうにそびえていた崖が、階段の周りだけを残して崩れていく。らせん状の岩が下から身震いするようにのたうって、並べたかるたの裏表を返すように、灰色の向こうから鮮やかな緑の鱗が見えてくる。

 空中に現れたのは、巨大な生き物の姿。

「……龍」

 ゆったりと上空をまわってから急降下して、地面をなめるように飛んでいく。龍が通った場所から現れてくるのは、雪舞う十二月の町。

 現世と、不思議が交わっていく。

「新年だ!」

 誰かの叫び声を合図に、大通りにいた兎たちが、踊るように走り出していく。大鳥居をくぐって、階段のあった場所を道しるべに、空へ昇る。雪に混じる金色と赤の紙吹雪。

 賑やかに、新しい年を祝う列が空を駆ける。

「……すごい!」

 興奮して桂兎を見上げると、ものすごく優しい瞳で私を見つめていた。胸が小さく鳴って、慌てて目を逸らす。

「若。ぼくらもそろそろ」

「ええ。そうですね」

「え、どこ行くの?」

「こことはまた別の兎年に」

 わけがわからなくて首を傾げる。兎々が平行世界やら時間軸やら得意気に説明してくれたけど、何のことかさっぱりわからなかった。

 ただ一つ確かなことは、二匹がどこか私の知らない遠い遠い場所へ行ってしまうこと。

「もう、会えないの?」

 私の泣きそうな声に二匹が顔を見合わせる。

「別に平気でしょ? 本当なら、最初から会わないはずだったんだし」

「兎々」

 たしなめるような桂兎の声。しょんぼりしていると、兎々が頭の上に乗ってきた。

 う。お、重い。

 うなだれた視線の中に、白いお守り袋が落ちてくる。赤い組み紐がついていて、私の首にかかっていた。……これ、は?

「やる。アンタの兄ちゃんに」

 ハテナを浮かべて目線だけを上げると、目の前で桂兎がふんわり笑う。

「中に兎々のひげが中に入っているんです。きっと、災厄を遠ざけてくれますよ」

 化け猫を浄化した光景がよみがえる。隣町のお寺がくれるお守りより、ずっとずっと効果がありそうだった。

「ありがとう……!」

「べっつにー」

 兎々が頭の上から降りてくると、桂兎は優しく微笑んで、自分の髪から白い椿のかんざしを抜いた。

「私からは、これを」

 目線を合わせるように膝まずいて、私の髪にかんざしを挿してくれる。

「また十二年後にお会いしましょう。柚姫様」

 干支がくるりとまわって、また彼らの季節が巡ってきたら。

 ゆるゆると、顔に朱がのぼってくる。嬉しくて、勢いよく頷いた。

「うん! きっとね。約束!」

 私に柔らかく笑んで、桂兎と兎々が背を向ける。そのまま、見えない階段を上って、空の列へと戻っていった。

 二匹を迎えて、一層賑やかになるお祝いの行列。一団が見えなくなるまで、私はずっと空を見上げていた。


 目が覚めると、こたつ布団の中にいた。

 ストーブにのせたやかんがしゅんしゅん音をたてていて、部屋の中は温かい。テレビからは、お正月特番が流れていた。

「……夢」

 体を起こすと、胸元から首にかけたお守り袋がこぼれる。カゴの中には、みかんと一緒に椿のかんざしが挿さっていた。

「じゃない」

 取り出して目の前にかざすと、元旦の清らかな日射しを受けて部屋に散らばる七色の光。

「また、十二年後」

 小さく笑ってから、まとめた髪にかんざしを挿した。

 さて。ちゃんとお手伝いしないと。新しい神様が守ってくれるこの年が、素晴らしいものであるように。

 新年、あけましておめでとうございます。

                   





コバルト短編賞で最終に残していただいた作品です。

最終候補とはいえ、まだまだ課題盛りだくさん。

もっと楽しい作品が書けるように頑張ります。

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― 新着の感想 ―
[一言] はじめまして。 とてもキュートな物語ですね。わくわくしながら最後まで一気読みしました。とても面白かったです! 柚姫さん、桂兎さん、兎々くん、お兄さん、皆優しくて、ほっこりしました。 後半の盛…
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