184話:剣帝の行く道
SIDE.SHIZUHA
わたし、花月静巴は、蔵書室の地下に広がっていた広い何もない部屋を見つけたので、そこで剣の修行をすることにしました。本来なら、魔物や獣との実践で勘と力を取り戻したいのですが、このご時世にそんな都合のいい場所は中々なく、泣く泣く部屋で剣を振ることにしたのです。
そもそも、かつて、幼少の砌は、ナイフを使い、ナイフでは小さすぎて急所を狙うしかなかったので、それ以外でも致命傷を与えられるように短剣に。体の成長に合わせて、短剣だけでは不十分になり、弓とサブウェポンで短剣に、そして、遺跡の奥で、神より連星剣を授かり、大剣を使うようになったんです。
それは、確か、齢6か7の頃だったとは思いますけどね。その時点で、戦わないといけないほどに当時の環境は劣悪だったんですよ。
まあ、小学生になりたての子供が大剣を持って暴れまわってたという感じですかね。当時の識字率は低く、勉強するよりも生きることを学べ、という御時世でしたからね、それを止める人間はいませんでした。
魔物と殺し合う、それは、生死にかかわることで、あえて選択するのは親も魔物を殺しているか、よほどの変わりものか、ですね。普通なら信司のような鍛冶の道を究めて、武器や生活用品を生産して生きていくことを選ぼうとするんです。でも、それが自分に向いていなかったり、自分の作るものに需要がなかったりするとその道を諦めざるを得ない。そうして、生きるために、男は魔物を狩り、女は強い男の物になる道を選ぶ。
むろん、わたしは、魔物を狩る道を選びました。そして、ひたすらに、魔物を狩って狩って、殺して、喰らって、とにかく生き延びてきたんです。
そうして、わたしは、剣を磨いた。
剣の道と偏に言っても、その道には数多のものがあるのです。
美しさに重点を置いた剣技を磨く、剣舞。男女ともに参加して、美というものを極めるために、強さや効率よりも、華やかさが求められます。
基本と布教に重点を置いた剣の型を磨く、剣術。主に男が参加して、忠実に同じ型を繰り返し、技術を磨くため、覚えやすさなどの効率が求められます。英司などはこのタイプの人間ですね。
剣を使うのではなく打ち鍛えるための腕を磨く、剣鍛冶。主に男が参加して、剣を振るうのではなく剣を打つ。これも立派な剣の道です。ただ、戦力にはなりませんし、凄い一品を造るということは、諸刃の剣でもあるという危険な職業なのです。逸品を造れば、それほど、その剣は長く使われます。つまり出回ってしまえば売れない、過酷な道なのです。信司はこの道を選びましたね。
鋭さと素早さに重点を置いた殺人を磨く、暗殺術。男女ともに参加して、いかに殺すかという点においてを極めるために剣から毒、時には己の身体すらも武器にするものですが、一応、剣の道ということにしておきましょう。当時の暗殺者には剣使いが多かったですしね。
そして、ひたすらに生きることに重点を置いた剣そのもの。剣術でも剣技でも剣舞でもなく、ただひたすらに戦うための剣であること。振るうのではなく、剣として、敵を殺す。斬る、刺す、叩く、生きるために、どんな方法をも用いて、ひたすらに倒すのです。
わたしは最後の剣として生きてきた、に当てはまる人間ですね。剣として生き、剣として死んだ、それがわたしの人生でした。
そうして、磨き上げた剣は、正直に言うと、剣と言えるほど美しくはなく、荒々しく野蛮な、それでいて鋭く、そんな剣として生きていたのです。
尤も、その牙を研ぎ、生に執着し続けた、剣の人生は、信司と英司の2人に出会ったことで終わりをつげ、剣帝として、そして、女としての人生を歩みだしたのです。
連星剣を娘に託してからは、刀を主流にしていたし、刀を用いた戦いは、剣を用いた戦いとは異なり、抜刀からの斬り殺しで仕留められるから戦い方そのものが違うのよね……ですよね。
だからこそ、再び戦いに身を置く、この時分、わたしには《古具》というアドバンテージもなく、むしろ、《古具》使いに対しては劣っています。それを打開するには、わたしが唯一、頂点に立つことのできた「剣」以外にはないのです。
造る側の人間になる前に、戦いに勝たなくてはならない、それがわたしが今回だした結論なんですよ。青葉君はきっと、ここにいる間に相当鍛えるはず。それに負けてしまうようでは、わたしはただの使えない存在にすぎません。だからこそ、剣を振るう。
青葉君がわたしに渡したこの【魔剣・グラフィオ】は、相当な業物。それこそ、連星剣には及ばないものの、十分に強い剣です。だから、わたしは、この剣で、あの頃の静葉へと戻る……ううん、あの頃のわたしを越えてみせる。
野蛮で獰猛で猪突猛進な剣から、それを完成させる剣技へと昇華させて、それを己がすべてに刻み込む。そうして、初めて、わたしは静葉へと追いつけるんですから。
剣技や剣術、剣舞を凌駕する剣……それを本来の意味での剣技へとすることができれば、それは、どんなものすらも及ばない、神剣技の域へと達せるはず。
神剣技。それは、この全ての世界で唯一人が、その域に至ったと言われている剣技の最高位のことです。その唯一至った人物は不明とされていますが、その剣は、一撃で地を砕き、振るうだけで大気が裂け、構えるだけで人は慄き、その剣を扱う姿を見た人間は誰しもその美しさに目を奪われるという。
わたしもその域に達しなくてはならない。だからこそ、ひたすらに【魔剣・グラフィオ】を振るうのです。神にも届く剣技へと昇華させるために、ひたすらに……。
「ハッ、セイッ、ヤァッ」
声を出すことで、勢いがつくのと、力が入ります。そして、技の名前、それには特別な意味があるのです。技に名前を付けるということは、それに対する愛着や特別なものという思いが出て、そして、それは、強さにつながるのです。
伝えやすさ、という意味でも、そして自分が使うという意味でも、必要なもの。技に名前がついているのは、そういうことなのです。
そして、わたしはいまだに、剣技自体にも技にも名前を付けていません。それに、わたしは、実践では「勘」などの野生力……第六感というのを使って行動するほうが多かったので、型に嵌ったものを使うのは苦手な節があった影響か、どちらかというとそういうのも得意な静巴の方も苦手になってきているようです。
実践において、野生の勘というものを馬鹿にしてはいけません。それはある種の戦闘経験を積んだものにものにのみ与えられる、実体験などからくる推測を脳が自動で判断しているものなのですから。
闇雲な勘ではなく、生きるための本能とでも言うべき勘は、必ず自分の助けになるのです。そして、わたしは、それで生きてきた。それだけで生きてきたわけではないけど、それを使って生き延びてきたのです。
剣術の型をマニュアルだとすると、今までのわたしはマニュアルを無視してある程度の経験則で対応をしてきましたが、今はマニュアルを詰め込まれている最中です。そして、理想はマニュアル対応をこなしつつも、いざというときはそれを捨てて、きちんと動ける人間というバイトの理想のようなものです。
でも、理想というのは中々に届かないもので、おそらく、わたしにそれはできないのでしょう。ならば、とにかく、振って振って、振りまくってあの頃の勘だけでも取り戻して、どうにかする。
幾度、剣を振っただろうか。幾度、地面に傷をつけただろうか。幾度、昼夜が過ぎただろうか。それすらも分からないくらいずっと振り続けた。
そうして、わたしは、ふと思うのです。
――英司はどんなふうに剣を振っていたっけ
英司は英司の生み出した型を使っていた。けれど、あれは、あくまで型、実践とは違う、とよく言っていました。ですが、それでも、わたしよりも、英司は神剣技に近い位置にいたのではないでしょうか。
たとえ、実践でわたしに負けていようと、彼は、剣技を磨くという一点においては、わたしを確実に超えていましたからね。
なら、実践で英司よりも強いわたしがどうして、たどり着けないんでしょうか。いえ、もしかすると、この苦悩こそが大事なのかもしれませんね。
神剣技、……もしかしたら、わたしには決してたどり着けないものなのかもしれません。
それでも、そのために自らを研磨していくことこそが重要なのかもしれません。だから、やっぱり、ひたすらに剣を振るうしかないのでしょう。でも、時折チラつく、英司の影。それを真似るように、影真似のように剣を振るう。
それはまるで、英司とともに修行をしているかのような、英司もわたしが信司のためになることを望んでいるような、そんな気がしたのよ……。
結局、わたしの修行はここを出る最後の日まで続いたのですが、神剣技へは至りませんでした。それでも、わたしは、どこか、強くなったようなそんな思いを胸に秘めていたのでした。