隣の席の福沢諭吉
灯夜様企画・場所小説「授業中の教室」に参加した作品です。
歴史面において、間違いがありましたら訂正のために報告ください。
空が黄昏に染まる頃、俺はその場所で腕に顔を埋めていた。夕焼けがとても暖かく、服と触れている頬はすぐに熱くなった。
懐かしい香りが鼻腔をくすぐる。あの日の木の臭い、あの日の白いチョークの粉っぽさ、あの日の窓からの景色。あの日聞いた友人の声だけが、その場になかった。
人というのは皆黒い。だがそれは仕方ないことだ。白という色は、いずれ穢れ、その純粋さを失っていくもの。
胎児の頃は穢れを知らぬまっさらな白。しかし、年を経ていくたびにだんだんと黒ずんでいき、大人になったら黒が白以上を占める。だから大人は子供時代を美化する。それは黒い自分が憧れる白だった時代だから。
だから「あの頃は」などと言葉を漏らす。
俺も例外ではなかった。
ならば思い出そう。思い出を、穢れ無き白の時を。
―――
重なるは、窓から見下ろすグラウンドだった。
先生が黒板に走らせる音が酷く眠気を誘う。
『閑さや、岩に染み入る蝉の声』という松尾芭蕉の有名な俳句があるが、これはきっと状況で翻訳すると『チョークの音も、慣れ親しめばうるさく感じず、風流だ』なんてことにならないだろうか。
その風流を下らないお経みたいに捉える俺は、今日も机に突っ伏して腕に顔を埋める。
(面白くない)
授業中の教室は、隣の席の子の呼吸が大きく聞こえるほど静かだ。見てみれば凄い、隣の女の子はあの仏教信者の催眠光線をもろともせず、黒板を食い入るように見ている。
何がそんなに面白いのだろうか。
俺も視線を移して、黒板を興味も無いのに見た。が、視力が悪くて見えたのは白い粉の集合体だけ。眼鏡を取り出すのも面倒くさい。だからまた俺は突っ伏す。
そうしていたら、トントンッと俺の肩に有り得ない感覚が走る。隣の子に肩を叩かれていた。
「ねぇ、そんなに寝てたら授業分からなくならない?」
余計なお世話だ。俺は元より授業を受けに学校に来ている気など無い。
気だるげに突っ伏していた顔を上げて、女の子を見る。同じクラスになってから長い間経つが、申し訳ないことに名前が分からない。本当に怠惰な生活を送っていたようだ、俺は。
「そういうお前こそ、そんなに授業受けてたら眠くならないか?」
それに彼女は首を横に振った。
そりゃ凄い。あんたはきっと催眠術師に対抗できる人類初の女子学生だよ、まったく。その言葉を飲み込んで、笑顔で言う言葉に耳を傾けた。
「だって授業面白いじゃない。歴史とか、科学とか、知識の宝庫よ」
おお、度肝を抜かれるぞこれは。廃れた現代っ子に、これほど素晴らしい考えをお持ちの学生がどれだけいるだろうか。少なくとも、このクラスにはこの女子生徒しかいないだろう。いや、もしかしたら学校中探してもそうはいないだろう。
考えてもみろ。選挙活動に興味を示す若者が少ない時代だ。そんな我ら若者が将来の役に立つか立たないかも分からない授業に耳を傾けるとでもお思いか政治家。少なくとも良い大学に行きたい人は、建前として仕方なく勉強はしているだろうが、一体何処の誰が興味があるだなんて言葉を口に出来ただろう。
「ふ、良く聞け少女。世界に必要とされているのは、知識じゃなくて知識を知恵に変えて、苦難を乗り越える力だ」
格好つけて人差し指を立てる。別にうんちくを立てているわけじゃない。ただ俺の信ずる言葉だ。
けれども俺の横でシャープペンシルを握る彼女は、それに呆れたようにふぅ、とため息を吐いた。何が悩みだ、聞いてやるぞ。
「分かってるなら授業受けなさいよ。その知識を知恵に変える前に、変える為の知識が無ければ話にならないじゃない。そのための準備期間みたいなものよ、この教室の意味は」
反論の言葉がそれに浮かぶはずも無かった。図星というか、それは俺も考えていたことだ。
だからと言って納得していたのなら、俺は彼女のように黒板に恋する乙女になっていただろう。しかし現実は違う。俺はこうして外を走る先輩の体操着を眺める毎日。ホント下らない。
「ねぇ、将来の夢とか、ある?」
視線を外した俺に間髪入れず聞いてくる。
そんなに俺が心配なら、俺の嫁になって養ってくれ。……いや冗談だ。
しかし聞かれた質問に長らく考え込む俺がいた。将来の夢などと、小学生の自己紹介にも書かされそうな質問に簡単に答えられない。つまり、今の俺は小学生より将来設計がなっていないと、そういうことか。
「将来の夢、ねぇ……。昔は消防士とか、野球選手とかあったけど、今になっては現実味がありすぎて良くわかんねぇよ」
それが俺の答え。
すると彼女は失望したでもなく、だからと言って納得したわけでもなく、何故か考え込むように顎に手を置いていた。いや、本気でそこまで悩んでくれるなら嫁に来て。……いやホント冗談。
「実は言うと、あたしも無いのよね。こう漠然としてるっていうか、ふわふわした将来設計とかはあるんだけどね」
「なんだそりゃ」
随分とおかしい表現方法を使うものだ。ふわふわしたって、泡か?ならあんたの将来は不安すぎるよ。
「でもよ。だからこそ授業は必要なの。将来のこととか、決めるのに一番良いのはこうして授業を受けて、考えることなのよ」
そう結び付けてきましたか。
しかも今度は自信ありげに胸を張って言ってきた。おや、なかなかあるじゃないですか。
とは言え、随分と説得力のある言葉を吐いてくる。頭上から落とされた言葉という名の滝は、逃げることを許さないようである。つまり受け止めるしかない。それが意図的であろうが、なんだろうが。
「あなた、授業は義務だとか、仕方ないからとか思ってこの教室にいるでしょ?それだからダメなのよ〜。良い?そんな観念に囚われちゃダメ。もっと自由的に考えるのよ」
いつしか俺は、彼女の言葉に耳を傾けるようになっていた。これを確か自発的、と言ったか。
彼女の話はどれも他の生徒からは聞けない話ばかりだった。政治の話とか、世界史の話とか、日本史の話とか。でもどれもが『教育』についてだった。そこまで俺に勉強させたいのかこの女。
彼女曰く、
「いっつも隣で寝てるから、危なっかしくて仕方が無い」
ということで、俺に声をかけたらしい。
しかしなんなんだこいつは、学問のすすめでも書くつもりか?勢い的には、いきなり『天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり』とか言いそうな感じだ。あれ福沢諭吉の言葉じゃないんだよな。
確か平等に世界は出来ていても、そうやって差があるのは学問を学んでいるか否かにあるとかなんとか。ああ、考えれば考えるほど学問のすすめに似てきたぞ、こいつの話。
しかも語るのに熱中して授業を聞いてない。本末転倒じゃないかこれ。
でも、それでも聞き入る俺がいた。時計を見ると、無情にもチャイムの時間が迫っていた。
どうしてだろうか、その時間が惜しく感じたのは。
授業終了のチャイムが鳴ると、自分がいかにして興奮していたのかに気付いたらしく、顔を赤らめて一礼してから友達のところへ駆けていった。何がしたかったんだ。
だが彼女の言葉は響いた。
その日から俺の授業に対する見方というのが変わっていった。義務とか、仕方なくとかではなく、興味があるからとか、きっと利用できるとか、目測の無い希望を添えて教室に入る。
あの頃清閑だった授業中の教室は、今やうるさいほどにチョークの音が鳴り響いていた。
―――
知っているだろうか。
大人になれば皆が言う言葉。『子供の頃、ちゃんと勉強しておけば良かった』。
それは代々自分の子供へ孫へ言い伝えられるが、誰も子供時代にそれを聞きはしない。耳に入ってもはいそうですかで終わる。その子も大人になったら、やっぱり勉強しておけば良かったのだと後悔する。つまり無限ループだ。
俺も例外ではなかった。
だから俺も後悔する……はずだった。
世界を変えてくれたのはあの日の授業の風景。隣に座る女の子の言葉。その雰囲気を出してくれた教室。うるさいチョークの音。
あの頃は本当に白かった。だからああやって他人の色に左右されることが出来る。良くも悪くもあるが、どうやら俺は賭けに勝ったらしい。
今いる場所は、その時に座っていた席だった。窓からの景色が良くて、席替えとか真っ先に志願していたことを思い出す。
俺は教師になった。何を教えているかと聞かれると、表向きは社会だが、そんなものを教えるつもりは無い。俺は彼女から教わったことをそのまま彼らに伝えようと、この道を進んだ。
きっと日本中の子供がこんなこと考え始めたら、そりゃもう教育の天国と成り果てるだろう。
でもそれは叶わないと俺は知っている。何故なら、人は天の下に平等であるが、学問を学んでいるか否かで人間的価値が変わってきてしまうからだ。つまり、やる気の問題。
こんな一言でかの有名な福沢諭吉を片付けて良いのか分からないが、教えるに関して簡単という言葉ほど適したものは無い。ならそれでいいじゃないか。
俺はポケットから一万円札を取り出した。夕焼けに当ててみると、諭吉が真ん中に出現。
「あんた、あの女に似てんじゃねぇの?」
似ているわけが無い。もっと胸がでかかった。そんな下らないツッコミを入れてみる。
その時俺の見た錯覚は、どうにも笑えない。
―――真ん中に、あいつの顔が浮かんで見えただなんてな。
ふと横を見たら、彼女がいただなんて有り得ない空想を思って向いてみたけれど、そこにあるのはチャイムが鳴ったあとの彼女の席だった。
あの日の授業中の教室は、もう無い。
けれど、これから俺があの日の教室を再現する。
席を立った俺が、一万円札をそこに落としていってしまったのに気付くことは無かった。